こせい

22:40から。

本日も遅番の満月さんが晩御飯をこさえてくれた。
マーボー茄子とかつおのたたきと、きのこのソテー。草は原材料のままだったから、ゆで卵とドレッシングを加えてサラダにした。

ありがたや。

時間が無い中で作ってくれたことが読み取れる。これを足りたいと見るか、足りない中でやってくれたと見るか。僕は後者。きのこのソテーにはガーリックソルトで一味加えるとちょうど良いと思う。

お仕事。

かいがい女子と、店長と、スーパー事務と僕。
申し訳ないけども、ここがフルメンバーの方が楽しい。

仕事が終わってからの疲労感が違うし、精神的にも安定している。

何が違うのかというと、おそらくメタ的な視点があるかどうかであって、年齢とは違う。かいがい女子は先輩お嬢より若いし。

かいがい女子がハッスルしていて成果が負けているのだが、これもこれで楽しい。

やっと、仕事の視界が落ち着いてきた気がする。
自分でやろうとするまでも無くお仕事が行列でやって来て振り落とされないようにするしかなかった世界が、ちょっと拓けてきて、ちょっと前だったら理不尽だとしか解釈できなかった店長の水差し言葉もなるほどなと読めて来た。

店長は営業トークだと相手に水を差すような言葉は一切使わないのだが、職場トークだと結構水を差してやる気を削ぐ語彙がある。こっちが本質なのだろうなという気分。

僕も結構こういう質があると見られがち(主に満月さんに)だから、ちょっと分かる。
期待の裏返しではなく、自分がやっていることが何故相手にできないのかというニュアンスだと思われる。

僕のは、本質ではなく、そういう語彙しか無かっただけであって、今は随分変わってきていると思う。素朴に話して素朴に行動して相手がダメージを受けるかどうかはあんまり知ったことでは無いけれど、別にマウント取る気がない素朴。

そういう手法を取らなくても人に承継はできるだろうし。

メタ的視点って、広く世界を経験すれば得られるものではなく、むしろ内省の果てにある。なんでそうなっているかというと、世界がどう見えるかって自己の世界観によるから。

内向的な人がメタ的な視点があるとも限らないから、どうなんだろうな。
社会的に賞賛されないギフテッドなのだろうか。

ちょくちょく今までとは違う人からスキをされている。

「イチャイチャ」という言葉で検索しただけのいかがわしそうなアカウント。
僕が欲求不満であるというニュアンスで読んだのかもしれないが、女子と一線交えるための情報を流しているらしい(全く要らない)。

あとは「村上春樹」で検索したのだろうなという人とか、女子高生とか。

フォローしてくれている人は、毎回付けていないから記事によって好き好きがあるんだろうなと勝手に思っているが、事実は分からない。この事実が分からないけれど意味から離れた解釈をするのが能動的な生き方としたい。

ちょっと、女子高生の記事が面白かった。

たぶんたまたまの接点で読んでくれて、また読みに来ることは無いと思われる。

ピンクな文章は書いていなくて、なんならグロテスクでもあるのだが、哲学が面白いらしい。そう、哲学は面白い。

当人、容姿へのコンプレックスがあって、整形するつもり満載だしピアスがぼこぼこらしい。

いずれ整形したいけれど、今は無理だから大人になってからするみたいな話があった。

無理な理由が、「親に貰った身体を改造することへのタブー」を言われるとのこと。
これも哲学だよなぁと能動的に読む。なんなら、「女子高生」という呼称も社会から貰った称号(身体)だけど、こっちは良いんだとか。

個人的に、改造の定義って、よく分からない。
すっぴんですと言いながらナチュラルメイクをしているのは仮面という改造では無かろうかとか、身体に残されることが改造であるとするなら、たしかに、ピアスも整形もなんとかカットも人間の身体を改造していると言える。

僕はこういった意味で改造して壊したいという感覚が無かったもんで、腕にもどこにも自発的な傷はないのだが、規定の自分に傷を付けたいという気分は分かる。

ここで、「親に貰った身体」という観念。
自己退場をしてはいけない理由とかにも使われると思うし、なんとなく空気として共有されていると思うのだが、傷つけていないのにピンとこない。

たしかに、生物的な因果関係として親がまぐわったDNAによって自分が産まれているし、貰ったと言えば貰っているとも言えるのだが、別に労働とは違う。まぐわいが痛みだけでしかなければこれ良と思う。母親はお腹を痛めているのはもちろんだが、発端が全部痛い訳でもないし。

もう1つ言えば、物理的な身体って、みてくれは一定としても、中の細胞は周期的に刷新されるから、厳密に言えば同じ物ではないのは化学的な定説だと思われる。

という感じで、人体は人体のままで手を入れてはならないという禁忌の世界観は、素朴な感覚ではなはなくて、キリスト教的な価値観なのだろうなとなった哲学。

この女子高生の親御さんもキリスト教を信仰しているかどうかは知らないけど、なんとなく空気感で人体には手を入れないのが良いという価値観が浸透している。

だったら、外科手術とか歯医者とかどうなのだろうと思うが、こういうざっくり抽象的な言説で正しいことを言っていると思っている人はそんなに自分の世界を分析していないから、あんまり聞かなくても良いとは思う。

願わくば、この女子高生が逆張りで自分を無駄に改造しなければという次第。
本当にしたい改造なら良いけれど、今のところ世界への反発が傷になっているような。

容姿が良いって、もう現在日本、価値観が一元化していないから、どういう文脈で美になりたいかどうか。

この女子高生に幸あれ。
えぐい世界の中で、容姿ではない自分の本質を見つけられたら良き。
それが哲学。

見てくれが良いっていうのもある意味呪いという才能だけど、そうなりたいのか。

長々と書いて居るのは明日が休日だから。
上層部からの圧力で休日出勤が駄目になったから、連絡も来なくなると思われる。

良き職場。

かいがい女子、メタ的な視点はあるけれど、視界は一元化しているなという素晴らしさ。
だからハッスルしている。

僕は視界が一元化できないなとなってきている。
世界は単純ではないというか、自分が単純ではないという内省。

一元化したいという願望が一神教を産み出していて、世界を単純に捉えたいと需要をキャッチしているのだろうなぁという哲学。

まぁ、今世、一元化で楽しても何の不具合も無さそうだけど、僕はあえて楽したくない。

やべ、時間おばー。

おやすみなさい。

良い夢を。

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