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新型コロナが流行してから改めて感じた「フラットな視点で世界を見ることの大切さ」

中庸・中道・フラットに
そんな生き方を目指す人なら
よくわかると思うのだけれど、
人間「フラット」に生きるというのは
現代の世の中では結構難しい。

「フラット」に「中庸」で居るということは
「主観」の世界だけでは生きられず
「客観」的にほかの視点から
自分自身を俯瞰して眺める必要があるからだ。

自分という存在は
「自分」という内側からだけでは認識できず
「他者」という外側を通して
陰陽、内・外から認識しなければ
見えてこないことも多い。

自分が見えているつもりでも、
自分の顔というのは
鏡を見なければ
どんな表情をしているか
気づくことはできない。

他者に強く影響を与えるであろう
その顔面は自分では見えていない。

自分はいつも明るく柔らかく
にこやかに過ごしている「つもり」でも
人からは全くそうは見えないことも多い。

他者の認識と自己認識が
大きく乖離していることなんて
よくあることなのである。

”自分のことがわかっているつもりで
 自分は自分のことを
 実はよくわかってないかもしれない”

そう意識しているだけでも
自分のことを客観的に
見やすくなる。と、いうか
「客観的に自分を見ようとする」
そんな意識が芽生えやすい。

コロナ禍、そしてワクチン禍になって
「フラットに」生きる意識が
本当に大事だと改めて思うようになった。

自分とは違う考えに対して
強い否定を示す人は結構多い。

さらに、
強い肯定も、実は、
違う意見に対して
強い否定であることに
気づかない人も多い。

良い・悪いの世界ではないのだ。

何かを「正しい」と決めつけると
その裏には必ず「間違い」が
存在することになり、
誰かや何かを強く否定し、
その考え方こそが
分裂や分断を生むようになる。

フラットに生きるには
私たちは二元論の世界から脱出し、
高い視座で生きる必要がある。

二元論の世界とは
善か悪か、正しいか間違いか
肯定か否定かの世界である。

なぜ、目の前がその選択をしたのか?

そこには間違いも正しいもなく
それぞれの意図や
その人の人生的な背景がある。

ワクチンを打ちたい人、
打ちたいけど打てなかった人、
意志を持って打たなかった人、
そして
打ちたくなかったけど
打たざるを得なかった人。

たくさんの人の人生があり、
そこには、
自分には理解できない
様々な理由や意図があるのだ。

だから
「接種した人」を馬鹿にしたり
否定したり、全体的に
「接種者」と一括りにしたり
その考えたは自分にも
向けられてしまうことを
知っておくのは大事だと思う。

接種しないから、と
否定されたり、圧力をかけられたり
少数派にも色々あったと思うし
同じ非接種者として理解はできる。

しかし、
接種・非接種関わらず
お互いに必ず何かしらの意図と
その背景が存在している。

やられたことをやり返せば
同じことの繰り返しになってしまう。

反対の考え方を理解する必要はない。

だけど、
そういう考え方や人が存在すること
それを認めて、受け入れることが
大切なのだと思う。

そして、
どっちの考えや意見も見た上で
「私はこっちを選んだ」と
自分で今の選択をしたことを
しっかりと認識することが
非常に重要なのである。

私たちは「選ばされた」のではなく
主体的に「選んだ」のだ。

たとえ、
国に流されたように見えたり、
周りの影響で起こした選択でも
「流された」わけでも
「選ばされた」のでもなく
自らだ「選んだ」のだ。

国を信じることを
選んだ人がいて、
国を信用せずに
自分を信じるということを
選んだ人がいて、

周りのいうことを
「聴かない」選択をした人も、
周りのいうことを
「受け入れる」選択をした人も、

どんな事情でも背景でも
例外なくみんな自分で
「選択」したのだ。

だから、
何もかも、誰かのせいではない。

フラットに見れば
世界は全て変わって見えるし
この世界では自由意志が許され
いかに優しい世界なのか
知ることができる。

否定でも分離でも分断でもなく
自分が「心地よい」と感じる世界を
自ら選択することが
この世界を変えていくきっかけに
なると、私は思っています。

そんな感じで
反コロナでも、反ワクチンでもなく
自らの意思で
「私は打たない選択をした」と言える
フラットな方々と
どんどん繋がれたら良いなと
思っています。


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