読み物
22:37から。
本を読む代わりに母親を読んだ。
お仕事。
きちんと仕事の成果に繋がる時間の使い方ができてきた。
あくまでお仕事の場なもんで、このお仕事にやって来る人の抱えている問題を解決できないと意味が無いという意識。
医療現場みたいな緊迫感はないけれど、生身でない精神体だってその人だし。
いや、たまたま医療従事者のお客様とそういう話をしていたもんで。
このお客様とは話が盛り上がったのだが、おそらく成果にはならない。
なんだっけ。無い袖は振れないみたいな感じ。僕もこの気持ちはわかり過ぎるし、無駄に時間を使った気はしない。
今後の仕事の在り方みたいな盛り上がり。
独立するためには資格が必要ですよねーみたいな。
話をしていたら、「硯さん、凄いですね」と言われる。
公認会計士の試験を目指しているというという話に、追いつけるところとか。
いや凄さは目指していないと思いつつ、たしかに全方向的に話しが通じるということは目指してきたのかもしれない。
人たらしになりたかった訳ではないけれど、たらさないと相手から本質の言葉が出てこない。社会的にどうかみたいな話は受け入れるかどうかみたいなことになるが、一般論から外れた(と当人が思っている)見解は、それが通じると思われないと言語化されない。
そういう意味だと我が職場の最も人たらしはスーパー事務だと思う。
僕もまぁまぁ良いセン言っていると思うが、まだまだ精進。
仕事から離れると、好物が「解決を求めない見解」だもんで、時間が在る限りいくらでも聞いていられる。そんな見解がある人はあんまり居ないのだが、noteには結構居る感じ。
楽しく読める見解は、貴方もそうですよねという方向に持って来ない。
読まれる文章って、自分にもあるあるで共感させる方向に持っていくのだろうけども、僕はそういう人をウェルカムしていないもんで。
(それでもやって来る人ってどういう神経をしているのだろう、良い意味で)
ふと、今日のお客様を案内するために運転している時に、「表現の自由」について考えていた。
表現の定義って憲法学でもややこしい。個人のも表現する機関というか企業もいっしょくたになっていて、情報でしかないということになっている。
情報として公開できるのが表現の自由。
たしかに、社会的な視点というか視界で視ればそうなるのだろうけど、僕の世界だとちょっと違う。
表現は精神体の身動きであって、肉体と動きと同義。
これが流通する世界は、物理的社会生活と同じ意味合いで、精神的社会生活の領域。
だから、人の表現は社会生活とは別途で守られないといけないし、ここに社会的一般論を持ってくるべきでもない。物理生活に重きを置いている人は、社会と物理を混同して、そもそもそんなことを考えてはいけないみたいなこと言う。これって世界がズレている。
社会生活だと、精神体が何を表現していたとしてもそんなことを加味されず、場に合っているかどうかだから、内心がどうしているかなんて問題にならない。内心寄りの人は反対方向からずれている。自分の内部が社会に慮れると思うのがややオカシイ。
表現体としての自分が社会に受け入れられるのは社会に貢献できる天才しか居ない。
みたいな話はどうでも良い。
こんなのはあくまでバランスの話。
僕はバランスもどうでも良いと内心は思っているのだが、気遣い質だから社会的なところではあんまり解放していない。
とか書きつつ、まぁまぁ解き放なたれいる節もあり、精神体寄りになっている。
この条件は、社会に対して呪詛が無いことだから、精神を解放したら怒りしか無いみたいな人はちゃんと社会に従った方が良い。
通じるかどうかは分からないけども、僕が表現体としてここに居るのは、別にここにしか居場所が無いからでもなく、単にそういう場所を見つけたから。
日記を断捨離してみるという施策もありうる。
旅行で母親が住んで居る部屋に行ったとき、全然煙草を吸う気分にならなかった。
特に無ければないでいけるみたいなことは喫煙者でもほとんど通じない。通じる人も居るだろうけど、社会からの離脱みたいなものではなく、単に美味しいからという人は幾ばくか。
あくまで、あるから。
仮想の自己紹介で、社会的に許容されているけれど推奨されていないことはだいたいやってきているフレーズを遣いたいのだが、あんまり通じないと思うもんで遣い道が無い。
あと、人の話は話半分で聞くべきみたいな知恵はそうだと思ったという話もあるのだが、今日はここまで。
相手の記憶にそんなに期待してはいけない。
ということは、自分の記憶に信頼してもいけない。
おやすみなさい。
良い夢を。
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