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【読書メモ】ジョン・ホロウェイ『権力を取らずに世界を変える』同時代社、2009年

 ジョン・ホロウェイ『権力を取らずに世界を変える』(同時代社、2009年)について。
※メモとして単純化している部分があるので時間がある方はぜひ原著を読んでください。

 目次は以下の通り。

1叫び/2国家を越える?/3権力を越える?/4物神崇拝―痛ましいディレンマ/5物神崇拝と物神化/6反物神崇拝と批判/7科学的マルクス主義の伝統/8批判的・革命的主体/9反権力の物質的リアリティ/10 反権力の物質的リアリティと資本の危機/11 革命?/エピローグ 立ち向かいながら乗り越えていく運動

 そして、本に書いてあるホロウェイの紹介は以下の通り。

【ジョン・ホロウェイ】社会学・哲学・政治学者。1947年、アイルランドのダブリンに生まれる。エディンバラ大学に学び、政治学で博士号を取る。同大学教授などを経て、現在はメキシコのプエブラ自治大学社会人文科学研究所教授。メキシコのサパティスタ運動、アルゼンチンのピケテーロス運動などの民衆運動に実践的・理論的に関与し、世界社会フォーラムで活躍。アントニオ・ネグリ、マイケル・ハートと並び称される反権力(アンチパワー)思想家。

 プロフィールから分かるように西欧マルクス主義に影響を受けており、ホロウェイ自身による選書でもアドルノ、ブロッホ、ルカーチ、マルクーゼといったフランクフルト学派の理論家の著作だけでなく、パシュカーニスの『法の一般理論とマルクス主義』もあげられている。

 そして、『権力を取らずに世界を変える』の中でもたびたび以上の理論家が引用される。

 一方で実践的にはサパティスタや自治管理闘争などアナキズム的な闘争を志向している。ホロウェイの理論はのちで述べるような「予示的政治」(prefiguraive politics)としてアナキズム的な方向性で影響力を持っている。 

「叫び」と反資本主義

 本著は次のような一文から始まる。

初めに叫びがある。われわれは叫ぶ。……私たちが何かを書くとき、あるいは私たちが何かを読むとき、初めにあるのが言葉ではなく叫びであることは忘れられがちです。資本主義によって人間の生活が引き裂かれる事態に直面したとき口をついて出るのはノー!という悲しみの叫び、恐怖の叫び、怒りの叫び、拒絶の叫びです。(13頁)

 この「叫び」と抵抗する「主体性」が本著の重要なキーワードとなる。

主体としての人間というとらえかたは歴史的につくられたものだ、といわれるわけです。それはそうかもしれません。しかし、私たちの出発点、資本主義社会の悲惨を容認することを断固として拒否する叫びというところから展開していけば、主体性という考え方にゆきつかざるをえないのです。人間の主体性を否定することは、叫びを否定することになります。(61頁)

科学的マルクス主義の伝統に対する批判、予示的政治

 『権力を取らずに世界を変える』というタイトルの通り、ホロウェイが批判対象としているのは「権力を奪取」して「革命」を起こそうとしてきた伝統的な科学的マルクス主義である。ホロウェイは伝統的マルクス主義において闘争が「道具的」になり、闘争そのものの意味を軽視する傾向を批判している。

目標に向かって動いている歴史の客観的運動というエンゲルスの観念は、闘争に二次的な役割しか認めません。闘争が歴史の運動を支えるだけとみられているか、もっと積極的な役割を果たしているかと見られているかにかかわりなく、いずれにしても、闘争の意味は客観的法則の実現との関係からのみ生まれてくることになります。強調点に違いがあるにせよ、こうした見方からすれば、闘争が自己解放を実現するものだとは見られていないことは確かです。定められた目標を現実のものとすることとの関係においてのみ重要性を持っているにすぎないのです。ですから、闘争というもののとらえかたが、全体として、道具的になるのです。……これによって、闘争は、何かに反対する闘争[反対闘争]から何かを実現する闘争[実現闘争]に姿を変えるのです。実現闘争はコミュニズム社会を創り出すための戦いですが、肯定的科学のアプローチに含まれている道具主義的な観点から、その闘争は一歩一歩斬新的に進んでいくものと考えられるようになり、その歩みの中の決定的な一歩、革命への梃子の視点が「権力の獲得」にあると考えられるようになったのです。「権力の獲得」という観点は、それ自体で独立した個別的な目標からはるかに格上げされて、理論と闘争のアプローチ全体において中心の位置を占めるようになったのです。(247頁)
(正統マルクス主義の系譜、レーニン主義の系譜といった)こうしたアプローチがはらんでいる問題点は、闘いがもっている無限の豊かさを権力奪取というたったひとつの目標に従属させるところにあります。その無限の豊かさのためにこそ闘いがあるというのに。革命を道具とみなすことによって、「させる」力(さまざまな闘いを大文字の単一の「闘争」に従属させるもの)が再生産されざるを得ません。(412頁)

 また、ホロウェイにとってマルクス主義による「労働者階級」意識の注入は階層構造(ヒエラルキー)を生むものとして批判される。

マルクス主義者の実践とは、労働者に意識をもたらし、労働者に説明をして、労働者の利益はどこにあるかを知らせ、啓蒙し教育することになります。このような実践は、世界中の革命運動のなかで広く確立されましたが、その起源は、レーニン主義の権威主義的伝統にだけ求められるものではなくて、むしろエンゲルスが打ち立てた肯定的な科学概念にこそあったのです。「について」の認識[対象に対する客観的認識]は「させる」力[対象を支配する権能]なのです。もし科学というものが「について」の認識だとされるならば、そこに不可避的に、この認識を持っている者(そして、それによって「正しい路線」に近づける者)とそうでない者(大衆)との間の階層的上下関係(ヒエラルキー)が存在することになります。大衆を指導し教育するのは、「認識にあずかっている者」の任務なのです。(260~261頁)

 260~261頁の注釈においてアントニオ・グラムシの「有機的知識人」という概念すら批判対象に上げていることからも従来型の階層構造(ヒエラルキー)を持った闘争形態を拒否していることがわかる。

 それに対してホロウェイが重視するのは自治管理闘争といった水平的な反資本主義・反権力の運動である。

(チアパスの自主管理自治体、メキシコ国立自治大学の学生たち、リヴァプールの港湾労働者たち、金融資本の権力に反対する国際的なデモンストレーションの波など)いつでも新しい闘いが起こっているのです。世界全体に、権力の獲得をめざさない闘い、「させる」力に立ち向かう闘いが広がっています。全世界で「ノー!」というだけの闘い……が広がっていますが、そうした闘いは、「ノー!」といっている過程で、自分のことは自分で決定し、世界はどうあるべきかについての別の考え方をはっきりと表明するような闘争形態をとっていくのです。(307頁)

 「自分のことは自分で決定し、世界はどうあるべきかについての別の考え方をはっきりと表明するような闘争形態」は近年、「予示的政治」(prefiguraive politics)としてアナーキストかつ文化人類学者のデヴィッド・グレーバーらとともに1990年代以降の反グローバリゼーション運動の理論的バックボーンとされている。それに対して、ホロウェイが批判するような科学的マルクス主義は「戦略的政治」(strategic politics)と位置付けられている(「予示的政治」「戦略的政治」について以下の記事を参照。なお、のちの述べるようにホロウェイの理論は単なるアナーキズム的な文脈における「予示的政治」として位置づけるのは不十分であると言える。なおこの点については改めて違う記事でまとめたい)。


 このようなホロウェイが重視する「ノー!」という運動は「させる」力に対する、「する」力の解放として肯定的に位置付けられる。

支配の円環を打破する展望をあたえてくれるのは、「する」力の運動、人間の潜在力を解放する闘いにほかなりません。「させる」力の克服は、「する」力の解放を実践することを通じてのみなしうるのです。(302頁)

物象化論を基礎とした国家導出論争的な問題構成

 「する」力と「させる」力の関係が本著のキーワードである・ホロウェイ自身は「する」力と「させる」力について以下のように述べている。

「する」力というのは、いつでも、社会性というものの組み立てられ方、行為というものの組織のされ方の一部をなしているものだからです。行為(そして「する」力)は、いつでも、社会的流れの一部なのですが、その流れはさまざまなかたちを取っています。……行為の社会的流れが壊されると、「する」力は反対のもの、「させる」力=支配する力にかたちを変えられてしまいます。(65頁)

 マルクスを少しでも読んだ事がある人であれば、この「する」力と「させる」力という二つの関係性はマルクスの「物象化論」「物神崇拝」アプローチをもとにしている事がわかる。

正統派マルクス主義の核は、確実性を自分たちの側に引き込もうとする試みにあります。この試みは根本的な考え違いにもとづくものです。確実性は向こう側、支配の側にしかあり得ないものなのです。私たちの闘いは、もともと、そして深いところから不確実なものなのです。なぜなら確実性というのは、社会関係の物象化を基礎にして初めて考えられるものだからです。……私たちの闘いは、物象化にあらがう闘いであり、したがってまた、確実性にあらがう闘いなのです。(274頁)
資本主義社会で……ある人がほかの人々をこき使うことが「権利」として固定化されるようになったのは、……<支配者>と<行為者が生み出したもの>との間の関係を通じてだったのです。(69頁) 

 マルクスの物象化論が述べていたのはバラバラの諸個人が行う私的労働という歴史的に特殊な労働が価値形態、貨幣形態、資本形態という、労働者を支配する転倒した形態を生み出すという事だった。「する」力と「させる」力の関係はまさに物象化論的アプローチを基礎として述べられている。

(経済的なものと政治的なものの)この分離において政治的なものが権力行使の領域である……のだけど、その一方で、実際には、権力の行使(「する」力の「させる」力への変換)はすでに行為の結果を行為から切り離すことの内に、したがってまた、経済的なものと政治的なものとの社会関係の別個の形態として構成することそのもののうちに内在していたということです。(73頁)
ですから、物象化は、ただ単に客体の支配に関わるだけではなくて、独特のかたちで位置を狂わされた主体を生みだすことにも関わっているのです。行為者が行為と行為が生み出したものから切り離されることによって、行為者は行為からさまよい出て、行為の結果に従属するようになるのですが、ところが、そうでありながら、行為者は行為の結果から全く自立しているかのように見えるのです。(146頁)

 そして、ホロウェイにとって「国家」も「貨幣」や「資本」と同じように「する」力が「させる」力に転換したものとして捉えられている。また、国家形態も形成される中で「自律性」を持つようになる。

価値形態、貨幣形態、資本形態、国家形態などの諸形態は、資本主義の起源においていったん確立されてそのまま存続してきたというようなものではないのです。そうではなくて、それら諸形態は、つねに争点になっていて、つねに社会関係の形態として問題にされているのであって、つねに争いを通じて確立されたり、再確立されたり、されなかったりしてきたものなのです。社会関係のさまざまな形態は、社会関係を「形態にする」過程でもあるのです。(184頁)
社会関係、人と人との間の関係は、流動的で、予想がつかず、変わりやすく、激しく変転することの多いものですが、そうした社会関係がある形態に固定され、その形態が自らの自律性、みずからの原動力を獲得して、社会の安定のために決定的に重要な役割を果たす形態になることがあるのです。……そうすると、国家というのは、社会関係が固定化された形態、あるいは物神化された形態であるということになります。それは、人と人との関係としてあらわれることのなくなった人と人との間の関係であり、社会的諸関係の外になんらかの形態としてあるような社会関係なのです。(188~189頁)

 このような「国家」に対する分析はホロウェイ自身が関わった「国家導出論争」の議論を元にしており、実際189頁以降「国家導出論争」について書かれている。

 つまり、ホロウェイが伝統的なマルクス主義を否定し、アナキズム的な「反権力」闘争を志向するのは、「国家」自体が人間の「する」力が「させる」力に転化した社会関係であり、単に「国家」を奪取するだけでは「させる」力がなくなることはないという「国会導出論争」的な問題意識が背景にあるからだと言える。

抽象人間的労働の把握と分析カテゴリーの「労働」から「行為」への転換

 一方でホロウェイはマルクスの「抽象的人間的労働」を賃労働に特有の側面として捉え、その不十分さを指摘することで「労働」という基礎的な分析カテゴリーを否定することになる。

行為は労働に還元され、資本の増殖に奉仕する行為に限定されてしまいます。…行為が労働となってしまうと、それは量として量られるようになります。ある一定時間の長さの時間の労働、ある価格で売られているものをつくりだす労働、価値をつくりだす労働、賃金としてのお金で量的に報いられる労働になるのです。(123頁)
(『資本論』第1章について)社会的行為が商品生産労働として存在することを通じて、貨幣が継続的に再生産されていることを暴いています。貨幣は行為が抽象的労働として存在しなければ存在することができません。(233頁)
労働価値説の第二の主張は、行為の従属化ということで、資本主義のもとでは、人間の創造的な行為が抽象的人間的労働という非人間化されたプロセス、すなわち価値生産過程に還元されてしまうということです。(361頁)

 マルクスが述べた「抽象的人間的労働」は賃労働に特有なものではなく、「生理学的な意味での人間的労働力の支出」として歴史貫通的に人間が社会を再生産する際に行ってきたものであり、それが私的労働としておこなわれる場合のみ価値を形成する(この点に関しては以下の論文を参照)。

 ホロウェイはこの「労働」という基礎的な分析カテゴリーに代えて「行為」を基礎的な分析カテゴリーとして位置付ける。

そうすると、はたして仕事が中心になっているのだろうかという私たちの疑問に対する答えが明らかになってきます。中心になっているのは労働(レーバー)ではなくて、行為なのです。行為は、労働のなかに、労働に立ち向かいつつ乗り越えようとしながら存在しています。無批判に労働から出発することは、初めから物神化された世界に自分を閉じ込めてしまうことになります。(294頁)

 「する」力と「させる」力という関係性をもとにした分析は物象化論的な分析を元にしているのにも関わらず、「する」力を「行為」というより広い概念で捉え、マルクスの理論の中心にあった「労働」を破棄している。その上でホロウェイは創造的な活動一般を示す「仕事」(work)という「行為」を闘争において重要な要素として位置付ける。

 つまり、マルクス的な「労働を基礎とする社会把握」よりも「反権力・反資本主義」的な「行為」に重点を置いた「主体性論」こそがホロウェイの問題関心の中心だと言える。

 そのように考えると。冒頭の「叫び」も「主体性」への肯定として意味があるものとして位置付けらていると考えられる。

国家・資本からの自律と自己決定

 そのようなマルクス解釈における問題点にも関わらずホロウェイの理論的な豊かさは国家・政党に頼らず、反権力・反資本主義運動を組織していく中で自律した領域を作り、接合させていくという「革命」ビジョンを示している点である。

ノーは単なるノーではないのです。少なくとも叫びは脱自的なもの[みずからを乗り越え出ていくもの]です。叫びは、現に存在するものを拒むことにおいて、そこにどういうものが変わって置かれるべきかについて、何かの考えを投げかけるのです。闘いは、単なる反対闘争ではありません。闘いを共有するという経験のなかに、資本主義の社会関係とは質が違う関係をおたがいに結び発展させていくことが、すでに含まれているのです。……闘いには、社会的行為をふたたび積極的にとらえかえすこと、「する」力を取りもどすことが含まれているのです。(402頁)
コミュニズムの運動は、英雄的(ヒロイック)なものとは反対のものです。英雄というのは、共同体から抜きん出た存在で、共同体がもっている行動力を自分のもとに引き付けます。革命の伝統は、多くの英雄で満ちているます。……しかし、それにもかかわらず英雄的(ヒロイック)な革命という観念、あるいは革命の英雄という観念には、どこか非常に矛盾したものが感じられます。革命の目標は普通の日常生活を変えることにあります。そして、普通の日常生活のなかからこそ革命が生まれ出てこなければならないということも確かなのです。コミュニズム革命の理念は、私たちが誰かに率いられることのない社会、私たちすべてが責任を負っている社会を作り出すことにあります。(406頁)
それはそれらが微少政治的(マイクロポリティカル)な[身のまわりの非常に狭い範囲のことしか問題にしない]アプローチだという意味ではありません。それが闘いのように見えないのは、このさまざまな闘いの混沌とした豊かさが、「する」力を解放するための、人間の行為を資本から自由にするためのただひとつの闘いに融合しているからなのです。(411頁)
唯一の前進の道は、行為の代替的(オルタナティブ)な形態[行為のもうひとつ別のあり方]を漸進的に拡張していくこと、その方向で絶えず乗り越えて動いていくことを、孤立した自律的事業としてではなく、新たな(そして実験的な)接合形態の結節点として展開していくことではないか、と思われます。ただこの意味において、つまり下からの運動の一部として、国家の方向ではなく、諸コミューンからなるコミューン、諸評議会からなる評議会、あるいは新たな共有領域(コモンズ)の創造の方向をつらぬいていく運動の一部として展開されてこそ、社会的プランニングは社会的自己決定の表現となることができるのです。(464頁)

 このような闘いの中でホロウェイは「国家を通して闘う」ことに対して基本的に一貫して反対している。

例えばホロウェイと同時に「国家導出論争」に参加した、ヨアヒム・ヒルシュは「改良主義的ラディカリズム」という考え方でホロウェイと同じように資本主義的生産関係および資本主義国家から自律した領域を作る必要性を述べている一方で、「しかし、同時に」闘争形態の「制度化」などを用いて、「国家を通して闘う」重要性も述べている。

 しかし、ホロウェイは「しかし、同時に」「国家を通して闘う」考え方はコミュニズム的な自己決定とは真逆の方向を向いているとして否定する。一方で「しかし、にもかかわらず」「国家を通して闘う」という可能性は成立する余地があるかもしれないと述べている。

私たちの国家に対する関与を認識することは、国家のなかにあって国家と対立する運動、国家という存在が含んでいる社会関係の形態のなかにありながら、それと対立し、それを乗り越えていく運動を行なっているという状況においては、重要なことなのです。(453頁)

 ちなみにこの点についてヒルシュらからの『国家のなかから国家に抗して』(『In and Against the State』1979年)と立場を逆転させたとの指摘に対して、「私はそうだとは思いません。ただ、国家の性格の変化と関連して、力点の置き方を変えたところはあります。」(509~510頁)と書いている。

 このようなホロウェイの「革命」ビジョンおよび「予示的政治」としての側面は、「国家」「権力」の奪取、より分かりやすくいえば「選挙」によって「政権」を奪取することしか考えていない「政治主義」的な社会運動に対する痛烈な批判になるだろう。

 今回のこのnoteではホロウェイの叙述をある程度単純化しており、今回まとめた論点にとどまらない多様な論点を含んでいる。この読書ノートにとどまらず原著を読んで確認してほしい。

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