見出し画像

5.エホバの証人の教理の考察⑬「高等教育について」~その2

前回の記事があまりに長くなったため、2分割して書いております。

最初に、「その1」の冒頭に掲載しました「エホバの証人の高等教育への考え方」の囲みを再度挙げておきます。

再掲【囲み2】エホバの証人の高等教育への考え方

1.教育は、あくまで自活や宗教活動のためである
高等教育は手に職を付けるには役に立たない。
2.「不健全な考え」に汚染される
高等教育によって不道徳や不信仰に汚染される恐れが高い。
3.「差し迫った終末」を信じているため、教育は必要最低限にすべき
若い時を「余分な教育」で「浪費」すべきではなく、伝道活動を中心に生活設計をすべきである。

では、引き続き高等教育の問題について考察してゆきます。(章節の番号は前回からの続きです)。

4-3.「『差し迫った終末』を信じているため、教育は必要最低限にすべき」という見解について

この問題は、このnoteで何度も言及してきたことですが、エホバの証人の問題の固有性は特にこの教義に起因します。保守的なクリスチャンの中にはエホバの証人以外にも高等教育に否定的な教派や個人は存在します。それは主に前回考えた2つめの点「不健全な考えに汚染される」ということが主な理由でしょう。しかし、エホバの証人の場合、この終末論に関係した教え故に否定的であると言う点が非常に特徴的です。この問題を深刻化させる最も大きな要素でもあります。

ちなみに、エホバの証人自身は「終末論者」ではないと主張します。

エホバの証人は,終末論者ではありません。100年以上にわたって将来に関する積極的なメッセージを伝えてきたからです。

ものみの塔2015 5/1 7ページ 終わりは近い?

カテゴリーとして安易に分けられるのを嫌っているのはわかります。しかし、「終わり」を信じ強調するのは結局「終末論者」です。その「終わり」の後が、核による荒廃であろうと、天国へ挙げられることや楽園であろうとある意味では同じです。もちろん、エホバの証人の場合は、それが「救いの時であり、待ち望むべき時」であるということは(とりあえず)理解しておくべきでしょう。

「その1」の冒頭ではエホバの証人の高等教育に対する見解をいくつか引用しましたが、ここでは特に「終末と教育」を結びつけた記事をいくつか引用したいと思います。

彼らは聖書の預言の成就から、今日の工業社会が終わりに近づいていることを知っています。... ですから、エホバの証人である親は子どもたちを今日のいわゆる“高等”教育から遠ざけることにより、ますます堕落していく環境に子どもをさらさないようにすると同時に、新体制での生活のための準備をさせているのです。

目ざめよ! 1971 8/22 p3–8(太字筆者)

この世的な職業はすべてまもなく終わりを告げます。... では、今日の若い人たちが、決して訪れることのない将来のための『高等教育』に関心を持つべき理由がどこにあるのですか

ものみの塔 1971 12/15 p751–757(太字筆者)

これらは特に1975年に「終わりが来る」と信じていた時代までに公開されていた情報です。しかし1975年の「予言」が外れても、上記の原則はまったく変更されませんでした。高等教育への見解を変更することは、終末の緊急性を否定することにもなるからです。以下の2000年代の記事からもそのことは分かります。

終わりが近いという確信が欠けている人は,エホバが言ったとおりにならなかった時のための代替計画を立て始めるかもしれません。... そして、この世で名声を得ようとしたり、神の王国を第一にするのではなく経済的な安定を求めたり、快適な生活を保証するものとして高等教育を信頼したりするかもしれません。

ものみの塔 2012 9/15 18–22(太字筆者)

若い皆さんは担任や進路指導の先生などから、高等教育を受けて良い仕事に就くよう勧められたかもしれません。エホバは、あなたが学校で一生懸命に勉強して、自活できるようになることを望んでおられます。しかし、人生で何を第一にするかを決める際には、この終わりの時におけるご自分の目的やご意志をよく考えるよう勧めておられます。エホバは世の中がどうなるか、終わりがいつ来るかを知っておられます。あなたのこともよくご存じです。どうすれば幸せになるか、どうすれば不幸になるかを知っておられます。ですから、人間のアドバイスがどんなにもっともらしく思えても、神の言葉を無視したものなら、本当の知恵とは言えません。

日ごとに聖書を調べる2020 5月15日 引用聖句割愛(太字筆者)

エホバはどんなことを望んでいるのでしょうか。例えば、私たちが 「エホバの日が来る[こと]についていつも考え」 るようにと願っています。 (ペテ二 3:12) それで、次のように自問してみましょう。 「自分はこの体制の終わりが近いことを意識した生き方をしているだろうか。 教育や仕事を選ぶ時、エホバに仕えることを第一にしているだろうか。 エホバが自分や家族に必要なものを 与えてくれる、と心から信じているだろうか。 それともお金や物のことをいつも心配しているだろうか」。 エホバの考えに合わせた生き方をするなら,、エホバはとても喜んでくれます。

ものみの塔2023年1月研究用p9(太字筆者)

この「差し迫った終わり」を信じる弊害については既に論じました。ただ一つの真実は、「幾世代もの」若者が青春の日々を、終わりが来ないまま過ごしたということです。(それを無駄と評価するか、意義はあったと評価するかの価値判断はもちろん自由ですが)。

さらに2010年代からは、高等教育に対する認識が、長老や援助奉仕者(旧奉仕の僕)の資格に関わることが強調されるようになりました。(以前から言われていたことが整理され提示された。特に2012年5月の長老宛の指示)。さらに、2019年に改訂された長老達のための教科書には「本人(長老や援助奉仕者)や同居している家族が高等教育を強く望んでいる場合」資格が再吟味される(資格の剥奪を考慮するという意味)ことがはっきりと記されるようになりました。「同居している家族」という表現から、子供本人が望んだ場合を主に想定しているわけで、これはかなり踏み込んだ内容です。

2021年の年次総会で繰り返されたこと

この「差し迫った終末」の問題は、2021年の年次総会でも繰り返されます。この年次総会の話の中の、統治体のメンバー、アンソニー・モリス氏(2023年3月に統治体を罷免されたが)による「ずっと見張っているべきなのはなぜか」という話に注目したいと思います。この話では「終末の遅延」の問題がかなり率直に取り上げられました。(公式サイトで公開されています)。

彼は1980年代頃の話として、息子達が年長の古参の信者達から「あなたたちが学校を卒業することなんて絶対にない」(つまりそれまでに終わりが来る)と言われたことを述べます。この出来事について彼はこのように評価します。

「特定の年に終わりが来ると思っていたのかもしれません。よくわかりません。でもよくそう言われました。・・・[この会場に]心当たりの方がいても(If any of you are guilty)心配しないでください。エホバは許してくださるはずです。でもこれからは気をつけてください。(If you did that back then you didn't help anybody.)」

jwブロードキャスティングより

まず、この一節を聞いて開いた口が塞がりませんでした。この言い方は非常に無礼ですし、全くの人ごとのようです。もちろん、当時彼は統治体のメンバーではなかったのは確かです。しかし、この話の時は統治体の一員である彼がこのような発言をすることは大きな問題です。日本語訳はかなり和らげられていますが、英語は上記のようにもっと強い言い回しです。

彼は「目ざめよ!」69年5月22日の"What Future For The Young"を忘れているか、知らないかなのでしょう。(原文は以前の「コラム」で引用しましたので、ここでは割愛いたします)。その記事でははっきりと、この体制ではもはやいくらも歳を取らないことや、それゆえに専門的教育やキャリアを積むことは無駄であるとはっきり書かれていたのです。この記事は終わりが来ると信じていた75年より前の記事ではありますが、当時の統治体(その形態は現在の形態とは違う時代だったが)はその75年を過ぎてもやはり終わりを強調し続けました。上記のモリス氏が述べた内容は、彼が述べるべき言葉ではなく、一般信者がモリス氏を含め統治体に向けて語るべき言葉です。「これからは気をつけてください」と。

彼はこの話の続きで、終わりは「いつ来るかわからない」のだから、「ずっと見張っているように」(備えているようにの意味)と息子達にアドバイスしたと言います。これは確かに今聞くと常識的な発言ではありますが、現在統治体の一員である彼が述べる言葉ではありません。当時はむしろ、そんなアドバイスをする人の方が明らかに少数でした。

話の続く部分では、統治体の「援助者」(サポートスタッフ)として奉仕している年長の兄弟達のコメントが読まれました。彼らは何世代にもわたってエホバの証人であり、その親や祖父母も終わりを見ずに死んだことが述べられます。それでも、これらの兄弟達は何世代も終わりを待ち望み「ずっと見張っていた」と彼らを高く評価します。(詳しくは前のコラムをご覧ください)。

このときに議論のすり替えがなされます。このような場合にいつも使われるのは、「エホバに仕えている動機は、終わりや楽園での永遠の命ではない」「大切なのは神の主権の立証」(人間の利益より神のご意志)というものです。言い換えれば、終わりが来る「から」神に仕えているのではないというわけです。

しかし、この議論には矛盾があります。「終わりが近いから」というのはエホバの証人の主要な「動機」であるはずなのですが、終わりの遅延の話になると、「終わり」と「動機」を切り離してしまうのです。それならば、「終わりが近いから」高等教育を否定するという考えは「終わりの遅延」という面から見ると矛盾することになります。言い換えれば、終わりがいつ来るかわからないのなら、時の緊急性ゆえに高等教育を否定するという根拠はないことになります。(もちろん高等教育が信仰を腐敗させると言う主張は変わらないでしょうけれど)。

つまり、本来的には「差し迫った終わり」「緊急感」という言葉と、「ずっと見張っている」という言葉にはかなり違いがあるはずだということです。もちろん、エホバの証人にしてみれば、「ずっと見張っている」ことこそ、「緊急感」を持つことなのだと信じていることでしょう。(私もそうでした)。しかし、実際この2つには大きな違いがあります。たとえば、「緊急」というのは、もう災害が差し迫っていてとりあえず避難生活をしましょうという状況のことです。しかし、「ずっと見張っている」(常に備えをしておく)ということは、緊急持ち出し袋や非常食を備えたり、避難場所の確認や耐震補強工事をするようなことだと言えます。ラッセルの時代から百年以上、「緊急避難場所」に避難し続けるのは、もはや「緊急」とは言えないのです。最近話題の東南海地震はいつか来るものでしょうけれど、そのために人生設計を全く変えることは賢明でしょうか。おそらくその地震は私たちの生命を左右するほどのものであるのは確かです。しかし、それに備えて家から出ないことは不可能ですし、子供が自立してその地方に住むことを禁止するというのも(自由ですが)非現実的です。エホバの証人の「終末論」も同じような矛盾をはらんでいるのです。

エホバの証人の現代の歴史が示す厳然たる事実は、「未だ終わりは来ていない」と言うことであり、それは数世代にわたって延命されてきた教義です。「間近」や「終わりの日の最終部分」などと言う言葉は、「常識的」に考えればもはや当てはまりません。エホバの証人の終末論は破綻しているのです。

終末論の方向に話が脱線した感がありますが、申し上げたかったのは、終末論による高等教育の否定は、もはや(終わりが遅延している事実からも)通用しないということです。




5.組織のダブルスタンダード

以上、3つの視点からエホバの証人の高等教育否定の理由を考えてきました。この教義はかなり徹底しているとはいえ、実際の組織内では「ダブルスタンダード」とも言える状態が存在します。

ただ、この部分の考察は、私のように高卒で全時間伝道をはじめ、その後ずっと少ない収入で伝道生活をした者の「嫉妬」や「愚痴」「後悔」でしかないかもしれない点を、前もってお詫びいたします。

以下にいくつか、ダブルスタンダードと思われることを挙げてみます。

高学歴自体がハンディになることはない

もし高等教育を否定するのであれば、「高等教育を受けている人は、それが信者になる前であろうと信者になってからであろうと、指導的な立場に付くことはできない」(つまり学歴はペナルティになる)というような教義がなければ一貫性を欠くことになります。もちろん、こんな教義が実際にあるとすれば、それこそもっと問題の多い組織ということにはなるのですが、あくまでこれは一貫性という点で矛盾するということです。

実際に日本支部の支部委員には大卒者が(2世でも)居ますし、私の幼なじみ達でも大卒で宣教者や巡回監督になった人達が何人もいます。過去を云々しないという意味ではもちろん「良識的」とも言えるのですが、「高等教育を否定している」ということとは矛盾します。言葉は悪いですが「高等教育を受けた者勝ち」というような状況なのです。もちろんその場合、周りの批判をものともせず、学業と信仰を両立するという難しい離れ業をやってのける必要があります。

高等教育は否定するが、寄付は奨励する問題

世界のどこでも、教育に恵まれない人たちは「貧しい」というのが現状です。昨今は日本社会でも問題になっていることです。「その1」の冒頭で掲載したピューリサーチの調査通り、低学歴なエホバの証人の年収は概して低いのです。

福音書にあるような「貧しいやもめの寄付(献金)」が尊いものであることにはまったく異存はありません。寄付を否定するものでもありません。(宗教活動に費用がかかるのも当然でしょう)。しかし、組織(統治体)が信者達の現状を十分理解しているのかが時々わからなくなることがあります。特に、昨今の寄付の使い方は、低収入の信者たちの生活をどの程度思いやっているのだろうかと疑問になることがあります。もっと節度のある寄付の使用が求められるのではないでしょうか。昨今の急速な施設の拡充やマルチメディア関連施設の建設などは、とても節約しているとは思えません。(これは、終わりが近いならなぜ造るのか・・という別の矛盾にも関係します)

また、経費節減のためのペーパーレス化と言っても、昨今公開される電子媒体での記事の、量も質も低下しています。(電子化自体は時代の流れでしょう)。新しい出版物(書籍)の刊行もペースが下がっています。本当に情けないことです。

高等教育を否定するが、高等教育の恩恵を受けている

上記のようなマルチメディア技術や建設技術などは、全て高等教育が生み出した技術に依存しているのです。

高等教育の否定は、私たちの社会がそのような高等教育の恩恵に浴して出来ていることを無視した教義とも言えます。もし、本当に高等教育がダメだと思うなら、米国のアーミッシュのように、多くの文明の利器を否定して生活するのが本筋でしょう。

こういった態度は、「極端ではない」「道理にかなう」などの言い方で、エホバの証人の美点として説明されてきました。「何もかも否定する極端な主張はしない」「良い技術は良いたより(福音)のために利用する」というのです。たしかに、極端は良くないのは当然です。しかし、そもそも「高等教育を否定している」のが極端なわけなので、上記の「言い訳」はダブルスタンダードで「都合の良い主張」というそしりを免れないと思われます。


この点でもう一つ指摘したいのは、聖書学という高等教育に関してです。もちろん、この分野の教育はもっとも警戒されているもので、「卒業後聖書学を学びたい」などと言うのは、基本的に御法度です。しかし、エホバの証人の多くが気づいていないのは、エホバの証人の教理の根本部分は、一般の聖書学の恩恵で成り立っているということです。

新世界訳を作成するにあたっては、ギリシャ語やヘブライ語の底本が用いられており、その底本は聖書学(本文批評学)の成果を利用しているわけです。また、随時様々な聖書学者の引用がなされますが、これも聖書学の恩恵を受けているのです。

例えば、新世界訳聖書の翻訳は「新世界訳聖書翻訳委員会」がおこなったとさていますが、公式には名前は公表されていません。しかし、元統治体の成員である故R.フランズによると、ノア会長、F.フランズ副会長(R.フランズの叔父)、アルバート・シュローダー、ジョージ・ギャンギャス(ギリシャ系)らの名前が挙がっています。この中で、聖書翻訳の知識を持つのは、F.フランズだけだったと証言しているのです。(「良心の危機」p68)。つまり、新世界訳聖書自体も、独自というより、聖書学の結果をそのまま活用した翻訳だったことになります。(なので、新世界訳・旧版は意外と水準が高い)。

余談ですが、昔は「王国行間逐語訳」という新約部分のインターリニア聖書も出版しており(私が持っているのは85年の第2版)、聖書の研究にも大変役立っていました。底本はウェストコット&ホートで、内容は若干古いですが聖書学の恩恵を受けた聖書です。昨今では原語の研究が奨励されなくなったので、2000年代以降の言及は非常に少なくなりました。(若い信者だと知らない人も多い)。特に2015年以降「直接の」引用はなくなりました。(2022年時点)。この「王国行間逐語訳」の存在は、ある意味でエホバの証人の良心でもありました。ギリシャ語と新世界訳の翻訳を英文ながらも直接比較できたわけで、エホバの証人特有の翻訳だとされる部分もすぐにわかるようになっていました。もちろん、一方で新世界訳の優れた面もここから指摘できるメリットがあったはずです。このような道具すら用いなくなったのは寂しい限りです。

例えばこれはローマ13章1節。新世界訳は「相対的な(relative)」を挿入していることが分かる。


閑話休題。

結局エホバの証人は、自分たちの教理に都合の良い聖書学はみとめ、都合の悪い聖書学は認めないという矛盾したことになっています。もちろん、聖書学の分野は、学者のスタンスで非常に大きな相違があり、「信用できない」とも言えるわけですが、でも実際にエホバの証人は自らの判断で主張が近い学者の意見を採用しているのです。聖書学の限界は、エホバの証人(を含めた保守的宗派)の限界を示してもいるのです。

また、エホバの証人のように、自分以外の宗教は全て偽りの宗教だという主張をする場合、それらキリスト教諸宗派によって積み重ねられてきた聖書学を取捨選択(あるいは拒否)するだけの学識が必要になります。つまり、最低限でも統治体の成員は聖書学の教育を受け、自らの学説を提唱できるレベルでなければいけないということになります。しかし、現実に彼らはその点でまったくの素人です。結果として、自分たちの教義に「都合が良い」他宗派の学者の学説を利用するしかないということになるのです。これも主張との大きな矛盾です。


以上のことからすると、エホバの証人は高等教育の成果を「余すことなく」利用していることになります。これはダブルスタンダードだと言えないでしょうか。以上、若干感情的な批判となったかもしれません。あくまで個人的な「愚痴」でした。


6.結論

この議論をしていると、どうしてもつい熱くなってしまって、「宗教教育=悪」のような図式に陥ってしまいます。しかし、少なくともこの日本では、信教の自由が認められている訳ですし、親が子供に宗教教育をする権利もあります。(親や社会は必ず子供になにがしかの価値観を教えることになる)。ただ、それでもここでエホバの証人の教育に関係した問題を提起したのは、この問題の本質が子供達の権利や福祉の問題だからです。大人が決意して出家したり修道院に入ったりすることは、まわりの賛否は別にして個人の自由でしょう。しかし、子供が関係している場合には、そこに「制約」がもうけられるべきだと思います。これは昨今、西欧を中心に厳しくなる傾向があり、「宗教二世問題」を含めて日本でも国民的な議論が必要な問題だと思います。

ここまでで、エホバの証人の高等教育に対する見方を考えてきました。その現状や、なぜ否定するのかについての3つの視点も考えました。(4-1~3)。最後に、エホバの証人の教育についての考え方の問題点をまとめて見たいと思います。

子供への「圧力」により、選択の幅を狭めている

「洗脳」か、「マインドコントロール」かなどという議論もしましたが、私見では、エホバの証人の親は子供に(動機は愛情であっても)「圧力」をかけており、結果として進路の自由な選択が阻害されているとしました。(これにはもちろん異論もあるでしょう)。

この問題に関係して親の方達に提案したいのは、「子供の適正や資質をしっかり見極めた上で、一緒に進路を考える」ということです。言い換えると、自分の子供はエホバの証人の教義から発生する「様々な制約」がありつつも、限られた学歴(高卒等)でしっかり社会に出て働けるだろうか、と考えて見るということです。この点で意外と十分な話し合いがなされていないケースが多いのです。例えば私の母は、「息子は私が何も言わなくても卒業後の開拓奉仕を選んだ」といつも語り「褒めて」くれました。しかし、相談したくても出来る状況ではなかったのであり、自分もそうあるべきだと「頑なに」信じていたのです。

体が弱かったり、精神的にもろい部分があるなら、さらに教育を受けて、「受験資格」(大卒でないと受験できない資格もある)や就職先の幅を広げて見ることもできます。進学には金銭的な問題もあるでしょうけれど、とりあえず進学して自分の進路をさらに考えることもできるでしょう。この場合は、親が(教団内での)体裁を気にせずに、高等教育を含めた進路を応援する必要があるかもしれません。また、そもそも十分な信仰がないのに、「奨励されているから」と伝道中心の生活を「させる」というのも後々大きな問題になるでしょう。もちろん一方で、子供に十分の信仰があり、自らバリバリ働いて生きて行く生命力があると判断するなら、進学せずに伝道生活をするという「子供の選択」を尊重できるでしょう。そのような子供の資質をしっかり見極めることが親の仕事のような気がします。

そして「そもそも論」にはなりますが、思春期における自由な選択の中に、信者にならないという選択肢も残されるべきであることは言うまでもありません。(これは信者である親としては非常に難しいことはよく分かりますが、子供は別の人格であるのです)。

私は子供がないまま年を取りましたので、偉そうなことは言えませんが、結局子育てとは「幸福で自立した大人になるように助ける」ということなのではないかと思います。これは人生で躓きがないとか、万事順調にということではなく、問題があっても前向きに生きられるように願うということです。

その上で、エホバの証人としての人生こそ幸福だという選択をするなら、それを完全に否定する権利はありません。あとは本人の責任で人生を歩んで行くでしょう。エホバの証人とは別の道を行くという選択の場合でも、やはりそれが幸福であるなら素晴らしいことです。

エホバの証人の思考は、「やってみて失敗するのなら、やらずにいるほうが賢明である」というものです。ここには、神からの絶対的な知恵を学んでいるという自覚や、「組織の提案」(指示)が絶対に有益であるという確信が関係しています。「世の人」は神の助言を当てはめないので試行錯誤して失敗し不幸になっているというのが彼らの考え方です。大人であればそれも処世術と言えるかもしれませんが、多くの選択を迫られる子供時代においては、むしろ害になるのではないかと考えます。ちょっと表現が違うのですが、よく言われる「やらずに後悔するより、やってみて後悔するほうが良い」というほうが正しいと思うのです。(もちろん、やらない方がいいこともたくさんありますが・・)。


終末論とセーフティネット

このnote「その2」の冒頭(4-3)で、終末を信じるゆえに、高等教育に否定的であることを考えました。この点がもっとも特殊であるだけでなく、最も大きな影響を子供達に(大人にも)与えるのです。

終末を「間近に迫る現実」ととらえる場合、高等教育だけではなく、就業に対する見方にも大きな影響を与えます。どこかの企業に(既に終身雇用は崩れましたが)腰を落ち着けて就職しようという態度は、終末という観点からは不適切と考えられます。あくまで、自分や家族を養い、終末に向けて一番大切な活動である宣教活動に最大限の時間を費やすことが重要とされます。さらに、毎週の集会への出席や伝道への参加がおろそかにならないことが大前提なので、それが難しくなる場合、「仕事の方を調整」することになります。昇進や有利な条件での引き抜きなどがクリスチャン生活に差し障りがあるなら、それを拒絶するように奨励されます。昇進した結果残業が増えたり、毎週の集会への出席がおろそかになるようなら調整するように諭されます。そもそも若い人が正規雇用の職に就くことは珍しく、アルバイトをしながら伝道中心の生活をするように勧められていることは既に述べました。

もちろん、その一方で彼らは怠惰を嫌い勤勉を奨励します。学歴の問題以前に、職種や条件(集会や伝道がおろそかにならない)も限られると、望まない条件でも就業することになり、体を壊す人も多いのです。要領の良い人はエホバの証人の世界にも当然いて、効率の良い仕事をしながら伝道や私生活を楽しんでいる人は居ます。(欧州などでは、「エホバの証人」であることは趣味だと言ってはばからない人も居ます)。しかし、多くの人は仕事を転転としながら年を経ることになります。結果として(選択的な)ワーキングプアになってしまうのです。

まとめるなら、差し迫った終わりを信じることが、生活基盤自体の弱体化につながっているということです。日本では、そのような世代が現在既に50代~70代になり、信者だった親(未信者は特に経済的な基盤だった)もこの世を去るようになると、生活基盤にも大きな影響を及ぼすようになります。世間でいう「5080問題」は、エホバの証人の場合非常に深刻です。熱心な信者は、あくまで終わりが来ることに基づいた将来設計をしています。しかし、その計画は一般の人達から見ると、「宝くじに当たるので、老後の心配はない」と言っているのとあまり変わりはないことになります。

この問題の別の観点は、セーフティネットの欠如です。

かつて「終末論」(5-⑪)のnoteで引用したドイツ出身の元宣教者アナ・デンツ・ターピンの言葉をもう一度引用します。

父はよくこう言っていました。生きている間にハルマゲドンが来ないかのように考えて将来の計画を立てるべきだが,明日ハルマゲドンが来るかのように考えて生活すべきだ,と。

ものみの塔2004年12月1日号p29(太字筆者)

これは20世紀の初め頃の話だと思われます。彼女の両親は彼女が14歳の時に信仰ゆえにナチスの強制収容所に連行されて二度と会うことはなかったからです。この言葉は「真理」であり、今でも卓見です。今の多くの信者に欠如しているのは「生きている間にハルマゲドンが来ないかのように考えて将来の計画を立てる」ことなのです。そして、このような善意の言葉が、昨今先鋭化している組織の指針によってかき消されているのは残念なことです。

このことばを引用したのは、現在のエホバの証人には「セーフティーネット」が著しく欠如しているからです。「ハルマゲドンが来ないかのように計画する」余地はありません。彼らが高等教育を避け、生涯を伝道に捧げた結果、多くの人は年金の不足(免除申請をしてきた人や、そもそも納めていない人も多い)などに悩まされています。

私の親はいつも、「そんな将来のことを心配すべきではない」「終わりはもうすぐだ」と(若い頃の)私に言い続けました。しかし、現実にまだ終わりは来ておらず、人は年老いて行くのです。多くの誠実なエホバの証人は、それでもクリスチャンとして生涯を暮らします。繰り返しますが、彼らがみな不幸だと私たち第三者(脱会者も含めて)が勝手な評価する資格はありません。とはいえ、多くの人達は、年を経た後に現実的な問題に直面することになるのです。これは明らかに「終わりの遅延」へのセーフティネットの欠如です。

さらに、終わりの遅延だけでなく、「自分が信者をやめた場合」のセーフティネットも欠如しています。(エホバの証人は、それは自己責任であり社会が準備すべきものだというかもしれませんが)。エホバの証人は文字通り何か財産を組織に捧げることは求められません。これは他の多くの宗教とは違うところでしょう。しかし、前述の通り子供のころから長い期間信者である人が老年になると、親も亡くなり子供もいないケースが多いとなれば、誰の助けもないということになります。どのくらいの年齢で信者をやめるかにもよりますが、年齢が高くなればなるほど、この問題は深刻になります。自分の人生には責任を持たねばならないのは当然ですが、一方で終末論を強調する場合は、将来の計画の一部を放棄させる結果になるわけなので、宗教組織側もそれなりの道義的責任が発生するでしょう。

エホバの証人は基本的に自己責任を強調します。そうであるなら、せめて若い頃から将来の計画をしっかり立てるよう指導すべきでしょう。伝道中心の生活をするとしても、年金の支払いや貯蓄を奨励するとか、本部支部の「職員」や専従の奉仕者にはきちんと社会保険を用意するなどが重要です。(法人は経済的負担を回避したいわけです)。

現在、離脱者(脱会者)が再チャレンジする場合のハードルは非常に高いというのが現状です。その結果、年齢を重ねるほど自分が属するコミュニティを失うことが難しくなり、エホバの証人をやめることも出来ないということになります。コミュニティが拡大しており、子供も多く育っているという場合は、おそらくその中で扶助しあい、仕事を紹介しあって維持して行くことができるのでしょうけれど、現在のエホバの証人は先進国において縮小傾向にあるので、この問題は深刻化してゆくでしょう。「老いてますます盛ん」な信者も多いですが、一方でその苦衷を語る信者も多いのです。

古代中国の思想家孟子は「恒産無くして恒心なし」と述べました。つまり、安定した職があってこそ礼節を重んじる安らかな心が得られる、と述べているのです。私はよくこの言葉を思い出します。もちろん、立派なエホバの証人なら、「恒産」がなくても「恒心」は持っているかもしれません。しかし、私などはエホバの証人をやめてからも「職」で非常に苦労したので、「恒心」は未だにないなと考えています。

結局、エホバの証人の教えには「セーフティネット」という考えはないのです。(強いて言えばそれは神の王国であり、将来の楽園)。上で引用した、ターピン女史の父親のような賢明なアドバイスも現在ではあまり大きな影響を与えることはありません。このことは、前に引用した2012年のものみの塔の記事を見れば明らかです。もう一度引用します。

終わりが近いという確信が欠けている人は、エホバが言ったとおりにならなかった時のための代替計画を立て始めるかもしれません。... そして、この世で名声を得ようとしたり、神の王国を第一にするのではなく経済的な安定を求めたり、快適な生活を保証するものとして高等教育を信頼したりするかもしれません。

ものみの塔 2012 9/15 18–22

ここでは、「セーフティネット」という考えが完全に否定されています。そのような「代替計画」は、不信仰の表れなのです。私は、このような考え方こそ大きな問題だと思っています。確かにイエスは「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」(ルカ9:62。聖書協会共同訳)と言われたとされます。しかし、未来ある子供達と、この終末の響きをもった(これは議論があるが)イエスの言葉を結びつけるのも問題があるでしょう。

今、日本全体でも、このセーフティネットの問題は議論されています。そして、エホバの証人の場合はそれがさらに深刻化しているという点は信者達自身が自覚すべきことです。


広い視野を持って豊かな人生を

この教育の問題についてのnoteを書くのは非常に辛いものがありました。もちろん、自分が「犠牲者」であるという(勝手な)被害者意識があったこともあるのですが、自分が現役であったころ、多くの若者達にエホバの証人としての生き方を奨励してきたという罪悪感もあるのです。もちろん、自分は若者達が大学進学を選ぶならそれもいいと思っていましたし、それを批判する人達にはその間違いを指摘してきました。しかし、信者として「有望」で「熱心な」若者達には、(自分もある意味感激しつつ)その道を祝福してきたのです。これは今後も背負い続けるべき荷なのでしょう。

私は、エホバの証人をやめてから遅すぎる勉強をし、多くの刺激を得ることになりました。教育とはなんだろうかということも、よく考えます。まず言えるのは、教育は「自活」のためだけのものではないということです。私たちはたまたま感謝すべきことに、「恵まれた」国に生きています。先進国には先進国なりの社会問題はありますが、それでも衣食が足りていることだけも素晴らしいことです。そして、教育については(北欧ほどではないにしても)選択の自由があり、たとえ高等教育を受けないとしても多くのことを自ら学ぶ機会があります。ですから、エホバの証人の子弟もこのような自由な機会が開かれるように願ってやみません。視野を広くすることこそ、やはり教育の目的だと思っています。

何を学ぶかも大事ですが、広く色々な意見に接するのは重要です。「その1」で新約学者B.D.アーマンの著作から引用した情報をもう一度引用します。

私は個人的には極端な拒絶も聖書への新しい視点を無批判に受け入れることも、理想的だとは思われない。私が望むのは、学生が聖書を史料として熟読し、よくよく考え、聖書の(そして彼ら自身の)先入観や結論を疑って見ることである。そして、この史料が、幼い頃から自分を育んできた聖書やキリスト教の見方や今後の自分の生き方をどう変えることになるのか、じっくり検討してみることである。 …したがって、もう一つの私の重要な目的は、大学教授は誰でもそうだが、学生に自分の頭で考えさせることである。

「キリスト教成立の謎を解く」p28~(B.D.アーマン著、津守京子訳。柏書房)

この世は良いことばかりではなく、むしろ悪いことの方が多く感じることさえあります。これはヨブ記などを見ると分かるとおり、古代から人間が感じていたことです。このような世の中の不条理さの中で宗教が果たす役割はもちろん引き続き存在するでしょう。それを否定するつもりはありません。私はエホバの証人をやめてもちっとも幸福だとは感じませんでした。いろいろな「枷」から解き放されたという感じはありましたが、その結果この世の厳然たる「現実」に直面しました。人間は死ぬもので、神は以前のような形ではもはや存在しなくなりました。結局人間が神から自立するとき、そこには大きな不安が存在するようになります。おそらくこれが近代において西欧でキリスト教権威が弱体化したときに多くの人が感じたことなのでしょう。

おそらく宗教者の方達は、このような考えが唯物論的であり、人間は神に生かされているのだとおっしゃるかもしれません。私のような考えこそがおごりであるとおっしゃる方もいるでしょう。もちろん、そのような考えも自由だと思います。しかし、少なくとも私の場合宗教は私を救いませんでした。

それでも生きて行かねばならないとすると、そこで重要になるのはやはり教育なのかなと思います。これは学校教育という意味もありますが、それ以上に人生の中で日々学ぶことや、本を読んで学ぶことなどが大きい気がします。やはり繰り返しになりますが、重要なのは見識を広げることです。

若者達には、若い時を心豊かに過ごして欲しいと思います。進路の別を問わず、いろいろな事を考え、いいろいろな考えに接して欲しいとも思います。それはその後の人生にとって大切な糧となるでしょう。

ヘンリー・ブルーム(イギリス庶民院での演説より)
"Education makes a people easy to lead but difficult to drive 
   easy to govern, but impossible to enslave."
「教育は、人を導きやすくするが、駆り立て(煽動し)にくくする。
   統治しやすくするが、奴隷化するのを不可能にもする。」

ヘンリー・ブルーム(Speech to the House of Commons January 29, 1828)


7.参考図書

私の場合参考になった本をいくつか紹介します。(以前にご紹介した参考書とも重なるものがあります)。

まず、エホバの証人に疑問を持つようになった最初のステップになったのはこの本です。~E.H.カー「歴史とは何か」

これはもはや古典であり、今ではいろいろな批判もありますが、それでもこの時期(1962年)に新書という形で(しかも安価に)一般に出版された意味は大きかったと思います。最近(ちょっとお高いですが)「新版」が出ていて、新しい翻訳と豊富な脚注があるものが同じ岩波から出ているので、最初に読むならそちらがよいかもしれません。(ちょっとお高い・・)。実は若い頃に一度読んではいたのですが、無知な私にはあまりに難しく、そのまま挫折していました。ひさしぶりに読んでみると、(やっぱり難解ではありましたが)多少は進歩していたのか、まったく違った印象を受けました。

この本がどんな関係があるのかとお思いの方もおられるかもしれませんが、
私はこの本から歴史というものが自分が思うほどはっきりと確定できるものではなく、記録者の主観、解釈者の主観などいろいろなフィルターを通っているということを学びました。エホバの証人として生きていると、歴史的な真理(絶対的事実)が聖書に書かれていると信じますし、学校で学ぶレベルのことや歴史家が述べていることもそのまま無条件に真実だと思っていました。しかし、歴史はもっと不確実な主観的なものだったのです。(懐疑主義的にまではなる必要はないのですが)。そうなると、聖書という歴史上の産物にも同じことが当てはまります。このような考え方はかなり新鮮でした。

その結果、一般の聖書学では聖書をどんな風に評価しているのかが知りたくなりました。そして読んでみたのがこの本です。~G.ボルンカム「新約聖書」

これももはや古典で、情報も非常に簡潔です。ただ、これもものすごく難しくて、(翻訳の問題か)そもそも日本語が何を言っているのか理解するのに苦しんだのを思い出します。書かれている内容は当時の私にはとてもショッキングで(リベラルな聖書学としては常識的ではあったのでしょうけれど)、エホバの証人云々以前に、聖書に対する疑念が強くなったのを思い出します。

その後、これはかなり新しいですが、2006年に出された米国の新約学者のB.D.アーマンの著作に出会いました。~B.D.アーマン「捏造された聖書」(単行本の題名)

現在は上記のように題名を変えて文庫になっていて入手しやすくなっています。内容は、センセーショナルな題(旧題)とはちがって、至ってまともな聖書学の入門書です。アーマン自身、保守的なクリスチャンから無神論者(不可知論?)へと信条が変わった経緯があり、自分と重なって読みやすかったのだと思います。また、多くの聖書学者がクリスチャンであるのにたいして、この方は無宗教の立場からの著作だったのも入りやすかったのだと思います。(この後、数冊の邦訳あり)。

さらに、視野を広げるという意味で大きな影響を受けたのはこの本です。~J.ペリカン「聖書は誰のものか?」

これも2006年の本ですが、聖書とは一体何なのかという問題をよく理解できました。エキュメニカルな視点で書かれていて、バランスが取れた参考書です。とくに、「聖書のみ」というプロテスタント以来のエホバの証人が大きく影響を受けてきた概念に無理がある(これには異論はあるでしょうけれど)ことが明確にされており、聖書へのイメージをさらに変化させるきっかけにもなりました。

史的イエスを、学問的に勉強する時に役立ったのはこの本です。~E.P.サンダース「イエス-その歴史的実像に迫る」

パウロ研究で有名なサンダースですが、きわめて冷静に、分かることと分からないことを率直に論じていて、蓋然性が高いことは何かをしっかり論じています。

初期キリスト教の歴史では(邦訳はかなり最近ですが)以下のような本が参考になりました。新約学者の田川建三氏や訳者加藤隆氏の師匠の故トロクメ氏の著作です。~E.トロクメ「キリスト用の幼年期」。(邦題からSFかと一瞬思いました)。

このほかにも、クセは強いですが田川建三氏の本や、旧約の山我哲雄氏、ユダヤ教の専門家である土岐健治氏、聖書考古学の長谷川修一氏などの著作も、学問的な情報を多く与えてくれました。

全体的にかなりリベラルな学者に偏ってはいるので、もう少し保守的な学者の本も読んでみるのがいいかなと思います。邦訳が多いオスカー・クルマンとか、青野太潮氏、カトリックだと和田幹男氏などの著作は参考になると思いました。

もっと参考にすべき本はたくさんあると思いますが、私の読書経験の記録の一部として掲載いたしました。


今回は2回にわたって大変冗長なnoteとなり、失礼いたしました。辛抱して最後までお読みいただいた方達に心から感謝いたします。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?