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第157回 みちしまの時代

1、発掘調査報告書を埋もれさせたくない

職場にご恵送シリーズとしてFacebookに投稿していたものをこちらに移行することにします。

遺跡の発掘調査報告書を中心として、地方公共団体が発行した文化財の調査報告書は300部作られることが通例です。

基本的に近隣の市町村の文化財部局には配られますので、最新の情報が蓄積されていくことになります。

大きな図書館以外では開架されることはありませんし、どんな内容が書いてあるのかも知られていません。一定のルールに基づいて記述されているので、前提知識が必要になることもあります。

それでも公共事業として実施したものですし、地域の歴史の基本資料になるものです。

せっかくなので広く知ってもらいたい、というのが趣旨で紹介していきたいと思います。

2、正倉院は奈良だけではない

『赤井遺跡 発掘調査総括報告書I-倉庫地区編―』

東松島市の赤井遺跡は1986年に発掘調査が開始されてから、実に47次に渡る調査が続けられてき ました。そのうち本報告書では倉庫地区と名付けられた部分のみの内容が記されています 。

見つかった遺構群の時期を大きく3つに分け、

I期は古墳時代の集落、

II期は関東からの移民が増加し、柵で囲まれた城柵となった時期、

そして城柵・郡家としての体制が整った III期となっています。

倉庫地区、とうことで、材木塀で囲まれた掘立柱建物跡が多数検出されています。

城柵と郡家という単語が出てきましたので、少し説明をします。

国造という古墳時代後期に地方の豪族が任命された役職がそのまま郡を収める郡司となるのが一般的です。

一方で国造が置かれていなかった、仙台平野より北側は蝦夷と呼ばれた人々が住んでいたとされています。

やがて朝廷側が軍事的な基地として築いたのが城柵ですが、そこの長官は中央から下ってきた役人でした。

やがて前線が北に移っていくとともに、

移民のリーダーが運営を任されるようになり、郡司層となっていきます。

ここ、赤井遺跡、牡鹿郡でいうとそれは道嶋氏です。

道嶋嶋足は天平宝字8年(645)には恵美押勝の乱で功を挙げ、地方豪族としては異例の従四位下を授かり、貴族の仲間入りするなど中央でも活躍している珍しいタイプの一族です。

延暦23年(804)の坂上田村麻呂が征夷大将軍となった際には、副将軍に道嶋御楯が任じられるなど引き続き道嶋氏が当地の有力者として活躍していることがうか がえます。

このようにみてくると、この赤井遺跡で見つかった倉庫群は、城柵として武器武具を収めるとともに、牡鹿郡家として郡内の村々から集められた租税を納める正倉としての役割を担っていたものと考えられるのでしょう。

道嶋氏の館跡や城柵・郡家の中心的建物は続巻に掲載とのこと。こうご期待ですね。

3、郷土の偉人とは

奈良・平安時代のミヤギの一豪族でしかない道嶋が、朝廷の対蝦夷戦線で重要な位置を占め、あまつさえ中央でも活躍していることが文献に残っていて、

その威勢を象徴するような遺跡がたしかに確認できる

そんな地域は日本でどれだけあるでしょうか。

フロンティアだったからこそ重んじられたのかもしれませんが、地域が誇っていよいよ歴史であると思います。

ちなみに、東北各地では蝦夷討伐で名高い坂上田村麻呂が神格され、歴史ある寺の大部分は彼が創建に関わっていたことになっています。

それだけ地元でもインパクトのある人物だったのでしょうか。

中央からやってきた支配の象徴でもあったから恐れられたのでしょうか。

個人的にはもっと地元寄りの人物を推していきたいと思ってしまうのですが。今日取り上げた道嶋一族のように。

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