悼みは我が身へ
こんばんは。
母親がお風呂に入っている間にスマホで。
ほんと今日はてんてこ舞い。
結果的には全て必然みたいな流れで、やはり持っているなと。
この持ってるというのは、良いことだけとは限らない。
今日退院予定の祖母が松山空港に着いて4人でご飯を食べたあとに急変し、そのまま退場した。
もちろん、悲しいし残念。
あと1日頑張ってくれたら、僕は満月さんをフィアンセとして紹介して安心してもらえたろうに。
ただ、逢いたい人に何時でも会えることは生活圏が離れてしまえばありえないし、それが彼岸になってしまうのも変な話、タイミングの問題でしかない。
別に悲しみの言い訳として何か意味を見出だしたい訳でもない。この祖母に対しては、お疲れ様でした、ゆっくり休みなはれという主観。
客観的に最後入院するまで自分でご飯を作って、とか迷惑をかけなかった話が語られるのだが、ほんとは痛かったけど頑張っていたのではという解釈もできる。痛さって言語化されない限り外の人からは観測できない。
外傷とかの傷は見えるけど、その痛さの量は当人にしかわからん。
当人の世界は当人にしか分からんもんで、僕にはこれ以上語る言葉はない。
で、まだ、弾力があるドライアイスで体温が無くなっていく体を囲みながら、色んな人が言葉を語る。
僕は発話ではなく、心の中で、間に合いました、お疲れ様でしたみたいなことを呟いていた。
父方の祖母のときこのタイミングにそこに居られなかったから、ぎりぎりまで待っててくれたんだろうなと。
人生劇場ってそういうもの。
このように、故人を前にした人間の言葉は、自ずと自分に向かうのだなと思った。他の人もだいたいそんな感じ。
だから、退場した人をおくる儀式もいきているひとのためのもの。
続き書きたかったがお話してきたもんでこのまで。
短文すまんやで。
おやすみなさい。
良い夢を。
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