そでふりあう

22:09から。

本日は引きこもり。

もう少し早く活動開始すればブックオフに行って手話の本を探そうと思っていたのだが、この工程は省略された。

昨日筆談でお客様とコミュニケーションを取った話したっけ。
したような気もするし、話の流れで省略した気もする。僕は発話疎通よりこちらの方がやや得意かもしれない。文字ってニュアンスが削られて情報に特化するもんで、何が大事なのか読み易い。

ただ、筆談で不便なのは、どうしても書かれている文字に目を落とすから、それを書いている瞬間の表情が読み取れないところ。手話も言語だけど、それを読む為には目を上げるから、表情が見えるよねって。音声言語は聴覚と視角を同時に使うからちょっとラグが起こるという説。

疎通で言えば、文字<発話というのが一般論だが、発話は同一言語圏というか社会圏においてのルール確認みたいな印象もある。

そのお客様の帰り際、特に構って居ないお客様のお子様に手を振ってバイバイしたら、近づいてきてハイタッチをしてくれた。何も交信していないけれど、この方が疎通っぽくないか。何かが繋がった気がした。今度は名前を聞こう。

スーパー事務とヤンキー後輩女子と雑談している時の硯教云々の下りのときに、説明が上手いと言われた。あまり自覚はないのだが、ほんとうにそうだとしたら、「正しい1通りの説明は無い」と認識しているから。事象とか現象は1つだと仮定しても、それをどう説明するかはおそらく無限通りある。1通りで伝わらなかったら、次のルートで説明するしかない。同じ説明を繰り返すのはレコードでもできるし。

定義を伝えたところで概念が伝わらないという観念は、僕がまさにそうだから。
法律学のお勉強をしていると定義が満載なのだが、定義が何を言っているかがまず分からない。

例えば、暴行罪における「暴行」って「人に対する有形力の行使」と定義される。典型例の殴る蹴るならこの定義はあまり気にしなくて良いのだが、何処までが限界なのかというところになると、騒音とか高速道路での幅寄せとか定義からストレートに説明するのが難しくなってくる。この犯罪を規定することによって保護される利益が「人の身体」であるところから繋げて、身体が侵害(侵害とはなんぞやも問題だが)される現実的な危険性がある有形力の行使という修飾がついてはじめて理屈が付いてくる。

物理的に侵害しなくても侵害される危険性があるから、狙わなくても相手のすぐ側に石を投げつける行為は未来においてされないように制限しないといけないとう意味で、犯罪になる。

法律の条文は断片的だから繋げる為に思考が要る。
なんで断片的なのかというと、全部書こうとしたら誰も見ない約款みたいな文字数になるからだと思っているけども、もしかしたら、これくらい考えたら分かるだろうという思考エリートの思想なのかもしれない。

本日引きこもりでお勉強をしていたとき、請負の契約不適合責任の条文が分かりにくすぎて、文章で再構成した。こうやって繋げていくことで思考の訓練になるのか。内容は省略。

僕は結構てきとーに説明しているつもりなのだが、聞いている側からすると、なんとなくそういうものなのだと腑に落ちるらしい。まぁ、1つの概念を言語でスケッチしているだけだから、言い方だけの話。ここだと理由付けに思考が出てくるのだが、僕はそこまでここで美味い説明はどこにあるのかみたいな考え方はしない。

他に考え方はあるのかという思考(試行)錯誤みたいなことは気にする。

例えば、僕は何も頼まれていない重要度が任意の時に最も可動できるのだが、強制とか命令めいたものをされると、できることもしたくなくなる。あと、決めつけられると抗いたくなる。

これって何だろうなと考えると、相手が僕のこと規定したとき、気を遣ってそれ以上のことをするのを憚られるのではという説明。普通に考えてありえなさそうだが、あんまり相手にとって優れ過ぎてはいけないという思い込みがあったみたい。

ここの今は、同じ舞台には居ないよということをことさらアピールすることによって相手の世界観を傷つけないように振る舞っているという説明。何事も不謹慎にやたらと楽しんでいるのだが、僕を観測している対象にはそれが不謹慎とは映らない。はず。同じ土台に居て欲しいと思う人が引きずり込めないくらい浮き上がっている。

あと、行動心理学なのか、消費者論なのかは定かではないが、「得をするより損失を回避する」という人間の行動原理にどう説明が付くのかということを考えている。

個人的には、生物的な本能ではなくて、社会的な後天的な機能であって、社会的には人格が統合されないといけないみたいなことを提唱した研究とかマズローさんの欲求と関係してそうだと思う。あと財産権と人格の癒着の世界観。

こういう風に人格が統合された世界観だと、増やしたり変化したりするより、欠けることが人格の一部喪失になるから、損をしたら人格が欠けた気分になってしまうから、損をしない自分でありたいという説。

僕は社会的に統合した人格で在ることをアイデンティティにしていないから、社会的に損をするより、悩んでいる「時間」がもっとも勿体ないとなった。やらないといけないことはしようとする準備時間無くだいたいするようになっているし、ラグが減っている。

ここの心理学者さん達の研究は心理学を発展させたのかもしれないけど、それが人間の全てではないという意味で、この規定は悪手だと思っている。

研究の過程でしかないのに、定義めいてしまう影響力を及ぼすのは学者さんの罪でもないけど。

MBTIが流行るのも定義っぽいけど、定義から人格が起こる訳でもないから、私INFJなんですと自己紹介してきた人が現実に現れたとしたら、僕は訝る。

こういうことが流行るのって、正解が1つしかないという一神教由来だと思う。
無神教の日本にこれだけ定義論が蔓延っているのは、割とそういう土壌があったのだろうな。社会の正常ルートが1つの太い道だから外れたらアウトローになるという考え方も然り。

僕としては知ったことではない。
僕が退場した後には、神妙にするより笑い話にして生きている人の栄養になりたい。

これって別に美談とかでもない。
齢ピーだが、、もう後悔するような人生を過ごすことは辞めた。あとは余生というこれからであって、なんとでもなる。

2年前に満月さんに撮られた僕は、やたらと肌が荒れている。
今は肌がぷりぷりしている。この違いの説明はそれこそ無限。僕としてはもっとも適切な説明は、素の自分で居ていい世界になったから、経年の進みかたが遅くなっているという説明。こんなの僕を観測している満月さんにしか通じないが、それで良い。

満月さんもチョコザップに入会して全盛期のフォルムを取り戻すつもりらしい。
変化しようとなるのは良いこと。

正しい自分の説明なんてありえないという文章でした。

これを読み取れるのは読解ではなく直感なもんで、一応書いているけど、書いても書かなくても理解される量はあまり変わらない気がする。

それで全然問題ないから書いている。

おやすみなさい。

良い夢を。


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