第704回 いろんな美しさがあっていい
1、日本刀レビュー40
今回は週刊『日本刀』40号をご紹介します。
ちなみに前回はこちら。
2、選ばれたものと選ばれないもの
巻頭の【日本刀ファイル】は国宗。
備前長船にありながら長船派とは別系統となる直宗派に属し、
鎌倉幕府に見出されて鎌倉へと移ったのが若干18歳だったとも言われる名工です。
相州伝の祖である新藤五国光も一時国宗に指示したとされ、
北条時頼の命令で82歳にして作刀を行ったという伝説も伝わっています。
掲載作は島津家に代々伝わったもので、島津斉彬を祭神とする鹿児島県鹿児島市の照国神社に奉納されたものです。
なんと昭和20年にGHQの刀狩りによってアメリカに持ち去られてしまいますが、
米国随一の愛刀家として知られるウォルターAコンプトンが骨董店で偶然見つけ、
これは個人が所有すべきものではない、と判断して無償で日本に返還されたという曰くつきです。
一度は言ってみたいセリフですね(笑)
さて、気を取り直して【刀剣人物伝】は徳川吉宗。
言わずとしれた江戸幕府8代将軍。
享保の改革の一環で太平の世に慣れた武士たちを叱咤し、武芸の奨励にも力を入れたとのこと。
刀剣に対する愛着も一方ならぬものがあり、
歴代将軍で自ら将軍家に伝わる刀剣を改めたのは彼だけだったとされています。
本連載になんども登場する『享保名物帳』という目録作成もその功績の一つ。
さらに新刀の調査として全国の諸大名に対して、領内の刀工の名を提出するように求め、
合計70家の大名から277人の名簿があがってきたとのこと。
それだけでは飽き足らず、これは、と思う作刀を献上させ、
自ら改めて選抜した結果
薩摩の一平安代、と宮原正清、筑前の信国重包を召し出して
葵紋を銘に刻むことを許したとのことでした。
この時の正清の作刀は東京国立博物館に伝来しているとのこと。
新刀以外では
徳川綱吉から与えられ、息子家重の疱瘡快癒を祝って贈ったという「疱瘡正宗」や
加藤清正から徳川頼宣を経て吉宗が将軍継承の際に持参したとされる「加藤国広」なども
現在まで吉宗の愛刀として伝わっています。
やっぱり暴れん坊将軍のイメージそのままですね…
そして【日本刀匠伝】は景光。
備前長船派の3代目で、国宝が3振り、重要文化財が15振りも残っています。
はじめ楠木正成の愛刀で、のちに明治天皇がサーベル風のこしらえにして佩用したという「小龍景光」や
秩父大菩薩を彫られ、上杉謙信の差料だったと伝わる短刀「謙信景光」、武田信玄が浅間神社に奉納したと伝わる銘南無薬師瑠璃光如来という太刀、
織田信秀が息子信長に与えたとされる刀など名だたる武士に愛されてきたようです。
最後の【日本刀ストーリー】は軍用刀開発で到達した「新日本刀」の真価
と題してもっとも新しい日本刀の物語を紹介しています。
そもそも西南戦争の白兵戦で日本刀の威力を再認識した帝国陸軍が
支度金で買えるような軍刀を、と考え始めたのがきっかけです。
村田経芳陸軍少将が実際に古作刀の実態解明を目指して実験したところ
名刀と評価されたもののなかにも実用には耐えられないものが少なくないことに気づきます。
新新刀期の最後の刀匠たちの指導を受けながら完成させた村田刀の試し切りが行われたのは明治24年。
その後日清戦争で実戦投入され、太平洋戦争まで製造が続いたとのこと。
靖国神社に設立された「財団法人日本刀鍛錬会」の鍛錬場で作られた刀は「九段刀」「靖国刀」とよばれ、12年間で約8100振りも生産されたと記されています。
これは古来の日本刀の復活を目指すものとして、コストは非常にかかるもの。
一部機械化を図るなどして量産化されたものは「満鉄刀」とよばれ、7年間で5万振りも製造されたそうです。
そのほかにも各地で軍刀が生み出されていきますが
終戦後、GHQの刀狩りに対して、
美術品とみなされる
日本刀の保護を主張したため、実用度合いの強い軍用刀には不利な状況に陥ってしまいます。
一方で性能実験ではどこでも名刀とされる古刀を上回る結果を見せていたようで
当時の技術力に関心するとともに、刀狩りにあるのもやむなし、とも思えますね。
3、いろんな美しさがあっていい
いかがだったでしょうか。
今回は国宗、景光と備前の刀剣の話題が続きました。
「新日本刀」にしてもこれまでみてきた古刀と比べれば刃文の美しさなどは
ないものの、機能美としての価値は十分あるように見えました。
前述のような理由で戦時中に作られた刀は少なくなっているのでしょうか。
もしくは個人所有が多く、展示会などにはあまり出回らないものなのでしょうか。
もう少し類例を見てみたくなりましたね。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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