結晶

22:37から。

本日の晩御飯はリクエストの親子うどんの茹でうどんとサニーレタスのためのツナ缶以外は冷蔵庫にある物アラカルト。豆苗と油揚げの中華炒めとニラともやしのナムル。

親子うどんの味見はした。美味い。

満月さんはちょっと食卓で別々の物を食べることに抵抗がある模様。僕がリクエストメニューはあんまり食べてないと言ったら怪訝な顔をした。

気持ちは分かるのだが、同じ物を食べるというのは省エネ嗜好な気がする。

だって、外食だったらそれぞれ別のメニューを頼んで食べる訳で、これが家の食卓でまかり通らない合理性が分からない。外食と同じようにシェアすれば良いだけでは。

子を成したとして、離乳食とかの特別メニューは当然だが、大きくなってきて同じ物を食べられるようになってきたあとに、食卓で同じ量を付き合う気が無い。同じ釜の飯を食うことで繋がりを感じるのかもしれないけれど、身体に必要な栄養価とか量はそれぞれ。

一緒の物を食べるのではなく、食卓を一緒にするというのが大事だという持論(今日思い付いた)。物体を共有するのではなく空間を共有すること。

好き嫌いをするなみたいな観念もアレルギーで生き死にの問題になることが顕在化されてくると今や昔の話で、剥き出しにすれば「料理人が作ったご飯を残すな」ということになりそう。

食材って別にそれだけでしか取れない栄養素はないし、交換可能。
もちろん、まずは色んな食材で味覚を拡張することは大事。最初に美味しい調理がほどこされていたらその食材のことが好きになる。素材の味で好きになるのももちろん。

まだ2人でいっぱいいっぱいの生活だからこの世界線は無さそうだが、あったら面白そうではある。別に子供を研究対象にする気は無く、最初から独立した人格だと認識するだろうなと。もちろん親として最低限の基準はやるけれど、親という神様みたいな視点を守る気も無い。お父さんやべー奴みたいに想われても良い。この人、自分の話しても良いんだと思われれば。

僕の親子関係は自分の話をする余地が無かったもんで、下にはそういう狭さを感じて欲しくないなと。まぁ、かといって、我が母が僕に対して愛が無いという認識もない。愛もそれぞれだけど、愛されていたんだとは思う。

僕の親子の話はそろそろ本気で調整しないなというハードル。
姉も妹も含めて。変な話だけど、割と長い年数を一緒に生活してきた人なのに、この人達の中身、noteで読んでいる人より知らない気がする。

観測点が違うから無理もないのだが、僕が営業職で調整するお仕事に世界線がずれたのはこの為なのかもしれない。

お仕事は、ほんとに雰囲気が良い。
僕も書類整理がやべぇといじられるのだが、見下されている感じが無い。そのうち本気で怒られる気がするのだが、あんまり気にしていない。向かうべきはお客様の方が優先順位高いし。

自分を守る為にお仕事していないし。
これだったら、自分の存在が無いような時間制で働くべきだし、ちゃんと個人と認識されるお仕事は他に拠り所が無いから怖い。

いや、こんなこと人生劇場では普通か。

本の話。

江戸川乱歩さんの傑作集を読み終えた。

「芋虫」が一番面白い。
これを単なるグロテスクと読むのは詰まらない。何処まで削っても人なのかという話だと思うし、性的なところもある。

あんまり書くとアレなのでアレだが、自分として他人から認識されている世界からどこまで欠けたら当人で無くなるのかという挑戦だと思う。この観念は考え事が好きな人には当たり前の感覚。

僕と満月さんは良い感じのパートナーなのだが、これって別にお互いが都合が良いという訳でもない。お互いが普通には言えないことを話せるという感じ。

満月さんがかつて恋焦がれたかは知らない人と僕が寝ている時に通話したことに対して一切嫉妬が無いし、繋がって良かったと思う。

(僕、満月さんの歴代関係者とそれほど越境して逢いたいとは思わない。満月さん視界かもしれないけど。満月さんの学生時代の師匠には普通に話してみたい)

もう寝る。

おやすみなさい。

良い夢を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?