反発する地方~男尊女卑を指摘されるとき

自分の配偶者は男尊女卑というと悪評高い九州地方の出身だが、そのような目を見たことも遭ったこともない。
これは「ない」の証明ではなく、配偶者一家はそうした慣習をまるっと無視する人たちだっただけである。
ここから立証できるのは「まあ、人による」ということだ。

むしろ、私が幼い頃の地元の方が、よほどこの傾向があった。
いわゆる『サマーウォーズ』的場面である。
男たちは宴会に興じ、女たちは台所で忙しく働く。
その場にいた者として、経験者ならではの追加情報があるとするなら、女児は10歳程度になると手伝いの女たちの間に加わるということだろうか。
これは男児では見られない。男児は「一人前の男」にカウントされないのか、宴会のどこにも参加しない。酒飲めないしね。
男尊女卑だけでなく、女性という性的な立場も暗示するなかなかえぐい慣習である。

幸いなのか、不幸なのか、実家の生業の影響もあり、自分はこうした場が苦手ではなかった。
ひとことでいえば、おっさんあしらいがうまかったのである。
もちろん、これは水商売的意味合いではない。業者の出入りが多い家で育った特技である。
この当時、特に男尊女卑とは感じなかった。理由は2つある。
ひとつめは単純なことで、比較対象がなかったからだ。生まれた頃からある光景なら、それが差別かどうかなんて、なかなかわからない。
ただし、それは「嫌だ」という気持ちとは別であるが。
ふたつめは、この宴会はそれこそ江戸時代からある村の寄り合いだったり、行事の名残だったりして、それなりに機能してきた仕組みの一部として組み込まれているものだからである。
例えば、壊れかけの自動車でも田舎暮らしをしていたら、ないよりはマシだろう。
そこに都会から颯爽とやってきて「電車使いなよ! エコだし!」とか言われても、「ハァ?」としか返事のしようはないのだ。

では、今やりたいか、といったらまっぴらごめんである。
自分の時間が削られるし、できるからといって愛想よく応対することが好きではない。疲れる。
現在は、この手の集まりは簡略化の一途をたどっている。
葬式は葬祭場で行われ、祭の料理は仕出しになり、持ち回りの寄り合いは姿を消した。
滅びつつあるとはいっても、皆無ではないので、必要が生じたら吐くほど嫌だが、自分は出るだろう。高齢の親の代わりに。
だが、自分の子世代にやらせたいかといったら、そんな気持ちはさらさらない。

自分はこういう環境で育ってきたし、接する近隣の者は大抵こっちを知っているか、こっちが知っている誰かの縁者だ。ゆるく身内なのである。
適当に合わせることもできるし、イヤなことはイヤ、問題があれば「やめなよ」と言える。
しかし、外部からきたお嫁さんなどには難しいし、そもそも知らん人ばかりでしんどいだろう。
所詮は滅びゆく風景なのだ。

都会の人間から見たら、いわゆる「因習村」と言われるようなイヤな風習だろう。
けれど、これらが一体として機能してきた過去があり、まだ、一部ではそれが必要とされている。
例えば、地域で所有している山がある。そこを管理するのは地域の仕事とされている。
もともとは、山は水源であり、燃料や食料などの供給源であり、資産であった。生活インフラである。
その反面、里山とすることで災害リスクや害獣リスクを下げるという、地域に留まらないセーフティーネットの一部でもあった。
所有していない場所でも、地域に管理を委託している自治体は多いだろう。
委託、というが、要は大昔からある「組」「方」のようなくくりの隣保組織が自力救済の場合もあるし、時の権力者が施行した場合もあるが、とにかく「自分の住む場所は自分で管理しなさい」という精神で任されていた作業である。
現代では、自治体がすべき部分も未だ地域の手にある部分が多い。
なぜかというと、金がないからだ。

今、この担い手がぐいぐい減っている。
人口は減り、戸建て所有者も減り、自治会に人は入らない。
そのくせ自治会が自前で設置したゴミ集積所は使うなど、軋轢が起きているケースもある。
むろん、以前からの居住者がいい加減な運営をしている場合もある。
どちらが、正しい、という話ではなく、「他人が設置したものを無断で使うことができない」「人を増やしたいなら、それなりの説得力ある組織づくりをしなければならない」ということだ。
それをお互いに「そんな義務はない」「昔からこうだから」では折り合いはつかないだろう。

男尊女卑の指摘をされる地方からの反発もこれと同じことなのだ。
古くから機能してきた仕組みがあり、風土の一部となっている。赤の他人にそこをいきなり「男尊女卑」と指摘し、前時代的であるといわれても受け入れられるものではないだろう。
主張は論理的ではないし、何も証明しえないが、感情としては理解できる。
国道すらろくになく整備されてない場所で、電車の話をされたって「ちげーわ」としか言いようはないだろう。
自分がそこにいってイヤな経験をした、というのではなく、伝聞でただ「さす九」と言う場合は、それは他人を無意味に攻撃していることになるだろう。
その自覚がない、というのは、正論を言っているつもりなのかもしれないが、烏滸がましいのではないかと思える。
一方で地方側も、「当事者がいやだと言ったら改めること」「外部から見てどう思われることなのか」という二点くらいは押さえておくべきだとも思う。

地方の風習には、男尊女卑を多分に含んだ部分がかなりある。
これは紛れもない事実で、当事者は緩やかにか、急速にかはともかく、いつかは変わらなければならない。
だが、だからといって、無関係の第三者に「因習村」などといっておもしろおかしく突っ込まれるような筋合いも同時にないものなのだ。

なお、そういう育ちの自分だが、他地方で遭遇したら、拒否するか、一抜けするかの二択だ。
自治会は災害時の拠点にもなるので、都会でない限りは入った方がいいとは思う。
だから、家を買うなら地域リサーチは重要だよ。
それをしないでおいて、「ここの自治会は~」と文句を言うのは、単に自分の不手際を露呈しているだけのことである。
日本には金がない。
だから、小規模な自治組織を完全に排除して、田舎では生きていくことは難しい。これも現実だ。

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