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五行通背拳『小連環』を考える-修剣痴武術の形成・発展・継承とその変容についての一試論(その参)

はじめに

今回の投稿では、まず1980年代に撮影されたもうひとつの『小連環』演練動画をとりあげ、その特徴について分析したいと思います。

次に、前回投稿した林道生老師演練の『小連環』動画とを比較しつつ、二人の通背拳家の『小連環』の違いについて考えていきます。

社文起老師演練『小連環』の特徴について

まず、動画をご覧ください。演練者は社文起老師です。


社老師は1944年生まれ。1953年に高玉春老師に師事、秘宗拳を修行した後、1965年に房連徳老師(1923年-1990年)門下で通背拳修行を開始したと伝えられています。


社老師の師である房連徳老師は、武闘派の誉れ高く、1946年に国民党政府が主催した - 当時はまだ「第二次国共内戦」が継続中であり中国東北地域は国民党政府が実効支配 - 遼寧省での散打大会(軽量級)で銀賞を得た通背拳家です。

この演練動画で目を引くのは社老師の歩法、身法の豪快さですが、技術的に興味深い諸点として以下、幾つかが例示できます。


例1)   穿掌鑚(中)拳の歩法


社老師は左穿掌を打つ際に左足を右斜め前方へスライド(閃展)させています。これは相手の左側面に回り込むように入進角度を変化させながら鑚(中)拳を打ち込むための布石であり、技撃的色彩が濃厚な動作と解釈可能です。

穿掌中拳時の閃展歩

例2)一段目(往路)における提膝拍掌からの落歩中拳


いわゆる『遼寧通背本』(前回投稿で紹介。1990年出版)では拳譜上“捋带弾腿”に該当する箇所ですが、社老師は“弾腿”(蹴り)は入れず、右提膝歩となりながら左拍掌を放っています。この提膝歩は蹴り脚のフェイントとして解釈可能であり、技撃的色彩の強さがうかがえます。

提膝拍掌からの落歩右中拳

例3)一段目(往路)捃捉劈山からの双推掌

右踵が尻に着きそうなほど脚を鋭く畳みこみながら捃捉劈山を打ちおろした後、一瞬の縮身で蓄えたエネルギーを一気に放出するように右脚を鋭く前方に振り出し、沈身しつつ双推掌を打ち出しており、大変力強い動きです。

提膝据捉劈山からの双推掌

例4)一段目(往路)飛び上がりざまの捃捉劈山から双推掌

遠間を一気に縮めるように跳躍、その後下方に沈み込む勢いを捃捉劈山に乗せ、切り下し、その勢いを途切れさせず蓄勢に移り、大きく呑吐を用いながら飛びかかるように双推掌を打ち出しています。まるでネコ科の大型動物が獲物を仕留める時のような動きです。

実際にこの技を真正面から受けたら、かなりの恐怖感を覚えるのではないでしょうか。

飛び込みざまに双推掌を打つ


社文起老師、林道生老師演練動画を見比べて

ここでもう一度、前回投稿で掲載した林道生老師の演練動画をご覧いただきましょう。


さらに社・林両老師による演練動画の一部分を並列に配置し、御覧いただきます(なお再生速度はなるべくシンクロに近づけるよう微調整を加えてみましたが、なかなか難しいです。)。

二つの演練動画を見比べながらの極めて素直な感想は、こうも風格が異るものかという驚きとともに、社老師の演練する『小連環』は、林道生老師の端正な動きにくらべて、極めて動的(ダイナミック)、且つ技と技とが切れ目なくつなぎ合わされるなど身体的要求度が高く、修行者にとっては再現が難しい高難度な套路内容であろうな、というものです。

それでは、この二つの『小連環』の違いはどこに由来するのでしょうか。

二つの『小連環』套路の年代的相違について

ここで指摘しておくべき歴史的事実は、修剣痴公が1930年代、40年代、そして最晩年の50年代に複数の拳譜を残していたことです。

これら異なる年代に書かれた拳譜を比較すると『小連環』は累次にわたり改編(バージョン・アップ)されていたことがわかります。

とするならば、お二人の老師がいつ頃『小連環』套路を学んだのか、ということが拳の風格、技法構成の違いを説明してくれることに繋がるかもしれません。

林道生老師は1935年生、社文起老師は1944年生。両者の出生年には約10年の開きがあります。

林道生老師は、8歳頃(1942-3年頃)から通背拳の修行を開始したと伝えられています。修剣痴公は1882年生まれですので、林道生老師が8歳の時、修公はおそらく61歳~62歳くらい。当時の平均寿命を考えればかなりの高齢と言えるでしょう[*1][*2]。

林道生老師が1942年乃至3年頃に通背拳修行を開始、その約5~7年後、10代半ば、或いは10代後半で套路学習を始めていたと仮定した場合、『小連環』を学んだのは1940年代末、50年代初頭と推定されます。[*3]

当時、修剣痴公(60歳代後半。享年は1959年。)は人生の最晩年におられました。林道生老師が修公から最晩年の研究成果の親伝を授けられていた場合、その時に伝えられたのは1940年代末/50年代初頭版の『小連環』であったと推測可能です。(この時期は修剣痴武術「四つの発展段階説」の観点からは、通背拳の理論化・体系化が完成されていく「第四段階」に該当。[*4])

一方、社文起老師は修剣痴公には直接師事していません。

社老師を指導した房連徳老師は、1936年頃(1923年生まれなので12~3歳頃)に修剣痴公の通背武館で修行を開始したと伝えられます。なお、房老師が修行中は、修剣痴本人というより、主に高少先老師(1892年-1986年。劉景より八卦掌を学び、大連に武館を開設、指導していたが、1939年に修剣痴に拝師。)から指導を受けていたとの証言もありますが、これを検証する資料は手許にありません。

房老師が武館入門から約5~7年後、10代後半乃至20代前半で套路学習を始めていたとすれば1941-43年頃。房老師が学んだのは1940年代初頭の『小連環』と推測可能です。(1940年代初頭は、修剣痴武術「四つの発展段階説」の観点からは、内家拳の影響のもとに通背拳の套路編成が進められていく「第三段階」に該当。)

仮に房連徳老師が、自ら学んだ『小連環』を改編することなく社文起老師にそのまま伝えていたと仮定すれば、社文起老師演練の『小連環』は林道生老師のものより旧い「型式」と推定することが可能です。

おわりに

以上、幾つかの仮定を重ねながらも導かれるのは、林道生老師が学んだ『小連環』は1940年代末/50年代初頭のもの、房連徳老師が学んだバージョンは1940年代初頭のものという作業仮説です。

しかし、そもそも『小連環』はいつ頃その原型(アーキタイプ)が創編されたのでしょうか。

また、修剣痴公がその武術体系を進化させるなかで、『小連環』は何時、どのように改編されていったのでしょうか。

次回投稿では修剣痴公が残した異なる年代の複数の『小連環』拳譜を比較しながら、その時代的変遷について検証を試みます。

最後までお読み下さり有難うございました。

[*1]
http://j.people.com.cn/n3/2019/0906/c94475-9612781.html
中国国家統計局の報告によると、中国人の平均寿命は、1949年当時、35歳とされています。

[*2]
なお、林道生老師は晩年の修剣痴公から特別に可愛がられた「閉門弟子」と位置付けられていますが、実質的指導については高少先老師に委ねられていたとも伝えられています。

[*3]
通背拳では、「単練為主」、ひとつひとつの技(「単式」或いは「単操」)」の鍛錬を主にし、これらを対練形式で時間をかけて練り上げていくことを重視しており、套路学習はある程度修行年数が進んでから始まるのが伝統的です(筆者自身、初めて套路を教えていただいたのは入門から7~8年経過した頃という記憶です)。

一方、他門派武術を既に修め一定の水準に達している修行者については、師の許しが得られれば、入門から2~3年経過した時点で套路学習を始めるということもあるようです。

[*4]「修剣痴五行通背拳に関する”4つの発展段階”について(序論)を参照下さい。 https://note.com/tunacornsalad195/n/n5e054c0ae94b?sub_rt=share_h)


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