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刺さる人と刺さらない人

田舎に住んでいる時、
シンガーソングライターとして活動する老夫婦が小規模ライブを開催するとの事で招待された。
本音を言うと撮り溜めた動画を編集したかったのだが、理由をつけて断る方が面倒で一人で参加した。

ライブ会場は夫婦の家の離れで、古びた倉庫を改築したような場所だった。
受付で2500円払い、自家製レモネードを手に取り自分の居場所を探す。
客を見渡した感じ同世代がおらず、40代の男女が仲良さそうに談笑していた。
社交性の低さから誰にも話しかける事が出来ず、
居心地が悪くなり自家製レモネードを開演前に飲み干した。(家にいろ)

19時ちょうど、ボーカルの女性がマイクを握りMCを始める。
月と自然の親和性について話していた気がする。
合理主義の人間にとっては、スピリチュアルの話がクソほど退屈だ。
「やっぱり家で編集しとけば良かった」と後悔の二文字がよぎったころ、
ギターの男性がフォークソング調のゆったりとしたイントロを弾き、それに合わせてこの町で感じた事を歌い始めた。

二人が披露する曲の完成度に驚きつつも、
普段ゴリゴリの日本語ラップを聴いてるので全く理解出来なかった。
というよりも単純に歌詞が刺さらなかった。

けれども、斜め前に座る女性を横目で見ると"スーッ"と涙が頬を伝っていた。
私は涙とは対極の感情にいたので
「こんなにも心の奥深くに刺さっている人もいるんだ」
と腰を抜かした。

その出来事から歌そっちのけで
『自分のYouTubeでも同じ事が言えるのではないか?』
とずっと考えていた。

動画が刺さった歳上の女性には
「この町で一番頑張ってると思う!絶対成功する!」と言われ、
動画が刺さらない上司には
「こいつは家で引きこもってるだけだ」と忘年会でみんなの前で笑われ、
「お前の年収を映像関係の社長から聞いたぞ」と品性疑うような言葉を投げつけられる。

『なるほど。だから微塵も刺さって無い上司からはテンション下げる事ばかり言われるのか。ようやく理解できたぞ』

自分の道を切り開こうと努力する人に、嫌味を伝える阿保臭い人間になってたまるか!と奴を反面教師に認定し、
それ以降”刺さらない人”を考えるのをやめ”刺さった人”を大切にする様にした。

でも、長く続けていると
動画の作り方が変わったり、
言葉遣いが荒くなったり、
昔みたいに対応できてなかったり、
単純に飽きられたり、、、
様々な理由から”刺さった矢は簡単に抜け落ちる”というのももう分かった。

以前までは地面に転がった矢を拾い集め、じとーと眺めながら
「自分の何がいけなかったのか?」
頭の中で自己省察していたが、今となっては考える事も悩む事も放棄した。
等身大でいて嫌われたなら仕方がないと思えるからだ。

そして、矢が刺さったとしても過度に期待しなくなり、
「どうせ押さえ続けないと簡単に抜けるんだろ?新しい矢を刺さなきゃいけないんだろ?」と、尖った気持ちも芽生えた。

「めんどくせぇえええなぁああ。一体いつまで新たな矢を放ち続けなきゃいけないのか」
独り言でボヤきながら、
筒から矢を出しては引き、、、
筒から矢を出しては引き、、、、、
乱れ打ちで誰かの鳩尾に刺されば良いなと思っている。

この数年で、切磋琢磨しながら料理動画を上げていた人達がドミノ式に投稿をやめてしまい、それと同時に新しい人達がどんどん出てくる。
私は死人になっては復活し、中々死に切らないしぶといゾンビの様な状態で活動を続けている。

またどうせ流行りは移り変わり、短い動画から長くなったり、プラットフォーム自体が変わったり、急速に進む時代に適応しないと取り残される。
『でも今が楽しい時だけは、変化させながらも活動を続けたい』
これが紛れもない本心だ。


私はあの老夫婦のように矢が刺さった人を感動させる事ができるのだろうか?
被り物のテープを貼り替えながら一人考えていた。

いや多分、感動は無理だろうな。。。

なんかある意味。
うん。
ある意味、、、
”ギラついた頭で子供を泣かしているんじゃないか???”
と思い、柱に頭を打ちつけた。


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