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【読書メモ】富永京子『みんなの「わがまま」入門』左右社、2019年


 昨年、多くのネット記事や書評になっており、「社会運動」の本ということもあり大学図書館で借りて読んでみた。目次などは下記リンクを参照。

 本の冒頭でも書いてる通り、中高一貫校での講演を元にしている(高校の名前はあとがきに書いてある)。

 「はじめに」で本著の目的が簡潔に書かれている。

「わがまま」をはじめとした社会運動に対する悪口の背景をひもとくことで、それを明らかにしようと考えたのが、この本です。(10頁)

 そして、本書につながる問題意識は「あとがき」に書いてある。2015年の安保法案反対運動に参加した学生と出会ったが、『社会運動と若者』について受けた記事で「冷笑的」「批判的」であるといった反応を受け、その学生と疎遠になったという。

しかし、私の持っている社会運動に対する立場ーー社会運動の目的には同調するものの、参加には躊躇いがあり、一歩踏み出すことがどうしてもできないーーは、どうしても変えることができない。であれば、その躊躇いや踏み出せない思いがどこから生まれているのか説明することが、また、いわゆる社会運動という形を取らずとも可能な運動のやり方や魅力を描くことが、私なりに彼らの活動を引き継ぐことになると考えたのだ。(266頁)

 当時学部生で数年後に自分が大学院で社会運動の研究をするなんて思わなかった私は当時、上の記事を読んで「冷笑的」というか「サブカル化とか、こういうことを”研究”して何の意味があるのかなぁ」と思った。

 そして、改めて本を読んだ上で「社会運動」を「わがまま」と捉え、中高生向けに話すことが「彼らの活動を引き継ぐこと」になるのかモヤモヤした。そして何より「社会運動に対する悪口の背景をひもとく」内容のようであまり社会構造の話が出てこないこともモヤモヤした。

 そのようなモヤモヤを感じる中で福井新聞に小杉亮子さんの書評が的確にモヤモヤを整理していた。

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 社会運動についてのガイドブックとして一定の評価をしつつも、以下のように本著の問題点を指摘している。

気になったのは、社会運動がわがままだと感じられる理由を、主にグローバル化による生活経験や価値観の多様化から説明している点である。グローバル化だけでは、同様の影響下にある他国と比べても、とくに日本で社会運動の忌避感が強いことを説明できない

 そして、社会学では「わがまま」は「クレイム申し立て」という用語で「主張」「要求」を意味していることを指摘した上で次のように書いている。

いまの日本社会では、社会運動を「主張」ではなく、いったんは「わがまま」と呼ぶほうが受け入れやすいという感性が存在するのだろう。そうだとすれば、社会運動をわがままと見なすこの社会の抑圧のありようこそ、若い読者が知りたい内容ではないだろうか。

 「個人化」「多様化」が進んでいることや、「自分とは異なる人の存在」「親とは異なる大人の考え」があること、マンガなどの身近な例を持ち出して社会運動が遠い問題ではないことを中高生に伝えることで社会運動に対する「怖い」という忌避感はある程度は緩和されるだろうし、話を聞いた生徒は少しは社会運動に対して寛容になるだろう。

 しかし、伝えることが日本社会の社会運動に対する強烈な忌避感を生み出す傾向性・社会構造を大きく転換するわけないし、むしろ社会運動に対する強烈な忌避感を生み出す傾向性・社会構造こそが知りたい内容であると言える。

 加えて、「わがまま」という例えを使うことの問題点は以下のような点にあると言える。

私のゼミの学生はアルバイトの人々が過酷な状況で働かされている「ブラック労働」に反対するために、深夜にコンビニには行かない、ワンオペ(ひとりで店舗を運営している状態)のファストフード店では食べないと言っていました。こうして身近なできごとから、ゆるゆるとでも無理のない範囲で継続するのが、あなた自身にとっても社会にとっても一番大事なことです。(205頁)

 この例が一番象徴的な気がするが、単なる消費行動と権利要求運動などをすべて「わがまま」(=社会運動)としている点が「わがまま」というメタファーの問題点だと思う。正直、「ブラック労働」は労働法という「権利」を使って闘わないと本質的に解決しない問題だ。「ゆるゆると無理の範囲で継続する」間に過労死で人は死んでいくし、もしかしたら話を聞いた生徒が「ブラック労働」に巻き込まれるかもしれない。

 忌避感の強い「普通の人」に対して、そうじゃないライフスタイルに根ざした社会運動としての「わがまま」を提案すること自体は全く悪いことではない。しかし、それは根本的な対立を抱えている社会構造に対するラディカルな異議申し立てが行われない/行えない状況を変革しようとするわけではなく、代替的な運動スタイルを「普通の人」に紹介してるだけな気がする。

 私は端的に社会運動への忌避感を払拭するためには、生活に根ざした社会運動を「提案」することよりも、抵抗や抗議といった社会運動自体を「日常化」させる必要があると考える。そして、その「日常」は普段の職場といった労働現場の中に存在すると思うし、職場での闘争を活発化する方向に社会が向かうことを望んでいる。

(今年の3月時点で8割がた書いていたのだが完全に忘れていた。ここ最近[2020年10月11日現在]で富永氏が色々ツイッターとかポリタスTVとかで話していたのを聞いて思い出した。)

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