小説『ビル』

「彼氏のちんこがね、大きくなったんよ」
朱音は胸まで伸びている茶色くて綺麗な髪をくるくるいじりながらそう呟いた。真昼間の喫茶店でする発言と声量でなかったので私は少したじろぎつつ、なるべく真顔で「良かったじゃん」と言った。
「いや、良くないよ。菜々が思ってるレベルじゃないんだよ」
店の出入口のドアが開き、扉の上部に取り付けられているスピーカーからカランコロンと音が鳴って客が三人入店した。全員男性でスーツを身にまとっている。歳は三十代半ばといったところだ。これから真面目な会議でも始めそうな装いである。私は朱音がこれから話すであろう議題を男性達に聞かれるのではないかと思い、三人がどの席に座るのか肝を冷やしたが、男性達は私達が今座ってる席より四つ向こうの席に座った。ハラハラせず朱音の話を聞けることに安堵する。朱音は脚を組み替えて、ウインナーコーヒーに手を伸ばした。
「彼氏のちんこ、ちょっとしたビルくらいの大きさになっちゃったんだよね」
朱音はそう言ってコーヒーを一口飲み、小さくため息をついた。口の端に少しクリームが付いたが指摘するのはやめておくことにした。
唐突な朱音のカミングアウトにどう返そうか一瞬悩んだが、冗談は冗談で返すのが礼儀だと思う。「へえ、何階分くらいに?」
「七階くらいかな」
「結構だね」
「だから今ちんこだけ外で生活してて大変でさ、雨の日とか濡れちゃって我慢汁いっぱい出てるみたいになるの」
「ええ、それは、雨の度に気色悪いね」
「てかセックスできないから困るんだよね。Tinder入れようかな」
「浮気やめなー?」
「だって七階だよ? 入らないじゃんどう頑張っても。あーあ、ストレス溜まるわ」
先程入ってきた三人の男性客が、今どのインフルエンサーがZ世代に注目を集めているのかを真剣に話している声が聞こえる。ということは当然こちらの会話も聞こえているだろう。男性達の為にこの下品な会話をやめたいが、きっと無理だ。朱音はぎょっとするほどの美人で、風貌も港区に住んでいそうな雰囲気を持つ女だが、シモの話になると話が止まらず、かつ内容も独創的になる。彼女が今の恋人と交際を始める前、五対一(五が男性)で性行為を行った話を聞かされた。朱音曰く、一晩のセックスで相手できる限界の人数は五人らしい。それ以上になると性交痛で一日動けなくなると言っていた。
「彼氏、ちんこでかくなって実家から動けないから仕事も今リモートなんだよね」
朱音はまだこの話を続けるつもりだ。話を辞めさせてもいいが変な空気になるのは嫌だし、それに私は朱音のシモの話を好意的に思っている。私は続けて冗談に乗った。
「へえ」
「庭がちんこで占領されてんの」
「それ道行く人びっくりしない?」
「大きすぎて誰もちんこだって気づかないよ」
「ふーん」
「やっぱり、こうなっちゃうと、別れたいなと思うんだけど、薄情かな?」
朱音は手を組み、右手の親指で左手の親指を擦りだした。真剣な証拠だ。真顔で冗談を言っている様は面白かったが、笑ってしまってはここまでの冗談が水の泡になる。私も努めて真剣に話した。
「私は、彼のちんこがビルの大きさになったら、とりあえず縮むのを待つかな」
「縮むかな?」
「膨らんだんだから縮むでしょ」
私は、私のカモミールティーが冷めてきていることに気がついた。慌ててごくごくと飲んだら朱音に「一気飲みする飲み物じゃねーだろ」と笑われた。
遠くの席に座る三人の男性達が『かなやん』というティックトッカーの持つ魅力について談義している。耳をそばだてると『かなやん』の身体は、細くあるべきところは細く、胸やお尻などの出るべき箇所はもっちりと重量がある、非常に良いスタイルであるそうだ。三人は『かなやん』に自社で作っている脱毛剤のPRを頼みたいらしく、『かなやん』の脇がいかにツルツルなのかダンス動画を見て確認し始めた。
「これはツルツルですね」
「そうでしょう、ツルツルでしょう」
「見事に綺麗な脇ですね」
「川北さんにOKもらえたらGOしましょう」
「そうっすね」
なにやら1つ案件が決まった。来店してから決定するまでずいぶん早いな、と思った。おそらくこの店に来る前にある程度話はまとまっていたのだろう。私はツルツルというワードを聞いて、次のVIO脱毛は来週だなとふと思い出した。
朱音はセパレートの髪をかきあげた。耳が見え、塞がったピアス跡がいくつも目に付いた。そういえば朱音は大学時代ピアスを右耳だけ八個開けていた。朱音の綺麗な顔立ちに見惚れていたら、その大きくて美しい唇が動いた。
「あ、ちんこの写真みる?」
えっ、と声が出た。えっ、えっ、えっ、冗談じゃなくて本当にちんこビルサイズになったの?と、この冗談の前提を聞き返しそうになったが、ここまで二人で積み上げてきた冗談を崩したくない気持ちが勝った。そうだ、どうせ合成写真だろう。これ程の冗談をしかけてくるのは初めてで驚くが、せっかく手の込んだことをしてくれているのだから、この冗談を完遂させてあげなければならない。
「写真あるの?」
「うん。彼氏んちの近くに山あるんだけど、登って上から撮った」
「見たいな」
「ちょっと待ってね」
朱音はiPhone14を操作し始めた。朱音は新しいiPhoneやiPadが出る度、機材を新調する。私は面倒くさいので未だにiPhone12を使っている。朱音のAppleに対するマメさはコアな男性並みで、実際、仕事をバリバリとこなすキャリアウーマンだ。化粧品会社の営業でトップの成績をおさめているらしい。ゆるりとメガネ屋の店員をしている私は、朱音のことを素直に尊敬している。
「はい、これ」
朱音が見せてきた写真には、閑静な住宅街の中に、ちょっとしたビル並の高さを誇る有り得ないサイズの男性器が映っていた。男性器が起立している様を見て、これが合成写真ではないことを直感で悟った。不思議と、混乱はしなかった。私はこの話題になってから初めて冗談でなく、本気で朱音に質問をした。
「え、ずっと勃起してるの?」
「ううん、朝撮ったから、朝立ち」
「朝に山登ったの?」
「ついでに朝焼け見たかったから」
「大変じゃない?」
「ああ、車で登ったから」
「ああ、車か」
私は、この過剰な現実を受け入れていた。と、同時に、自分の彼のちんこがビル並の大きさになったらどんな気持ちになるだろうと考えた。私は朱音になるべく慮った発言をしたいと感じた。
三人の男性は他にどのインフルエンサーにPRを頼むか、リストアップされている人物の中から選定をし始めた。『かなやん』だけではPRに足らないらしい。『したたん』『ぷにゅ』『ゆきみよ』の名前が挙がった。『ぷにゅ』の事は私も知っている。プラスサイズモデルをしていて、私が毎月購読している雑誌の紙面に登場しているからだ。
「ねえ、ちんこ、縮むと思う?別れた方がいいかな?」
手を組んだ朱音の親指が、朱音の親指を擦り続けている。おそらく数日前に行ったばかりであろう綺麗に塗られているジェルネイルが剥がれそうな勢いで、異様に擦り続けている。彼女はずっと真剣だったのだ。冗談で会話していた私は反省をした。朱音への礼儀として、渾身の解答が必要だと思った。
「彼に寄り添ってあげなよ」
私はそう告げて、ほとんど冷めきっているカモミールティーをグビグビ飲んだ。と、同時に自分の彼氏の男性器がビルサイズでないことに感謝した。私の彼は愛情表現をされるのが得意じゃない。彼に日頃の感謝をどう伝えようかということに、既に私の頭はビルサイズの男性器からシフトチェンジしていた。
三人の男性は会議が一通り済んだのか、一様にコーヒーを飲み干し、店を去るため会計の相談をしていた。話を聞くと、この店は個別会計ができるみたいだ。その会話を朱音も聞いていたのか、不意にちょこんと呟いた。
「ここの会計は菜々が払ってよね」
何故私が会計を持たなければいけないのか分からなかったが、500円ぽっち、それで朱音の気が休まるなら払ってあげようじゃないの、と思った。朱音の彼のちんこが縮まることを切に願いながら、私は残りの渋いカモミールティーを飲み干した。

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