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「負けヒロイン」と「萌え」についての試論

※本文は早稲田大学負けヒロイン研究会会誌「Blue Lose」に掲載されたものの一部を改稿してあります。

「負けヒロイン」という言葉がある。一般的に使用される際の語義としてはラブコメジャンルにおいて主人公と結ばれなかったキャラクター一般を指すが、彼女らのなかでも特に我々の琴線に触れたキャラクター(この中には主観的判断を含むであろうが)達を総称することが多い。その意味で、「負けヒロイン」という言葉は不安定で不明瞭だ。本稿はその「負けヒロイン」とは何かについての試論である。
 しかし、これは決して「負けヒロイン」のキャラ類型から、そのぼやけた輪郭を明確に策定する行為ではない。類型化自体には意味があるとしても、恐らく我々はその揺らぎを消し去るべきではないし、消し去る意味もない。

 では本稿で行うことは何か。それは負けヒロインの正確な形ではなくその核を探り出すことだ。我々は「負けヒロイン」に何を見ており、「負けヒロイン」の存在、そしてその現れから何がわかるのか。そして、その「負けヒロイン」に我々は何を求めているのか。これらを求めていくことが具体的な目的である。
 この目的の達成にあたって、本稿では「負けヒロイン」の表れに関する諸考察に始まり、最終的にその本質に迫っていきたい。そしてこの「負けヒロイン」の考察からすこし幅を広げて「萌え」に関する議論に踏み込んでから、負けヒロインという存在にについて考える。

A負けヒロインの現れ

まず見ていきたいのはデータ的な「負けヒロイン」の現れではなく、思想的な現れに対する分析である。我々が負けヒロインについて考えるには、なぜこの概念が現れたか、つまりそれ以前にも存在したはずの「主人公と結ばれなかったヒロイン」が改めて「負けヒロイン」と名指されるに至ったのかを考えねばならないだろう。そこに改めて「負けヒロイン」が参照される理由があるからだ。
 では、「負けヒロイン」の現れ、つまりおおよそ2010年前後について考えていこう。結論から言うと、私は「負けヒロイン」の現れが我々の虚構における身体の喪失に起因するのではないかと考える。つまり、それは美少女ゲームにおいて主流だった「主人公=虚構における我々の身体」という図式の崩壊である。

負けヒロインの現れについてはこちら

(注)当然、美少女ゲーム衰退論自体にも厳密な議論も必要ではあるだろうが、本稿では具体的な議論を省略し、一般的な解釈として存在する「美少女ゲームは90年代からゼロ年代にかけて流行、衰退した」という了解を指摘することに留め、進めていくことにしたい。

 まずは美少女ゲームと呼ばれる作品群の特徴を見よう。美少女ゲームは、特定のイベントシーンを除いて画面は背景とこちら側を見ている話し手(複数人の場合有)、台詞等の文章で構成される(図1)。これに加えて音声、キャラクターボイスとBGM、SEが多い、が作品によって付く。時期によって多少の変遷はあるが、美少女ゲームは概ねこのような構成になっていると言っていいだろう。 

 (図1)一般的な画面構成例(『パルフェ~Chocolat second brew~ Re-order』2005、制作/戯画)

 そしてプレイヤーは基本的にクリック等の手法を用いて文章を読み進め、いくつかの箇所において行動の選択を迫られ(図2、図3)、選択によって結ばれるヒロインや、ヒロインとの結ばれ方(Normal End、True Endなどと呼ばれることが多い)が変わっていく。

(図2)選択の例①(『パルフェ』より) 
(図3)選択の例➁(『パルフェ』より)

  こうした主人公の行動に関する選択権をある程度プレイヤーに委ねることによって、美少女ゲームでは「主人公=プレイヤー」という図式を、半ば強制的にインストールしようと試みている。
 我々プレイヤーの選択によって、美少女ゲームの結末はある程度変わっていく。だからこそ、プレイヤーは主人公の行動を通して、否応なしにヒロイン、または虚構空間のストーリーに対して、強引ながらも責任を背負う構造になっている。これは美少女ゲームの特殊な様式であると言える

 一方で、多くの他媒体はそうではない。ライトノベルやアニメがそうであるように、我々はしばしばこちら側で、「主人公-ヒロイン」の関係性とストーリーの構造から一定程度疎外される。読者/視聴者は必ずしも主人公をインストールしているわけではない。ただし、この特性は美少女ゲームが現れる以前から続くものであり、この原則自体に差異はないだろう。
 注視すべきは、我々がゼロ年代と比較して主人公の特異性を感じられなくなった、という点にある。つまり「主人公=プレイヤー」という等式が強烈に意識された美少女ゲームが衰退し、改めてその等式が揺らぎ始めた結果、当初は問題にならなかった虚構における主体性のなさが、改めて立ち現れてきたのではないかということだ。
 感情移入はあらゆるキャラクターに対し行われることであり、主人公に感情移入することも、当然あるだろう。ただ、少なくとも「主人公=プレイヤー」という等式のもとに、主人公という立ち位置が持ち得ていた、直接ストーリーに関わっていくことでプレイヤーと作品の世界を暴力的に、直接繋ぐような特異な役割は、著しく失われた。

 「空気系(以下、日常系と呼称)」のブームも、この論を補強できるだろう。日常系作品は『あずまんが大王』や『らき☆すた』等から始まったものであるが、後に「きららアニメ」と呼称の揺れが生じることからもわかるように、日常系のアニメには芳文社出版の『まんがタイムきらら』発作品が多い。著名な「日常系」と言われる作品としては、やはり『けいおん!』が挙げられるであろうし、以降『きんいろモザイク』、『ご注文はうさぎですか?』、『NEW GAME‼︎』や『ゆるキャン△』、『まちカドまぞく』など継続的に、負けヒロインが数多く生まれた時期に沿うように、ヒット作が存在している。「○○難民」というネットスラングが発生したことからもこの傾向は窺い知ることができる。
 こうした「日常系」において、我々の視点について恐らく「受け手=主人公」ではないことは、ある程度の共通認識として得られるはずである。多くの「日常系」作品において主人公と呼ばれるキャラクターの主人公性は大変希薄で、作品の開始地点で導入としての役割をいくらか果たすと、あとは彼女らのコミュニティへのうちの一人へと溶けていく。主人公というより、メインキャラクターが数人いると説明する方が良いだろう。

 このような状況を踏まえれば、もはや負けヒロインの現れについての分析は必要ないと言える。負けヒロインはなぜ生まれたのか、既に答えは明示されている。つまり美少女ゲームの衰退に伴う「主人公=受け手(プレイヤー)」という図式の崩壊、そしてライトノベルやアニメ作品といった複数の結末が担保されていない作品媒体の復権によって、改めて主人公(ぼく)と結ばれるヒロイン(きみ)の外縁に視点が向けられたからである。

B負けヒロインの特徴

 さて、この「主人公=受け手」という構図の崩壊には、もう一つ取り沙汰されねばならない特徴がある。それはAでも少し述べたが、我々が虚構空間に対して介入できないことである。
 作品の受け手は作品空間から疎外され、もはや作品の構造に対していかなる影響も与え得ない。原作(無論、細部はアニメ、ライトノベル、コミックにより多少異なるであろうが)の唯一性が称揚されるのである。故に二次創作もifルートも、「可能だった(ただし、並置はされない)ある世界」として立ち現れてくる。作品は虚構に守られ、二次創作は外縁または、作品では描かれない空白に位置することになる。

 これは物語構造の上で「負けヒロイン」に対して重大な意味を持つ。なぜなら負けヒロインは物語と不可分であり、物語によってのみ措定されうるからである。当たり前であるが、ヒロインレースにおいての「敗北」は作品の中でしか真たりえない。
 「負けヒロイン」のビジュアル的な特徴を抽出することは非常に難しい。髪型(髪色)や関係性で負けヒロインを措定することは不可能に近く、キャラごとの性格を類型化する場合、主観が入り込むために万人を納得させることは難しい。当然シンボルとしての「青髪ショート」や「金髪ツインテール」は存在するものの、これは人気作品における負けヒロイン数名の特徴であり、全体に共通する特徴は私の知る限り存在していない。
 そのため、我々は負けヒロインを「負けヒロイン」と呼ばざるを得ない。「ヒロインレースにおいて主人公に選ばれなかった」というただ一点において、彼女たちは類型化され、我々に記憶される。そしてそのために、負けヒロインのアイデンティティたる「ヒロインレースでの敗北」を強固な事実たらしめる原作の唯一性は重要であると言える。仮に二次創作、ifルートが原作と並置されるのであれば、負けヒロインの持つ特権性は著しく失われる。

 余談ではあるが、私はここに負けヒロインが「負けヒロイン」と名指される根拠を見出したいと思う。無論、幾多の側面の中で「失恋した」というただ一点において類型化し、なおかつそれを代表する言葉として「負け」という強烈な言葉を用いることについて“倫理的な”観点から批判されることは道理である。
 しかし他方で、彼女の周囲で紡がれた物語、そしてそのなかで発生した「失恋」に近い経験は唯一のものだ。彼女のアイデンティティとして存在するその記憶を切り離すことは、少なくとも私にはできない(無論、別の言い方を考える必要はあるのだが)。
 ただ「失恋」という言葉で彼女たちをまとめることも、私にはできない。「負け」と「失恋」は同一ではない。「失恋」は恋愛を絶対化した概念であるように思う。「ラブコメ」というジャンルが恋愛小説から独立して存在するのは、物語が完全に恋愛に回収されないことにあるだろう。

 さて、こうした負けヒロインの特徴を考える際、私はかつて取りざたされた消費形態と一線を画しているのではないか、という推測ができると考えている。つまり単純なデータベース消費という観点では負けヒロインを語りきることは不可能だ、ということである。データベース消費において物語はもはや存在せず、キャラクター類型といったデータベースから出力されたキャラクターを動物的に消費することになる。それゆえ物語を媒介にすることが、二次創作といった全く関係のない物語にキャラクターをはめ込むことが、可能となっていた。

 対して負けヒロインはどうか。それが不可能に近いことは、すでに見てきた通りである。物語に束縛される「負けヒロイン」という概念は、他の物語にはめ込まれた瞬間に霧散していく。だからこそ、負けヒロインという概念はデータベース消費だけでは掬いきれない。
 データベース消費では掬いきれない“何か”は「日常系」にも同じように存在する。「日常系」作品のメインキャラクターたちは、閉じたコミュニティの中で相互に依存し、影響を与えあいながら進んでゆく。しかしながら、彼女たちは閉じた関係であるがゆえにもはや「物語」と分離することは不可能なのである。「日常系」の物語はしばしば物語とは言えないことが多いが、さりとてキャラクターたちが全く別の文脈で語られることは難しいと言えるだろう。

 この消費形態を、できる範囲でもう少し詳しく分析してみよう。まずは比較のために「物語消費論」と「動物化するポストモダン」における、「物語消費」と「データベース消費」のあり方を確認したい。
 「物語消費論」において取り沙汰されているのは、商品として販売される断片的な物語の背景にそびえる「大きな物語」を消費することである。

 コミックにしろ玩具にしろ、それ自体が消費されるのではなく、これらの商品とその部分として持つ〈大きな物語〉あるいは秩序が商品の背後に存在することで、個別の商品は初めて価値を持ち初めて消費されるのである。そしてこのような消費行動を反復することによって自分たちは〈大きな物語〉の全体像に近づけるのだ、と消費者に信じこませることで、同種の無数の商品(「ビックリマン」のシールなら七七二枚)がセールス可能になる。
(大塚英志「物語消費論」P.14,P.16)

 この「物語消費」と名指される消費の形態に対して、東浩紀は「新世紀エヴァンゲリオン」以降の消費について別の観点を示している。東によればオタクの消費形態は、まず「大きな物語」が存在しない「大きな非物語」の消費から始まり、「データベース消費」へと移行してゆく。引用してみよう。 

 これらの特徴はすべて、『エヴァンゲリオン』というアニメが、そもそも特権的なオリジナルとしてではなく、むしろ二次創作と同列のシミュラークルとして差し出されていたことを示している。言い換えれば、この作品でガイナックスが提供していたものは、決してTVシリーズを入り口としたひとつの「大きな物語」などではなく、視聴者の誰もが勝手に感情移入し、それぞれ都合のよい良い物語を読み込むことのできる、物語なしの情報の集合体だったわけである。
(東浩紀「動物化するポストモダン」P.61,P.62)
 したがって『デ・ジ・キャラット』を消費するとは、単純に作品(小さな物語)を消費することでも、その背後にある世界観(大きな物語)を消費することでも、さらには設定やキャラクター(大きな非物語)を消費することでもなく、そのさらに奥にある、より広大なオタク系文化全体のデータベースを消費することへと繋がっている。
(東浩紀「動物化するポストモダン」P.77,P.78)

 これらを要約すれば、単純に作品を消費することの他に物語の消費形態には大別して3つの方式があったといえる。
 1つ目が作品の背景にあるより大きな世界観を消費すること。
 2つ目がキャラクターやそのキャラクターの設定そのものを消費すること。
 そして3つ目がキャラクターやキャラクターの設定の背景にある、それらを類型したデータベースを消費することである。
 では、負けヒロイン(の登場するラブコメジャンルの作品)や、日常系の消費は、このうちのどれに値するだろうか。
 「大きな物語」というには、これらの作品には「背景」というものが存在しない。もはや作品の背景と実際に出力される物語の間に距離はない。我々は作品内の空白を、提示された物語や二次創作によって埋めている。また「大きな非物語」というには「物語」に依存しすぎている。負けヒロインも「日常系」も、物語の文脈によって措定される関係性の消費であり、キャラクターのみを消費していたとは言い難い。そして、「データベース消費」とすることも難しいだろう。

 先に述べたように、負けヒロインは要素に分解してしまえばその属性を散逸させていく。日常系に登場するキャラクターも同様である。そのデータベースを「負けヒロイン」「日常系のキャラクター」という類型化で作成している、ということもできようが、誰が「負けヒロイン」であるかについてしばしば議論が巻き起こるように、我々はそれらの存在をあまりにも曖昧に捉えている。それゆえ、「負けヒロイン」や彼女らが登場する作品、そして「日常系」作品を消費する際、これまでとは違った、少し特異な形式の消費行動を行っていたのではないかと考えることも可能である。

 そのため、こうした特徴は今後も継続的に分析される必要があるだろう。また、この問題に接続して、「萌え」の問題が立ち現れてくる。それはオタクの「データベース消費」の形態を東浩紀が「萌え」と呼称していたからである。私の議論からすれば、負けヒロインや「日常系」のキャラクターは「萌え」に当てはまらないことになる。それでは本当に、我々は萌えていなかったのだろうか?もし萌えていなかったのであれば、10年代の頃あれだけ「萌え豚」などと揶揄されたオタクたちは何をしていたのであろうか。

C負けヒロインと「萌え」

 さて、AやBで述べたいくつかの特徴について、私は「萌え」という言葉で括ることができるのではないかと考えている。それは10年代を通してラブコメ作品や日常系作品を消費してきたオタク達が「萌え豚」と揶揄されていたことから通ずる使命でもある。
 ただし、これはかなり特殊な「萌え」という語の使用法となる。そして試論に過ぎないゆえ、多くの欠陥があることはご容赦願いたい。
 しかしながらゼロ年代で「萌え」が取りざたされて以降、この語は曖昧なままに使用されてきた印象があり、いま一度現在における「萌え」は再定義せねばならないだろう。そのための基本理解として、まずは「萌え」について、再び「動物化するポストモダン」から定義を引用してみよう。

 九〇年代からのオタク系文化を特徴づける「キャラ萌え」とは、じつはオタク たち自身 が信じたがっているような単純な感情移入なのではなく、キャラクター(シミュラークル) と萌え要素(データベース)の二層構造のあいだを往復することで支えられる、すぐれてポ ストモダン的な消費行動である。特定のキャラクターに「萌える」という消費行動には、盲目的な没入とともに、その対象を萌え要素に分解し、データベースのなかで相対化して しまうような奇妙に冷静な側面が隠されている。
(東浩紀「動物化するポストモダン」P.75,P.76)

 このように「萌え」は定義されているが、はたしてこの定義は実際の「萌え」に即したものだろうか。こうした要素も持ちうることには持ちうるだろうが、現在これらの定義を「萌え」として納得できない者も少なからず存在するだろう。Bで指摘したように、旧来の「萌え」が基盤としているデータベース消費とは異なる仕方で10年代のオタクたちは物語を消費していたと見ることができる。そのためその時代にあった新たな、今となってはそれすらも古いのであろうが、「萌え」を定義してみたいと思う。

 そして、旧来の「萌え」と区別化を図りたいのには、旧来の「萌え」からの乖離という状況のほかに、「推し」という概念の浸透がある。私の認識では、「推し」という言葉は元来アイドルグループの中で一番好きなメンバー(「イチオシ」からの派生だろうか)を名指して使われてきた言葉であったはずだが、近年では例えばクラスメイトなど(これは倫理的にいかがなものかと思うが)より卑近な存在や、アイドル声優の隆盛に伴ってそちらの文脈、そしてそこから派生してアニメにおけるアイドルについても使用されている。
 この「推し」と「萌え」の区別をなぜ図りたいのか。興味深い「推し」文化の例として、VTuber文化を挙げてみよう。VTuber文化を消費している人々はVTuberに萌えているのか?おそらくは萌えていない。手元のスマートフォンかPCで、試しにTwitterの検索を用いて「VTuber 推し」と「VTuber 萌え」を検索してみればおおよその了解は得られるだろう。
 しかし他方で、旧来の「萌え」に照らし合わせるならば、VTuberはこれに合致している。
 Twitterで流通するVTuberの二次創作イラストは類型化されたデータベースから出力されたキャラクターを様々な文脈に落とし込み消費する、まさに東浩紀が名指したところの「萌え」である。
 VTuber文化は主にゲーム実況や雑談、楽曲のカバーを歌唱する配信といった形式を用いて擬似的にオタクたちとコミュニケーションをとる形態であり、そこに物語はない。「萌え」の極地であるといえる。

 それでは、なぜオタクたちは彼ら/彼女らを「推し」と名指すのか?そこに、「萌え」と「推し」の線引きが存在するのではないか。
 旧来の「萌え」とVTuberの差異として考えられることは、ある程度オタクたちとVTuberの間に双方向性が存在していること、つまりオタクたちにとってVTuberが実在のものとして捉えることができる、という点である。そこにおそらくは旧来の「萌え」と現在の「推し」の違いが存在している。

 「不在」というキーワードを、ここで導入しよう。
 不在とは、語義通り「いま、ここには存在しない」という認識で問題ない。そこに「在る」という錯覚を呼び起こすこと、その強固な力こそが「萌え」を「推し」へと変形させていったのではないか。「推し」は不在ではない。フィクショナル・キャラクターとは異なり、例えば金銭によって直接接続することが可能である。たとえフィクショナル・キャラクターの顔が印刷されたグッズを買ったとしても彼女たちは我々には微笑まない。この違いに、我々はもっと目を向けるべきである。
 フィクショナル・キャラクターに向ける感情と、VTuberに向ける感情は同一化できるだろうか。おそらくはできない。つまり、不在であることが絶対条件なのだ。これに照らし合わせれば、「負けヒロイン」や「日常系」のキャラクターは当然萌えに分類される。

 さらに「不在」からもう一歩踏み出してみよう。不在であることで我々に与えられるものは何か。おそらくそこに立ち現れてくるのは「今、ここにない」ということに対する「喪失感」や「虚無感」といった、痛みに近いものであると考えられる。つまり「不在の対象に対する痛み」、これこそが本稿の名指すところの「萌え」のを喚起するとではないか。
 もう少し「痛み」について詳しく説明していこう。「日常系」、「負けヒロイン」の物語との不可分性、そして「主人公=プレイヤー」という図式の崩壊によって引き起こされる作用が「痛み」だ。
 「日常系」はいつの日か終わり、「負けヒロイン」はいつの日か負ける。物語に措定される彼女たちは、その事実からは逃れられない。物語は必ず終わるし、ヒロインレースにおける物語の終わり(=決着)は負けヒロインの誕生と表裏一体だ。
 しかし、かつてならば選択肢を変えることで救うことができた我々は、もういない。可能世界は並置されないのである。だから介入せずに見ることしかできない我々は、「痛み」を感じる。フィクショナル・キャラクターの「不在」と我々の介入不可能性はほぼ同じものである。Aで見たように、負けヒロインの成立状況から、我々は負けヒロインに対していかなる介入可能な回路も持たない。

 「痛み」という言葉は、宇野常寛が東浩紀の「萌えの手前に止まること―『AIR』について(以下、萌えの手前)」に対する反論として「ゼロ年代の想像力」で述べられている「安全に痛い自己反省パフォーマンス」からの回路も語ることができる。引用をしつつ、簡単に概略を示そう。 

物語とメタ物語、シナリオとシステム、キャラクターとプレイヤー、オブジェクトレベルとメタレベル、虚構と現実、責任と無責任、反家父長制的感性(脱社会性)と超家父長制的感性(保守性)を乖離させつつ共存させる美少女ゲームは、二〇〇〇年代のオタクたちに「楽園」を提供する最適なメディアであると同時に、彼らの自己欺瞞を抉り出す最高のツールにもなりうる。『AIR』は、その後者の頂点に位置する、きわめて批評的な作品である。
(東浩紀「ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2」
所収付録「萌えの手前に止まること―『AIR』について」P.322)
 だが、本当に自己反省が内包されているのならば、そもそも第一部のような物語は成立するわけがない。この「自己反省」のポイントは、「少女が主人公の男性を絶対的に必要とする」という、「所有」構造の根底をなす部分は反省の対象にならない点にある。「本当に痛い」、機能しうる自己反省が内包されるには、往人は観鈴に拒絶されなければならない。九〇年代後半的な厭世観を埋めるために(あらかじめ埋められるべき欠落を持たされた)孤独な難病少女を所有する、という態度自体が「拒絶」されなければならないのだ。
 だが第三部の作用はむしろ、第一部の物語からこの拒絶という「本当に痛い」自己反省の機会を永遠に奪うためのものでしかない。第三部のシステムがもたらすのはむしろ、第一部の物語の脱臼ではなく再強化である。そこにはマチズモの強化温存回路しか 存在しないのだ。
(宇野常寛「ゼロ年代の想像力」P.240)

(注)『AIR』は2000年にKeyが発表した美少女ゲームで、第一部で攻略対象となるヒロインの一人(観鈴)の物語を第三部ではカラスの視点から再度体験する、という構成になっている。

 このように虚構からの返答を内包したまま「痛み」を得ることは、「安全に痛い」反省であるとして批判を受けた。言葉遊びではあるが、「萌え」の手前で止まることが安全に痛いのならば、「萌え」に踏み込んで行くことこそが、「本当に痛い」経験を得る術である。「萌え」という姿勢に不在性というある種のマゾヒスティックな観点を入れることによって、初めてそれは完成するだろう。
 つまり、私が名指す10年代の新たな(それも、今となってはすっかり古いものとなってしまったのであろうが)「萌え」とは不在の対象に対して漸近していこうとする姿勢それ自体なのである。
 不可能であると知りながら、それでも「虚構」内側へ踏み込んでいこうとすること。不在の対象に向けて漸近していく行為と、その対象との間に存在する決定的な断絶に「萌え」と名づけることもできるのではないか。

 だから、「負けヒロイン」や「日常系」のキャラクターに萌える、という行為に本当の痛みを獲得できる可能性を見出したい。「安全に痛い」として閉じられた、虚構における不能性を真に手に入れるのではないか、そう思いたいのだ。
 宇野常寛によれば「日常系」の描く世界は「「誤配」のない再帰的な共同体の中でローカルなナルシシズムが確保される空間」とされている。ラブコメ作品もおそらくはそうなのだ。しかし重要なことは、そこに我々が介入できないことである。我々は誤配されないのだ。そこに可能性があるだろう。

おわりに

 10年代が終わるにつれて現実と虚構の境界線はあいまいになっていった。SNSでは美少女のイラストと現実のニュースが同じ質量でタイムラインの上を流れていく。「萌え」は影を潜め、反対に自然主義リアリズムを核とした“リアリティのある”作品が格段に増えた。Vtuberに始まるメタバース空間は、虚構の身体を纏うことで現実との境目はより曖昧にしてゆく。我々にはもはや虚構と実在の区別をつけることは不可能である。

 しかし、この傾向を手放しで許容することは難しい。SNSにおいて顕著なように、虚実の入り混じる空間ではしばしばフェイクニュースや陰謀論がしばしば流布され、そして虚構と実在の区別がなされないことによって、虚構について現実の倫理が過度に適用される。そのことによって衝突がしばしば発生するのは、我々が日々実感するところである。
 そのため、いま一度虚実の区別はなされなければならないだろう。10年代の「萌え」の復権は、恐らくその小さな第一歩である。そのためには共通見解がある程度存在していたであろうゼロ年代終盤から10年代前半、つまりは「負けヒロイン」が現れたころから、再び「萌え」を始めねばならない。
 当然、そこには多くの問題があるだろう。キャラクターの「所有」に関する問題、ジェンダーの問題、倫理的な問題など、枚挙にいとまがない。
 ただ、それは「萌え」を可能性として切り捨てる理由にはならない。上に挙げた問題は社会においてあらゆる局面で相対しなければならない問題だ。だからこそ、その解を探りつつ、新たな可能性を拓かなければならない。
 「不在」の対象について語ること、「不在」が“痛い”経験であったこと。崩壊しつつある虚構と実在の境界線を、消えるたびに何度でも引き直すこと。こうした姿勢が、恐らくは必要なのだ。そして10年代の「萌え」、延いてはその一つの営みとして「負けヒロイン」を愛するという行為にこそ、可能性の萌芽があるように私には思われるのである。

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