明日の未来

22:37から。

スケジュールを気にするということは、人間の時間は未来から過去に流れているということ。

母親から明日のスケジュールを教えてくれと言われたが、お母様は今を生きる人なもんで、スケジュールをなかなか共有してくれないし、擦り合わせもそんなにできていないと正直に返した。僕も満月さんも2人で居る時にはそんなに気にしないが、場の予定には合わせる質。

母親の言い分は、真っ当な常識人。
行動の準備もあるけれど、心の準備を未来から逆算したいというのは精神衛生上とても大事。何年振りか分からない息子とその婚約者とお母様がやって来て精神がパンク気味だろうに、その上予定が決まってないとなると爆発するに違いない。

明日からの3連休、僕だけが全く緊張していない。
全員を知っているからこそ、蚊帳の外みたいな。

こういう意味で今回はあんまり旅行という気分はないから、また改めて実家界隈に2人で行きたいという感じ。

母親と2人で夜を過ごすなんて気を遣って仕方ない。残務とは思っているからいずれはやらないといけないことだったのだが。

まぁ、日記は書くつもりではある。ノートパソコンを持って行く。
明日の今の時間の状況は逆算できない。煙草も吸えないだろうし、小躍りもできない(やろうとすればできるか)。

さておき。

今日の話。

自転車通勤が汗だくになってくる時期。
移動速度が車より安全なもんで、考え事をしながら。

ふと「恥」という感覚が拭われていることに気付く。
「失敗」はしまくっているのだが、それに対して恥ずかしいという感覚がない。

僕は昔、初めてお酒を呑んで酔っ払った時、「恥ずかしい」を連呼していた。
おそらく、こんなに楽しんでいるのが恥ずかしいという意味合い。

「恥」の概念を考察するに、結論から言えば不合理なルールに対する違反をそういうことにしてこのルールを順守させるようにしているのではという説。

ここでいう不合理は、目的があまり明確化していないなんとなくルールということ。

例えば、ジェンダーで言うところのなんとか「らしさ」みたいな属性論とか、お土産とか。ここには明確なルールがないけれど、なんとなく不文の一般ルールがあって、そこを外れると恥ずかしいという評価になる。

知識では無く、空気感の話。

恥ずかしいという世界に付き合う言われがないなぁって。
これって欧米で言うところの「罪悪感」と似ている。

少なくとも、僕は「恥ずかしくない自分」を目的としてないなと。
1時代前だったら、料理のプロになっていない男が料理するなんて恥ずかしいと言われそう。
男子厨房に入らず、みたいな。僕の幼少期くらいまでそんな空気感の家に生きてきたのに、何故か今や鶏ハムの火入れが絶妙になっているし。

仕事。

理不尽というか不合理なルーティーンが入ってきて、店長に最初に「できません」と言った。
だって、よーいどんで仕事時間の全てをそこに費やせる訳が無いし、三連休に備えて片付けるべき事務作業が滅茶苦茶溜っているし。

いや、これはタイムスケジュールをここに焦点当てて構築するという課題でもあるし会社の施策だからと言われる。

いやいや、時間は作るものだが、元手が無いと絶対無理。
という理不尽を感じながら、こういう言われはしんどくなるなぁと。帰宅道中なんだかふらふらだった。

店長は店長としての立場でそう言うしかないという解釈もあるし、そんなに気にしていないと解釈してもなお、いちいち影響がある。場を支配する空気感を持っているから、ピリピリ感じる。

こういう恥の観念で持って来られる不合理ルールだとしんどくなるのだろうなと学習した。

こうやっていちいち場面が転換するような世界は相性が悪い、
相性が悪くてもごまかしながらやれているのは我ながら有能。

細かい話は書けないもんで、ここまで。

おやすみなさい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?