あいしょう

22:44から。

満月さんがお疲れの模様。
ピザが食べたいと所望したもんで、スーパーでピザを買ってきた。

別途、三種のタンパク質でおかずを用意している。
鶏ささみのベビーリーフサラダ。レンチンした際の汁をドレッシングに流用。お刺身の切れ端が半額だったから、海鮮ユッケも作った。甜麺醤を使ったから甘味がある。ユッケに使った黄味の余りの白身は、豚の切り落としともやし炒めをコーティングするために使った。

僕たちそろそろ結婚するのだが、僕が兼業主夫で家で自営業ができるのが最も安定するような気がする。今の共に働きに出ている状況だと、子を成す余剰はちょっと難しいと考える。

別にそれが夫婦の成果だとはお互い認識していない。個人的に子育てをすることには興味があるが、満月さんは自分でいっぱいいっぱいなところがあるというか、満月さんが産み出すべきは子ではなく作品群なのではという見解もある。たぶん子育てし出したら他のことに意識向けられない。

別に何かを産み出さないと人生劇場の甲斐が無いという認識でもないから、これからありうる世界線の想定でしかない。

完璧な未来なんてないと思っている。これを求めて未来を考えるのも分かるけど、想定内の未来は在り得なくて、想定外が起こった時にも対応できるように、上限9割くらいで考えた方が良いのではという気分。

完璧を求めると、イレギュラーが起こると混乱してしまう。
世の中期末テストみたいに答えが決まっていることだけなんてことは在り得ない。

腹筋の余剰の話もあるのだが、省略。

お仕事。

個人的には目の前の業務に追われていた結果成果が出ていただけで、特に自発的に営業しているという認識は無かった。そろそろ落ち着いてきて、一昨日くらいに満月さんにやっと営業している気分になれてきたと言ったら、「貴様、とっくにやっているわ、今まで何して来たと思ってるの」とたしなめられた。

営業の結果は売上だし、販売職の人でも普通に営業している。

法律資格のお勉強をしているときに、ある概念を一言で説明できないと理解していないとという話があった。たしかに文字数を増やせば説明できるのは当たり前だけど、説明として親切でない。

営業の本質は、「需要の創設」。どこでも良いからとりあえず決めるという人には需要があるけれど、別に僕で決めていただく必要がないから、競争の中で選ばれるために需要を創設しないといけない。

これは恋愛市場でもそう。
ここでやっていた動きが営業に役立つとは。もうここの市場で営業する気はない。営業されても僕は話しが通じない人じゃないと私生活無理なもんで。

お仕事の雑談をスーパー事務とヤンキー女子とする本日。
僕のお仕事のスタイルを語れるから話せる。ポリシーは無いけど、スタイルは固まっているという共通見解。

硯教ができているよねというスーパー事務の表現は、的を射ている。
僕のところに来てくれたら、難しいお仕事もやりますよという感じ。

特に僕にとって良いように誘導する気は無く、お客様にとっていま一番良い座りはどこかしか気にしていないから、お布施も要らない宗教。別に最終的な選択はお客様に委ねているし、一般的な意味での営業はしていない。

店長にはここまでざっくんばらんには話せないから制限している。
最終的には自分の為なのだが、それほど自分の為にお客様を誘導するという営業はしていない社員は、もっと売上作れと言われそうだし。

これをやるとスタイルが崩れる。

僕が働いて居る店舗で、唯一テンポがずれているのが、先輩女子。
真面目で正直な人なのだが、相手と盛り上がる会話ができない感じ。

僕がどうでも良い話ですがと前置きするときは、基本的に相手にも関係あることなのだが、先輩女子がこの前置きをするときは、ほんとに当人の内側の話でしかない。実家から出ていない20代ならこの世界観は致し方ないと思わなくもないけれど、このお仕事をしてきて色んな事情の人に出逢っているのに世界観が主観でしかないなら、当人の人生劇場上、何も学習されていないのだろうなという感じ。

別にディスっている訳でもないし、こういう人生劇場もありだし、助けてくれることもあるから、下に見ている訳でもないけれど、この世界観で営業やるのはそろそろ打ち止めではと観測してしまっている。

仕事はあくまで楽しくやるべき。
楽しく仕事していない人が居ると職場に悪影響が起こる。

店長は優しいからか、まだ人材としては要なと思っているか知らないけど、僕がその立場だったら、もっとシビアに断捨離する方向に持って行くかもしれない。全貌的には3年も働いて色々知識も能力もある人を離すのが惜しいのかもしれないけど、僕が上司なら成長する気がない人を抱える意味が無いと思う。だからお客様とも楽しい話ができない。

スーパー事務は僕のことを「優しい」と評すのだが、主観的は全く優しいとは認識していない。自己犠牲としての優しさで生きて滅茶苦茶割を食ったもんで、抑制をすることになった。

抑制しなければどこまで割を食えるけど、こんなの全然優しさではない。
自分を大事にしない優しさは変な話、誰にも認識されない自傷行為だと思う。そうやって奉仕しないと自分が世界の中で居座る場所がないという感覚。

僕は別に誰かに認証されないと自己存在が確立されないという感覚が無い。
いつしか喪失してしまった。

この感覚が合う人しか関係できなくなったのは、視界が拓けて良いこと。

本日の腹筋ノルマは50回にしとくか。

おやすみなさい。

良い夢を。

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