ぞろめ

22:22から。

調子が悪い時に出てくる考えは、調子が良くなって振り返るとほとんどがどうでも良い。
情報としては大事だが、囚われるものではない。

晩御飯。

中華飯、砂肝ともやしとニラのにんにく塩コショウ炒め、人参とサラダほうれん草のマヨネーズベースドレッシングサラダ。ほんと美味い。

中華飯はキモとなる生姜が切れていてどうしようかと思ったが、柚子胡椒チューブ、ネギ塩チューブで代用してみたら、凄いのができた。食材は豚バラ、茄子、チンゲン菜、キクラゲ、舞茸、長ネギ。適度に炒めて、水を加えて、酒、しょうゆ、鶏ガラオイスターソースを加えてちょっと煮詰めて馴染ませて、水溶き片栗粉でとろみを付けただけ。

砂肝もドレッシングも変に味付けはしていない。

これ全部、本日追加した食材が無い。
備蓄できる量が増えると組み合わせを考えるのが大変。1人暮らしの時の備蓄量とは桁違い。1人の時は食材の追加も完全にコントロールできるから、残っているのは食べきれない実家家から送られたお餅とかだった。

まぁ、余力が増えてもいつもやっていればそのうち馴れる。
料理できる組み合わせが増えることを楽しめるように。

お仕事。

店長と2人。

本日も調整作業になかなかの時間がかかって、営業があまりできなかった。
何が営業で何がその他なのかはこのお仕事において未分離な気がするが。

それにしても、1つ発見。

今、このエリアで誰もやったことない案件が進んでいてやたらと楽しい。
まっさらな雪に最初に足跡をつけていくのと似た感覚。新参者なのにここに関われているのは縁と言うか運でしかないのだが、パイオニアになるのはうきうきする。

昔、転職活動をしていた時、採用された(蹴った)福祉関係の企業の社長との面接で、「新しい」ことをしたいと言ったら、「何でなの?」と聞かれたことを思い出した。その時何と答えたかは忘れた。

もちろん、僕はほんとにまっさらところで新しいことをする人ではない。「まっさらな雪」は「足跡が付きまくった雪」を知ってないと出てこない観念。先導くらいがせいぜい。

足跡が付きまくった道とすると、これは仕事上の慣習的なフローとも言える。
慣習的なフローって、ただそこを歩いている人が多くて、教えを乞うてもあんまり言語化できない人が多い。その道を最初にリードされて当たり前として歩いている人がその歩き方を言語情報として提供できるのかというと、微妙。おそらく手続き記憶に収納されているから、誰でもできるようにしか話せない。

最初の足跡だと言語化に誰かと合わす必要がないから、個人的にマニュアル化できるくらい言語化は可能。この辺を踏み外すと崖から落ちるかもよとか、後続を気にして歩いているもんで。

今のお仕事、入社してから現在進行形で探り探りでない項目がほとんど増えていかない。
これは相対的な話であって、探らなくても良い項目を習得するより探り探りしなきゃならない項目が増えるような巡り合わせ。

人を探らなくて良い、お仕事だけを探る項目は正直気楽。状況でしか変動しないから。感情の変数も入ってくると探って出て来た答えが次の瞬間には正解でなくなるもんで大変。

マニュアルって普遍的なものだという認識があるのかもしれないけれど、あくまで言葉だから一義的なマニュアルの作成は不可能だと思う。全部言葉で説明するのではなく、もっと大事な項目に絞ってあとは臨機応変に、くらいの文章で良い気がする。

言語認識が人それぞれだから、そもそも一義にできない。
この国の根本ルールである日本国憲法も一義でないし。

楽しんで働いてきたもんで言語脳が躍動していて申し訳ない。
言葉と情報は記号みたいに1対1の対応関係にはならないということ。

お仕事で言えば蛇足だけど、起き抜けにはちょっと仕事行きたくない気分がある。
退場したい気分。これは、もともとあんまり人に影響を与えずに生きたいなぁという省エネ思想からきている。これが地の自己であるというのはどうも違う。単にこの感覚で生きてきた期間が長いから、脳がこれを地だと認識しているのだろうなぁと。ここから来る感情、あんまり気にしてない。

仕事が終わってご飯を作る前。

我が母と満月さんのお母様と通話をして、情報を調整した。
昔の僕だったら、このタスクこなせなかった気がする。立場とか無駄なことを考えて面倒だという感情が起こって無駄にエネルギーが消費される。

本日はここにエネルギーを使った気がない。
時間は使ったけれどお風呂読書はちゃんとしたし。

タスクとか言っているけども、感情としてここの調整も楽しかった。
何故なら両家の母親、通話の最中に笑っていたから。なんならうちの母親はうきうきしている。

感情があるのが人間というのが一般論だし、僕も感情の揺れ動きは観測しているのだが、これって、言語として類型化できるものでも無いわなという認識。僕が波打つのは自分の時間が誰かに費やされている時だが、この感情は喜怒哀楽に分類されない。別に怒っている訳でもないし。

いっつもかっつもよく読解できないことばかり書いている。

そろそろ寝るか。

2日振りのお風呂読書。
江戸川乱歩さんの「芋虫」が好きだと満月さんが言っていたのだが、なるほどなと思った。

剥き出しの欲を書こうとしているというか、社会的な人間というペルソナを外した人間とは。こういうのは普通は書けないし、日記形式の一人称ではできないところ。

睡眠時間を確保しないと起き抜けが大変なもんでここまで。

おやすみなさい。

良い夢を。


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