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楽屋の中の回想

-関西滞在中 メモ/文章-

人生、どこでだれと出会うかわからない。本当にそう思う。ここに来て0が1にも2にも増えていっている実感はある。すぐに此処に居てもいいのかと自分に問うて居た堪れなくなる。見合う人にとか、口に出す言葉もその環境にあったものをださなきゃとか、よく喋ってよく話をして自分の事を伝えようとかわかってもらおうとか柄にもなく必死にしてみたし、それはみなやっていることだと思っていた。不思議だ、馬鹿ばっかりやって躓いてる気がする。今まで自由に泳いでいたはずなのに急に泳ぎ方を忘れたみたいに溺れている。これ何回目だ。


今日のライブは良くなかった、丸くなったなと言われた。そんなつもりもございませんが思い当たるふしはございますと心の中で呟いた。沸騰するくらいの熱量、これじゃないと死ぬ、それくらいのライブしてたのに。今は学んだ事を必死に現場で昇華させたいしもっと音楽に近づきたい、知性を身につけた猿なのかも。卑屈になりすぎだろうか。たまに出会う、うまいといえばうまいけど1mmもワクワクしない音楽家、そこにリアリティもないからお遊戯会みたいなあの感じ、きっといま自分もそれになっているのかもしれない。じゃあ過去の自分に巻き戻せばいいのだろうか、そうはなれない。一度変わったものは二度と同じ形には戻らないように、あれはあの時の最良で今の最良ではなくて。とはいっても参ったな、白旗を振って降参ですと素直に言い出したいくらい手も足もでない。

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2020.03.21
カワサキレオンさんのワンマンに行った、素晴らしいライブだった。研ぎ澄まされた感覚、あれはしなやかな筋肉で思いっきり吹っ飛ばされたみたいな威力があった。

基礎の復習と応用、知的好奇心からの探究のその先に出来上がった音楽。数式を解いている数学者のあの狂気的表情と似た飽くなき欲望と冷静さ。人生でこのライブを目撃できたのは大きな財産になったと確信してる。もっと音楽になりたいと思った、音楽になりたい。

終演後その熱狂覚めやらぬうちにお酒を飲んだ、京都の仲間達と。世の中の不安を他所にレモンサワーが心地いい程話が弾んだ。騒がしくも続いた時間も3時に差し掛かった頃、いつのまにか見知らぬ隣の女性と恋の話になった。数年前に別れた恋人を忘れずに今を生きていると話をしてくれた。お互いの為なんて方便で押さえ込んで本当は自分が愛する人を傷つけてしまうのが怖かっただけだったのにと、と話をしてくれた。それは酔っ払った自分語りではなく、引き出しに仕舞い込んでいた写真を見た時のような、素直でありのままの表情と言葉だった。懐かしいと呼ぶにはお粗末に扱ってしまった思い出達を、許されたいとか、もう一度とか、ifが続く言葉なんて幾らでもでるのにそうはいかないという決意と人の心の弱さ。大人って本当に難しい。

僕はもう以前お付き合いしていた恋人とのことなんて微塵も思い出そうなんてなくなってしまっていて、それが今までは非道で冷血だとずっと何処かで思っていたのだけれど。大人はそれらしい言葉と感情で気持ちを殺す事がある程度できてしまうし、傷つかない為の処方であるのかもしれない。できるだけ鈍感になろうと痛みを抑えていたらすっかり平気になってしまった。今はあの時の教訓とこれからだけが残っている気がする。でも自分だってかつてこうやって好きな人とかに非合理的なことに心を使っていたんだ、と思うと少々心を殺しすぎていたんだと思った。愛とかそういうものにあまり合理的なものは必要ないのかもしれない、頭からっぽにしても触れ合えるあの柔らかなもの。

その人に僕の話もした。僕は話していてわかったんだけど、好きな人とかの前ではうんっと器用になりたいし、できたら笑ってもらってほしいし、いつだって肝心な時に隣にいれたらなんて思ってはいるんだけれど。多分だけど、きっと器用に振る舞っているの見破られてるし、アホだなって思われてるのかもしれない。というかそれらしい事を複数人におそらくと言われた。僕はいつまでもいつまで器用になりたい、不器用はなんの免罪符にもならないし。まず、今でも少しは器用なほうで不器用とあまり思っていないのだけれど、そこからまず考えなおさなければいけないのかも。(自分器用全然ちゃうで!あかんあかん!って言われた。今でもちょっぴり負に落ちないけど多分正解なのだと思う。スカッとするほどハッキリ言ってもらえたのなんだかよかった)

でも昔みたいに猪突猛進な気持ちはさっぱりなくて、なんだかそこに佇むような祈りみたいな透き通った気持ちだけが残っている。好きな人にはずっとそうかもな、なんて話をしていたらそれに「誠実」という名前をつけてもらってなんだかひとつ武器が増えたような気分になった、自分ではそうは思えてないんだけれど誰かがそう呼ぶならその感情はそういう名前なのかも。でもそんなお綺麗な人間ではないけどな、なんてまた卑屈になってしまう。始発電車天神橋筋六丁目に向かう電車の車内で回想、淀川を照らす朝日が美しい。

帰ったら泥のように眠りたい。

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相変わらず感覚が戻ってこない、心も身体も幾分も健康なはずなのに。気分転換に銭湯に行った、命の洗濯とはよく行ったものだ、帰ってきたら楽屋(寝泊りしている所)は無人になっていた。そういえば人から良いよって教えてもらった映画を観た、とても良かった。良すぎて手紙に感想文したためるほど良かった。ご飯を作る人、食べる人の話なんだけど、まさに今足りてなかったものだった。これだ、この暖かみだ。最近よく思うけど、無駄なもの省いたら多分心は死ぬんだと思う、よく聞く言葉だけどいざ自分がそこに辿り着くと言葉の意味がよくわかる、無駄かどうかは人が決めることではなく自分で決めることだよな。お土産買ってお礼をその人に言いたい、明日は近所にある定食屋に行こう、美味しいご飯食べに行こう。

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