修剣痴五行通背拳に関する”4つの発展段階”について(序論)


本稿は序論の位置づけを与え、一番はじめに投稿するべきものでした。以前X(旧Twitter)に連続投稿した内容を整えなおし、以下に再掲します。

動画は薛儀衡(義恒)老師(修剣痴徒弟。瀋陽体育学院で指導。徒弟に関鉄雲老師。)の劈山炮です。下記の鞠波老師(遼寧省营口市)演練による劈山炮と大分異なります。

修氏通背拳では同一名称の套路でも伝承者間での差異が激しく、困惑させられることが度々あります。

この違いはどこから来るのでしょうか。

大連の通背拳家 閻子奇老師(劉泊泱徒弟。大連市武術協会主席を務めたことあり)は、五行掌演練動画を具体事例として挙げながら、一つの興味深い見方を提示されています(注)。

1983年に収録されたと伝えられるこの薛老師の五行掌演練動画について、閻老師曰く。薛老師は1930年代に修剣痴から親伝を受けており、この五(行)掌には小架式祁家通背拳の特徴が鮮明に認められ、修氏の晩年にあたる50年代に伝授されたものとは理論も、やり方も大きく異なる、と。

この指摘は、修剣痴は通背拳に工夫を加え、絶えず発展させ続けたのであり、その弟子がどの年代に修剣痴から学んだかにより、武術の内容はかなり異なる、という見方を滲ませたものです。

閻老師は更に修氏通背拳の発展段階を以下4つに区分、解説されておられます。(ただ、マルクス主義唯物史観の発展段階論的な明確さが些か気になります。大陸の武術史観は、過度に弁証法的な言説を用いて武術の歴史を説明することもあるので精査が必要かと考えます。)

第一段階。19世紀末期から20世紀初頭。修剣痴は祁家通背拳を学び終えたばかり。河北で何人かに教え始めるも、正式な収徒であったかは不明。

第二段階。20世紀初頭から1930年代初め頃まで。修剣痴は河北、遼寧(瀋陽、大連)で指導を開始。老折拳、明堂功、五(行)掌が中心。新たな套路を編成するも、まだベースは伝統的祁家通背拳。

第三段階。1930年代初頭(湖南滞在)から1945年(大連帰還)まで。修剣痴は太極、八卦、形意各門派の武術家と交流。これを背景に修氏通背拳に内家拳の影響が表れはじめ、套路編成や拳譜編纂も進められる。

第四段階。1945年から1959年の修剣痴逝去まで。祁家通背拳を内家拳的観点から改革、「五行通背拳」への体系化を推し進める。精緻な理論的枠組み(勢・法・理)を整備し、新たに拳譜を編纂。

この時代区分を念頭に、各武術家(第二世代)がいつ修剣痴(初代)から学んだかに着目、各伝承者の技術体系を研究すれば、五行掌や套路、散手技法に関する伝承者間の違いがどうして生まれたのかについて興味深いことが判るかもしれません。(なお、1930年(この年修剣痴は47歳)頃を境に、修剣痴は直接弟子をとる「収徒」を止め「徒孫」を認めるのみになったとし、某第二世代通背拳家達が修剣痴の直接の弟子であることを疑問視する研究家もいるようで、論争が燻り続けていることも事実のようです。)

その一方、閻老師は次のような発言もされています。

閻老師曰く。自分の学んだ武術を基準に、他の時代に修剣痴から学んだ者の武術が正しいとか、間違っているとか判断してはならない。修氏の武術は絶えず改良、洗練されたが、その時代、時代に修氏から伝授されたやり方に従い修練しているのであれば、誰もが正しいと言えるのではないか、と。

通背研究のひとつのテーマが見えてきた思いです。


(注記)上記は「修氏五行通背拳的发展经历了四个阶段」を参考にしてます。閻老師の徒弟の方が師からの聞き書きをブログに投稿したもので興味深いです。

https://blog.sina.cn/dpool/blog/s/blog_461264a40102ysz4.html


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