6月12日

あまり夢をみない。
いつも泥のように帰ってきたら眠る、疲れてたまにベットに倒れ込んでそのまま朝を迎えるってこともある。子供の頃はたくさん夢をみていた気がする。それが、怖い夢だったり悲しい夢だったり大冒険だったり。寝る前に読んだ本やTVの世界観にはいりこんでしまうなんてこともあった。具体的に、なんて夢のことは覚えていないけどそれでも夢をみていた。

歳を重ねて、あまり夢をほとんど見なくなった。睡眠が1日の締めくくりにというものから単なる休息時間になってしまったり、寝る間も惜しんでしまった生活のせいでそういう空想や世界にはいりこむことがなかった。たまにおっきなライブを目前にした夜に、お客さんが誰もはいっていないとか、自分が知らない曲がはじまりだして自分だけ演奏できないなんていう酷い夢をみたときはあったけど、あれは脳がプレッシャーやストレスから想像した夢というよりもバグみたいな類だと思っている。

友達や父、家族とか色々な人々が亡くなるたびによく『夢にでてきた』という話をきくが今のところあんなに好きだったおばあちゃんも夢にでてくることもなく、先に逝っちまった友達も一向に顔をだしてくれない。お前は夢のなかで早く俺に酒を奢れ、とも思うが無茶な話ではある。だから、どこか自分のことを寝たら忘れるくらいの心無いやつなのかもしれないと思っていた。

今朝は朝方に眠りについた。脳がフル回転する討論をしたあとだったってのもあるけど、めずらしくスッと電源がきれるように落ちた。

実家がそろそろ引っ越すことになっていたので、実家に戻っていた。無口な父が座っていた。驚くこともなくこれは夢なんだと夢のなかで思った。荷物を整理するなかで少年野球の頃のユニフォームやグラブ、高校の教科書、捨てるにはもったいないけど、荷物を減らさないといけないから泣く泣く思い出の品を振り分けて、あらかた片付け終えたら、僕は福岡まで帰らないといけなかったからそのまま鳥栖駅から博多駅に向かわないといけなかった。
何気なく『父さん駅まで送ってよ』と語りかけた。生前、しょっちゅう家から近場の駅まで送ってもらっていた。駅だけじゃなくてバイト先とか久留米GEILSとかにも送ってもらっていた時があった。だから、普段通り声をかけて、無口なりに『おう』と答え車に乗り込んで一緒に駅に向かってくれた。

車窓から見える景色は知っている街なのに知らない部分が多く目に映った。スーパーがあったところは銀行に、廃ビルは綺麗な公園に。親父がまっすぐ駅まで向かっていないことに途中で気づく。小学校が見える道路、ばあちゃんの家の田舎道、特に急ぎでもなかったし気にも留めなかった、それよりも生きていた街の懐かしい部分を沢山探そうとしていた自分がいた。

ようやく駅につこうとしていた駅前の信号機で、これは夢だったことを思い出す。でも、もう一度会いたかった父さんがそこにいて、お別れのタイミングがまたきている。まだなにも会話をしていない。駅につく。

『それじゃ元気でな』っと言われて溢れた。『俺、本当は…』っと語りかけようとしたその直後、自宅のインターホンが鳴って目覚めた。

ぼやけた頭のまんまインターホンを覗くとAmazonの箱を抱えた宅配便の方が立っていた。荷物を受け取り、まだ夢から戻って来れていない頭を徐々におこす。

夢にでてきた。父さんが。

生前、父はなにか直接的に人生の教訓やなにかを語りかけることも、大人としての意見みたいなものを語る人ではなかった。無口でたまに何を考えているかわからない。20歳を超えてから実家暮らしだったけどほとんど実家には帰らず、帰っても深夜にのそのそと動いたり、生きてる時間軸がちがっていただけにそこまで深く会話したのも亡くなる直前の病室でだった。

小さな心残り、それも言葉にできない程度の小さなもので。ありがとうと言いたりないと亡くなったあと常々思っていた。父は何気ない日常のワンシーンに現れ、あの頃の日々のなかに生きていた。相変わらず物静かで、『おう』と『元気でな』しか喋っていたなかった。けれど、それだけであんなにも溢れそうになって、安堵していた。懐かしいものに囲まれてここに留まりたいと思っていた、この日がずっと続けばいいって。
でも、送り届けられた。今を生きる街に。今生きている世界に。

夢だったのに今も鮮明に覚えてる、でもすでに朽ちはじめている。わすれないうちに文章に残そうと思った。

もし夢にでてくるならどんなシーンで現れるのだろうとおもっていたら、大人になってもっとも二人っきりになっていたあの駅まで送っていく車内であらわれるなんて、本当はもっとそっちが話したかったんじゃないの父さん?なんて思いながら。

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