りんじょうかん

22:27から。

本日は早めに上がった(僕の残業上がりと同じ)満月さんが晩御飯担当。
鶏もも肉の炊き込みご飯、ひじきチーズ入りだし巻き、辛めのきんぴらごぼう、茄子の中華風焼き浸し。

全部美味い。

お互い料理できると家事負担がシンメトリーになって良いこっちゃ。
何かが起きても互いでフォローできる。分担が完全に切り分けられているとどちらかに何かがあったら立ちいかなくなる。制度的な夫婦別姓より、こういうシンメトリーの方が遥かに大事な気がする。

できないときはフォローするで良いし、できるときは分担するみたいな。

この下りで、「逃げ恥」の出産のエピソードで、旦那さんがサポートするって言ったらみくりがそうじゃない、一緒にやることでしょうという問答に対して、2人してげんなりした。

認識がズレている。男性側としては自分が出産できないし、その後の育児もメインは産みの母が主役だから支えるよという慮りの言葉だし、女性側はもっと自分のしんどさを慰めてくれるような発言を求めていて、サポートじゃなくて一緒の立場だという言葉が欲しい。

みくりはINFJとのこと。ちょっとは気持ちはわからんのでもない。「自分にとってどうか」という基準にすれば、あぁいうことになる。世界に対して違和の感じ方とか。

要は、通常の人(そんな人は居ないけど)は、最上の基準を常識と置いてそこと自分の2点で距離を測るけども、みくり系のINFJは軸が自分という1つしかないという感じ。それでも生きられるというのがこの類型の特異性だという解釈。生き辛いのであれば、他人軸とか社会軸を意識して自分の位置を測るように意識するしかない。

僕はこの「自分にとって」という軸を無くしたINFJだから、自分が自分で居ることに対してしんどさは無くなった。これによって何やら人たらし性質が上がっている。

価値観において、「自分がこうである」という基準が前情報としてあったらいまの自分がほんとうに欲しているものに辿り着けない。これが結局はこうであるという結果論だったらいいけれど、自分バイアスになると良くない。

何の話や。
いや、正直、毎日何の話やという文章しか生産していないことを知っている。

僕が知っていることが世界の全てではないから、読んでいる人にとっては何かの話になっているかもしれない。楽観。

お仕事。

お仕事場の雰囲気が良くてHPS性質としては助かる。
ピリピリしていると無駄に神経が消費されるもんで。

これは僕がこの雰囲気を作っているのでは無いかと密かに解釈している。別に言語操作もしていない。歴戦の営業マンである店長は言語で誘導されないだろうし、単なる空気感というか存在感の話。

これが仮に妄想であったとしても、現実が妄想と一致しているから、何のズレもない。
だから、ここで生き甲斐があるみたいな存在意義も感じていない。楽しいのは確かだし、試行錯誤の余地が無限すぎる。

あと、人たらし性質が拡張されている気がする。
特に細かく言葉でやりとりできない外国籍のお客様が、硯さんは優しいと評してくれる。何か物を贈与した訳でも無い。あえてプレゼントしているとすれば「スマイル」と「一生懸命さ」。

僕は外国語で自分を表現できる語学が無いから相手が拙く合わせてくれるのだが、その言葉で気持ちは分かる。

この疎通って何だろう。

と思うと、日本人同士、言葉で繋がっていると思い込んでいるところって、そんなに関係が構築されていないようなという気分になってくる。印象は言葉の前にも後にあるし、人の根っこはもっと下にある。

こっちのことを話そうとしていないから通じるのだろうか。
逆説だけど。

他意なき好意って普通は疑われる。僕もnoteを収益化しているような人がやってきたら営業か? と思う。自分にとって合いそうな人の世界。

僕はそういう意味で人の文章を読んでいる訳でない。
色んな「とって」があるよなぁって。これは若干小説を読んでいる感じっぽい。

小説の世界は公用の文章ではないから、語彙が独自でも良いし当人の世界でやれば良い。
それでも読まれるかどうかという話。

ここでの見地は、日本人同士も情報は言語で交換するけど、人格の疎通は非言語でやっているのではということ。僕と満月さんは生活の中で言った言わないという諍いがほとんど無くなっているだが、日用品の補給という情報言語はきちんと交わしている。

変な話、人が話している言葉って、耳から頭に流れても完全に記憶できないから、人って他人の言葉を耳触り目触り脳触りでしか感じて居ない気がする。

これが、世界の「いま」の長さという観測。
記憶力ではない。

読んでくれてありがとうごぜます。

おやすみなさい。

良い夢を。

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