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二次オタは青春ヘラの夢を見るか?

冒頭の画像はめちゃくちゃ迷った末、僕を取り返しのつかないオタクたらしめた女こと西木野真姫さんの、僕を取り返しのつかないオタクたらしめた一枚にしました。

はじめに

 僕はいま、百年ぶり(大袈裟)に「二次オタ」という言葉を使った。それは今は亡き文化のことを懐古したかったからだ。「萌え」、「二次元」、「キモオタ」。こうした言葉が死語として消えていく度に、僕たちの居場所は狭くなった。「オタク」という言葉は、もはや2010年代前半をオタクとして過ごした僕たちを包含しない。
 だからこれからの語りは、かつて存在した、そして愛していた文化を懐かしみ、それらに再度出会うために、ほんの少しだけ何かできないかと思っている僕の叫びだと思って欲しい。そして多分、これは祈りであり、いつか完成するべき、しかし永遠に完成してほしくない墓標を建てる過程だ。
 もし、これを読んで下さった酔狂な人の中に共感してくれるオタクがいたら、ぜひ一度話をしよう。一緒に傷を舐め合おう。そしてできれば、「あの頃」を小さな領域の中でだけでもいいから、取り戻そう。

 以下、「我々」とか「オタク」とか「僕たち」とか、大きな主語を使うことがあるが概ね僕が共感者欲しさに主語を拡大しているに過ぎないことをご了承いただきたい。

オタクの実存

 原始、僕たちは自然主義リアリズムの中にいなかった。二次元を三次元と接続して見なかった。本当の意味で、ルイズに蹴られたいわけではなかった……たぶん。
 僕たちが「〜したい(されたい)」と嘆く時、そこには可能性が存在しない故の諦念が紛れ込んでいた。オタクに優しいギャルに優しくされたいのも、ぎどれガールに滅ぼされたいのも、あずにゃんをペロペロしたいのも、ルイズをクンカクンカしたいのも、少なくとも僕の中ではそうだ。
 断絶した、我々と違った「セカイ」。それを僕たちは、ただ眺めていた。ひがしやしきが言うように、二次元だから良かった。それは、ともすれば差別的な異性キャラクターの消費だ、という誹りを免れないのだろう。僕の中では「二次元にはなんでもできる」ではなく「二次元でないと何もできない」という論理を貫いているつもりだが、言い訳に過ぎないのかもしれない。

姿かたち実在に触れたら
僕はどう思うかな きっとお帰りいただくかな
君が死んじゃうとこ見たくないし
君が老けてくとこ見たくないし
やっぱり君が永遠でよかった
そして僕が有限でよかった

 なぜ僕たちは、二次元に耽溺した(あるいは、している)のか。
 それは、そこに「不変」があったからではないか、と僕は思う。
 「大きな物語」無き世界の中で、我々が信奉できるものは何か。不安定な世界で縋ることのできる、安定し、不変なものとはなんだったか。
 それこそがある人々にとっては(そして、僕にとっても)二次元で、空気系だったはずだ。明日僕が死んでも、世界が滅びても、「あの世界では」あずにゃんは変わらず微笑んでいる。唯とギターを弾いている。カレンはクッシー先生と戯れているだろう。情報処理部だって変わらずあるに違いない。
 ラブコメも、関係性は変化すれど結論が「不変」であることに変わりはない。六花と勇太は互いに好き同士だろうし、キリトはどうせアスナを守護っている。由比ヶ浜結衣が比企谷八幡に選ばれることも……まぁ、それは置いておく。
 つまるところ、選択可能性は我々にない。僕が今日うどんを食おうがラーメンを食おうが、競馬で負けて財布の中に179円しかなくどちらも食えなかろうが、作品に干渉する選択肢は発生しない。
 「ほんとうの世界」がある時点で―可能性は救いではないという時点で―彼ら彼女らは不変で、僕たちは、少なくとも僕は、それにある程度安心していたはずだ。
 だからこそ、終わらない日常を生き残っていくために僕が選び取ったものは「不変」であり、それが如実に現れていたのが、きっと二次元だった。
 多くの人が知っているように、終わらない日常は唐突に「終わる」。それは我々がある日突然マスクをすることを強いられたり、余震に怯える日々を過ごさなければならない、ということだ。
 二次元は、我々の日常の終わりにも対応していた。分裂した世界でも彼女たちは「不変」だった。つまり、問題は僕たちの「終わらない日常」が終わることではなかった。僕たちの日常が終わろうが続こうがアニメはそこにある、はずだった。
 そう、つまりは僕たちの縋った「終わらない日常」が終わることに、真の問題があった。

月曜日が始まる ねえストーリーは終わる
ただ人生は続く ニューストーリーが続く
止まらぬ時間の先へ さよならの手を振る
追い越してった春の先で ニューストーリーが始まる

 作品だっていつかは終わる。僕たちが永遠だと信じていた作品は、僕たちの実存に結びついている親愛なる作品たちは、ある日突然終わりを迎える。原作は終わらずとも、アニメは3か月くらいで一度終わる。
 逆に大半の僕たちは、日常を奪われたとしてものうのうと生き永らえているのが現状だ。
 このギャップから生まれた喪失感が問題ではなかろうか、と僕は考えている。それこそ一時期流行した「○○難民」といった言葉(これも今では死語だ!)が、オタクの感覚をよく表しているだろう。
 今でもどこかで日常を過ごしているはずの完結した作品のアニメキャラたちの現在は、我々からは不可視だ。
 それが、僕の愛している世代でそれが表出したのが、2010年代後半だろう。μ'sがいなくなった。先にあげたキャラクターたちはもう、キリトがアスナを守護っていること以外不可視になった。「きんいろモザイク」も「レヴュースタァライト」も、もう数個の劇場でしか上映されていない。それがなくなれば、カレン(九条にしろ、愛城にしろ)が今、何をしているのか。僕には知る由もない。

 その喪失感を埋めるため、僕たちは懐古に走る。物語のことを思い出して、あの日の僕らを思い出して、不安定な今の中で自分の実存を見つけ出す。
 そして、同時に彼女たちが「永遠であること」を祈る。信じてさえいれば、作品が終わっても、ページを開けば、再生ボタンを押せば、変わらず微笑んでくれる彼女たちは存在するのだから。それを見た僕たちは、せめてもの慰めとして終わった作品のキャラクターたちが生きていることを信じる。
 それはいつか来るはずの、僕たちのほんとうの「終わり」についての解を持たない。僕たちは"いつかなんらかの方法で"今の自分が大きく変容した時の対処法がある、と楽観的に見ている。幸か不幸か、多くの人々にとって、自分の実存すら揺るがしかねない「日常の終わり」は今のところ起こっていない。
 多分そんな世界を、多くのオタクは、諦念を心の底に押し込めて、最善説的な、―μ’sが叫んだような―「イマが最高!」という論理を自分に信じこませて生きていこうとしている、ような気がする(僕はこれを勝手に一神教的刹那主義と命名している)。少なくとも僕は、人生をやり直せるとしても(多少真面目に生きようとは思うかもしれないが)同じようにアニメを見るだろう。仮にやりなおしても、社会に適応できる自信がない。

 参考までに、終わらないはずのアニメの日常がいかに我々の喪失感と折り合いをつけているか、いかにふたつの曲を示しておこう。

戻ってこれるなら 変わっていけるから
限りなく 澄んだ空
止まらない 時を刻もう

 2021年冬放送、「のんのんびより のんすとっぷ」(つまり3期)のED「ただいま」である。なんと示唆的な歌詞だろう。なお「のんすとっぷ(non-stop)」と題されたこのアニメ放送中に、原作は完結した。

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 "終わらない日常の終わり___。" 
狙ってやってるだろ!!!!!!!!
(コミックアライブ公式Twitterより)
やっぱり…いまは一緒がいいね ずっと一緒がいいね
変わってく季節のなかでも
おなじキモチでいたい みんなをだいじにしたい
大好きな場所があってよかった
いまは一緒がいいね そうだ一緒がいいね
どこか行っても ちゃんと戻ってきて

 そして、こちら。「ご注文はうさぎですか? BLOOM」(こちらも3期)ED、「なかよし!〇!なかよし!」より。本作品はそのひとつ前、2020年秋に放送されている。
 これらの日常系を代表する二作が、相次いでこのような歌詞を我々に提示してきたことは(深読みと言われても反論できないが)重視すべきことだと僕は思う。
 アニメが実存と結びついてしまった我々が自分の生を感じるためには、あの頃の感覚を語り合うことで彼女たちを追想するほかない。
 ただいまとおかえりを繰り返して、どこかへ行ってもちゃんと戻ってくることでしか、僕は「あの日々のこと」を実感できない。
 かつて存在したオタクたちは、すでに自分がオタクであった時期を忘却しているにしろ、していないにしろ、現在かつての作品を懐かしむことが多くなった。ごちうさが、のんのんびよりが、それを指し示しているように。
 僕たちは変わっていく。成長か変化かは些末な問題だ。もうオタクでない人々は、時折かつての作品のことを、何かの拍子に思い出して、懐かしむ。
 そして未だオタクである人々は、時折かつて自分が愛した作品、キャラクターに回帰する。たとえ作品が終わったとしても画面の向こうの彼女たちが永遠であることを信じ、いつか来るかもしれない、自分の実存とオタクコンテンツが完全に分かたれるその日まで―オタクだった僕たちが死ぬまで―懐古をし続ける。そして、オタクにいつか来る「終わり」の日はきっと、僕の愛したキャラクターたちに別れを告げる日だろう。
 故にこれは断絶したセカイへの祈りであり、弔いに至る(今のところ終わることのない)過程なのだ。

オタクと「オタク」

 しかしポストモダン(消費社会?)の現在、似たようなコンテンツが再生産され続ければ我々のようなオタクは生き残れるはずだ。データベース消費の下で成り立っているのだから、新しいコンテンツに触れることで、少なくとも懐古という現象は減ることだろう。
 こういう意見は当然生まれるし、まっとうな指摘だ。
 実際、時々再生産は行われる。ただ、数が圧倒的に少ない。
 僕が愛してやまない、「変猫」や「まよチキ」、「中妹」、「がおられ」、「ニャル子」、「俺修羅」といった(いい意味で)雑なラブコメディーを受け継ぐ新作が、ここ数年(仮に2019年以降としておく)で何作品放送されたか?僕の記憶では「俺を好きなのはお前だけかよ」と「女神寮の寮母くん」の2作のみである。
 もちろんここには「僕が面白いと思ったかどうか」という相当恣意的な評価を介しているが、これは僕の実存に基づいたnoteなので許していただきたい。
 きらら作品は今も年に2-3作ほど新作が存在しているが、かつてのように難民を発生させるほどの影響はない。きらら系の変遷は話せば長いので今は置いておく。
 いつからか、という詳しい議論もここではしないでおこう。そのうち、僕の実感を基軸に2010年代を俯瞰できればその時にやろうと思う。
 ただ、それ以前から変化しつつあったにしろ、少なくともオタクの世界については、決定的な時期が2016年だという説を僕は推しておく。「コスプレイヤー」「μ’s解散」「シン・ゴジラ」「君の名は。」これだけのキーワードがあれば十分だろう。流行語大賞にノミネートされた「ポケモンGO」、「聖地巡礼」も考慮すべきかもしれない。

 では行われない/盛り上がらない理由は何か。単にニーズがないからだ。変猫の二期を作るより、呪術廻戦の映画を作る方が良い。さらにそれはなぜか?簡単だ。増えたのだ。我々とは一線を画するオタクが。
 そう、オタクは変わった。アニメを見て、ゲームをして、容姿に気をつけ、ガールフレンドがいる。現実を志向できるだけの自己肯定感と強さを持っている。実存に作品は結びつかない。現実に結びつけられるだけの、実存の強さを持っているから。そんな姿が常態化した。
 リアリティを作品に求めるようになったことで、二次元は三次元の婢になり果てた。断絶された画面の向こうから、実現できたかもしれない理想に変わった。作品を見て、ぼくは「こんな風に恋がしたい」とは到底思えない。
 僕たちは平面の彼女のことを直接想えなくなった。それはオタクのあるべき姿だったのに。「キモイ」の一言で他人に一蹴されるか、言われる前に自虐するほかなくなった。オタクという言葉だけが僕たちから離れていった。
 だから、「オタク」はオタクではなくなった。誰かが言ったように、世界はコミュニケーションの時代になった。アニメは実存の寄る辺から、コミュニケーションのための話題となった。「オタク」にもはや萌えは必要ない。
 呪術廻戦を見る「オタク」も、東京リベンジャーズを見る「オタク」も、「萌え」―さらに薄めて言えば可愛いヒロイン―を求めない。彼ら/彼女らは、釘崎野薔薇にも橘日向にも萌えを求めていない。
 必要なのは突き抜けた面白さではなく、そこそこの面白さと共感性、同時代性、または知名度になった。コミュニケーションによって起こった変容はそうだったはずだ。好きな作品を語りたいのではなく、好きな作品を語って友人との共通性を認識する。金曜ロードショーで「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を放送するのに対する僕の消化不良の感覚も、それに近いのではないか。
 同じ時期に、僕たちの秋葉原は殺された。他の誰でもない、「オタク」の手によって。
 まだ行きづらくなったとまでは言わないが、昔よりは確実にホームタウンではなくなった。客引きが増えた。オタクが減った。秋葉原はいつから美男美女が手を繋いで歩く街になったのか。秋葉原でタピオカ屋が繁盛するなど、誰が想像しただろう。「オタク」とはつまり、そういう人種だ。
 参考までに僕の話をしておく。あれは春先だった。バイト先で仲良くなった大学生に「今期何見てる?」と聞かれ、「ひげひろ」や「おさまけ」などと迷った挙句「86」と答えたときに訪れた、えも言われぬ沈黙……。
 仮に残りの二つを回答していたら、僕は間違いなく研修中にバイトを辞めていた。僕と彼は同じメディアを見ていたけれど、魂のステージがいくつか違うらしい、ということが痛いほどわかった。
 自らを卑下することを僕は否定しない。存分に自身のことを「オタク」と呼んでもらって構わない。
 けれどそれによって、言葉を失ってしまった人間たちのことを、どうか忘れないでほしい。
 君たちがオタクなら、同じ萌えアニメの映画を特典欲しさに何度も見たり、作中キャラの死で一日間何にも手がつかなくなったりする僕たちは、一体何者なのだろう、と常々思わされる。

 とはいえ、僕はオタクが我々のものだった、と言いたいわけではない。それの議論を貫くならば、オタクは第一世代に行き着く。多分僕たちも、誰かの名前を奪ったのだろう。
 ただ少なくとも、ある期間―それは僕がよく言う2010年代前半ごろだが―オタクは様々なものを包含するもので、あらゆるオタクを受け入れていたのではないかと思う。
 あの頃、オタクは雑多だった。ボーカロイド曲の再生数ランキングを見ていただければわかるが、実に多種多様な曲がひしめき合っている。アニメだってラブコメも、バトルものも、日常系も、すべてが共存していた。その雑多さが好きだった。他にも特撮、アイドルなど多くのものを包含し、(衝突することもあったのだろうが)概ね共存して生きていた、それがオタクのコミュニティだったのではないかと僕は感じている。

 けれど今現在、「オタク」は無自覚に他者を押しのけるし、かつてのオタクも何か勘違いをしているように思う。露悪的なキャラクターが増えた。勧善懲悪が流行している。追放ものだって、基本的には理不尽な追放に対する勧善懲悪なのだから。ぼくは割と熱心なラブライブ!のオタクだけれど、ラブライブ!スーパースター!!に原宿を闊歩して欲しくないし、それによってオタクが原宿に通うのもあまり好きではない。
 同じような文脈で、オシャレなコラボグッズも、僕たちが無理やり変えられているような感覚に陥ってしまう。
 こうした変容を、僕は近年身を持って体感している。そして、何とか抗いたい。けれど一方で、世界は、僕たちが変わることを望む。そして、その傾向はきっと、これからもより一層強くなっていくだろう。

 以上見てきたように、「オタク」は環境ごと大きく変わった。僕たちのような、かつてのオタクの居場所は失われたとは言えずとも、相当狭められた。よく言われるように、「オタク」が人口に膾炙したのは、僕たちのような人間が認められたのではなく、僕たちとは異なる人種が「オタク」と新たに定義されたに過ぎなかった。
 僕たちの住処は、今のところ過去にしかない。これが懐古に走らせている一因となっているかもしれない。

オタクと青春ヘラ

 しかし見えない、強大な敵に拳を振りかざしたところでどうしようもない。奪われた居場所も、存在ない青春も、今はないのだから。
 差し当たって僕が今すべきは、タイトルの通り「二次オタ成人男性は青春ヘラの夢を見るか」を考えることである。もしも青春ヘラの夢が見られるのなら、僕たちはそれに縋ることができる。懐古とはオサラバだ。
 また僕は常々、青春ヘラにある程度の共感を寄せつつ、どこかで消化不良を抱えている。思考回路は近しい、けれどどうにも僕には合わない。どこかで、僕とは違うところはある。こうしたズレは、「オタク」の変容の中でわかりやすく捉えられるのかもしれない。

 そもそも「青春ヘラ」は、僕の感覚では失われた/存在しない自分の青春と虚構の青春を比較することで芽生える悪感情いかに肯定(この場合の肯定に克服や解決の意は含まれない)するか、という試みであるように思う。
 そして、イデアとなるその虚構の青春には、しばしばアニメや小説、マンガといったある程度パッケージ化されているものが据えられる。
 では、オタクは青春ヘラと親和性があるのか。それは明確にないと言えるはずだ。
 元来、僕たちは青春など標榜し得ないはずだった。オタクと呼ばれる人種はキラキラしていないし、暗いし、キモい。「リア充爆発しろ」と嘯いて、自分の枯れてしまった青春は見ないふり。いつも教室の隅でラノベを開いてボカロを聞き、ニヤニヤ笑いながらクネクネ動いている。けれどそれが良かった。そういう人種だった。たぶん。少なくとも僕はそうだ。
 小さなコミュニティの中で、自分の好きな作品を語ることができればそれで良かった。それが僕らなりの「青春」だった。結びつくのは「僕」と作品の中身ではなくて、作品が盛り上がっていた時期の空気感と、僕の実存ではなかったのか?僕たちは本当に「とらドラ!」のような青春を望んでいたか?僕ならば、きっとNOと答えるだろう。
 僕は、俺妹のヒロインで誰が可愛いかケンカした日の放課後にカラオケで「irony」を一緒に歌って、その時MVを見てまたケンカできればそれで良かった。腐って、本当にまちがった青春。それが良かった。
 だから、「青春ヘラ」とオタクの噛み合わせは悪いはずだ。「青春」という軸を中心に、自分のことを作品と対置し得ないのが僕たちだ。
 もちろんオタク的青春への喪失を感じた「青春ヘラ」は存在するだろう。三条くんはそうなのだと思う。違ったらすみません、ほんと。

 僕たちは、二次元に「日常」や「普通」、または「平和」を見ていた。だから空気系を愛するし、普通の女の子に恋した(なお二次元において、そうした普通の女の子は負けることが多い。なぜなのか!)。そして、どうしたら向こうの世界へ行けるのかばかり考えた。僕は二次元を、断絶した(けれど手を伸ばしたい、届いて欲しいという祈りを持った)理想だと思っている。決して届くことのない祈り。これは常々話していることだ。
 それに対して、青春ヘラは―本当にそう思っているかは別にして―「実際に目の前にいて欲しい」という願望があるように僕は思える。虚構にリアリティを求めるその構造は、誰かが言ったような、「現実への逃避」という表現がもしかしたら正しいのかもしれない。
 つまり、二次元に対する願望の方向が違うのだ。僕は二次元に行きたい。彼ら―というよりも、今どきの多くの人―は二次元のような三次元に憧れている。実現性を求めている。
 Vtuberもその文脈で位置付けられるかもしれない。パーソナリティの一定部分が中の人の性格に依拠しているのだから、僕は彼ら、彼女らのことを二次元の皮を被った三次元だとしばしば考えている。

 こうしたズレが、ぼくと青春ヘラを隔てているのではないか。三次元への回帰性。それは、実存がそうできるだけの強さを持っていることを示している。
 結局のところ、僕たちはそれを持ち得ない。きっと2010年代前半、三次元に目を向ける強さがある者の多くは、アニメなんか見なかった。

だせえノンフィクションに疲れたな
漏れもフィクションになりたいな
まんがタイムきららに
まんがタイムきららに
まんがタイムきららに
漏れはなりたいな

 一方、今僕の目の前には、「青春ヘラ」を肯定する「オタク」がたくさんいる。やはり彼らには「フィクションになりたい」という願望ではなく、「フィクションが現実に起きて欲しい」という願望がそこにはあるように思える。微妙なニュアンスの違いかもしれないが、僕からすれば大きなことだ。
 例を挙げるなら、「俺ガイル」を見て僕は由比ヶ浜結衣に思いを馳せて辛くなるが、彼らは多分そうじゃなくて「俺ガイルみたいな青春を歩めなかった自分」が辛い、という感じだろうか。
 これは決して悪いことだと思わない。むしろ僕らよりも幾分健全だろう。
 ただ、僕と彼らの間には何か埋められない溝があるような気がしてならない。それが若干寂しい。全体主義には、必ず排斥されてしまう人々が存在する。それが今回の場合は、たぶん僕だったのだろう。
 彼らについて、僕は多く語るものを持ち合わせていないから、これ以上言及するのはやめる。不理解から生ずる勘違いは、しばしば断絶を生む。何か間違いがあったら修正するのでご連絡ください。
 少なくとも、彼らの求めるものは僕とは違うだろう。「雑なラブコメ」も「きらら系列の日常アニメ」も、きっと求めない。「青春」という軸から見たとき、理想にはならないのだから。

ぼくとオタクと青春

 少しだけ、自分の話をしよう。一人のオタクから青春ヘラについての解像度が上がればいいのかもしれない。これは単に僕の実存に関する話だ。オタクコンテンツとはほぼ関係ないから、読み飛ばして構わない。

 若い(ということにする!)僕の実存というのは、ある程度青春に結びついている。高校3年間を青春と定義したとして、僕ですら未だに1/7を青春に支配されている。0-2歳の記憶がほぼないことを鑑みれば1/6とも言える。中学も含めれば、人生のおよそ1/3近くを占める計算になる。これだけ長い期間を占めれば、実存の一部にならざるを得ないだろう。
 その中高時代を、僕は立派な(なんだそれ)オタクとして過ごした。男子校だったし、制服がなかった。だから世間一般の「青春」と言われる要素をほぼ全てもっていなかったことになる。ゆえに僕はリア充/陽キャ的生活を軸にして青春を評価できない。
 周囲が青春ヘラで盛り上がる瞬間、ぼくはそれに当てはまるだろうかということをほんの少しだけ考える。
 結論から言えば多少近しいけど、たぶん違うだろう。
 僕はれっきとした青春敗北者だ。世間一般で喧伝されているような「青春」をした記憶は一切ない。
 ただ同時に、僕は自分の青春を否定しない。一人で駅のホームのベンチに座って授業をサボったことを否定しない。俺妹のヒロインで誰が一番好きかでケンカして、その日のうちに仲良くカラオケで騒いだことに一分の後悔もない(そう言う時点で、後悔を軸に考えているから僕は自分の青春を後悔しているのだろう。けれどその後悔を含めて「まぁ、悪くはないかな」と思えている)。
 一方で肯定する気もない。青春とオタクが強く結びついた僕にとって、青春の肯定、そして成仏は、オタクであった僕の肯定、成仏に直結する。つまりは弔いが成功する。残念ながら、僕にその予定はない。

 もちろんこれら思考は、自意識が拗れているからに違いない。僕が斜に構えているのは間違いない。
 周囲の誰も、もうアニメなんか見ないのに、一人で毎クールアニメをたくさん見る。拗れた恋愛観だって、当然あるだろう。僕だって「本物」が欲しい。
 けれど自分にはそんな自分がカッコいい、という自己愛がない。たとえ「〜がない」をアイデンティティにしているとしても、「他人と違う自分」を志向してしまう自分さえ俯瞰的に見て、それをやめられない自分が気持ち悪いと思う嫌悪だけだ。
 メタ認知のメタ認知。嘘ばかりつく八幡が言う自己愛は、きっと嘘でしかない。自分を愛せる人間は、強制的にボーイミーツガールさせられるまでぼっちになることはない。自分を愛さなければ人も愛せないのだ。彼はこの世で最も信じられるはずの存在たる自分すら懐疑するから、他者も懐疑せざるを得ない。

 ぼくが彼から学んだところは、共感したところは、憧れたところは、恐らくそういうところだった。最悪な話だ。だからたぶん、ぼくは青春ヘラにはなれない。

 そんなことを言っているうちに、今年の8月15日は、ついにメカクシ団の誰よりも(正確には年齢不詳のマリーを抜いて)大人で迎えることになった。合計で見たアニメは350本を超えた。この年になっていまだライトノベルを読むし、まちカドまぞくの2期を心待ちにしている。美少女ゲームにも手を出した。
 いよいよ戻って来られない水準に達した気がしてならない。オタクコンテンツは既に僕の実存と不可分だ。これを失ったら最後僕はどうなるのだろうか。いかなる外部環境の変容よりも、自分が自分でなくなるその日のほうが、オタクだった自分が逝去するその日のほうが、僕にはよっぽど怖い。だから僕は、オタクコンテンツに縋るし、それと強く結びついた青春を否定も肯定もできない。

 もちろん、オタクだけが僕の実存を構成しているわけではない。僕はサッカーを見るし、洋ロックとヒップホップを少しだけ聴き始めた。近代文学も読む。競馬もする。
 それでも、一番の土台は、やはりオタクなのだろう。人生の1/3を添い遂げたものにそうやすやすと別れを告げられるものではない。もしかしたら、いつの日かオタクという実存が薄れてしまうくらい、他のものに埋もれる日が来るのかもしれない。弾力性をすっかり失ってしまうのかもしれない。その時になれば、「あの頃の悩みなんかしょうもねえな」と笑っているのかもしれない。
 けれど、それは当分先の話だ。少なくとも今の僕は、自分の実存をオタクから切り離せないからこそ、苦しんでいる。

結論-終わらない歌を歌おう-

 いい加減、結論に至ろう。長く書きすぎた。
 二次オタ成人男性は青春ヘラの夢を見るか?答えはもう出ている。否だ。僕たちは二次元への追想を抱くのであって、青春ヘラにはなれない。
 オタクが青春どころか実存に結びついてしまっている我々には、青春をなかったことにするのも、否定も、肯定も容易くはできない。
 二次オタ成人男性は、青春ヘラの夢を見ることができない。
 彼らが青春に置くものを二次元に、ヘラ、または喪失に置くものを懐古にして、僕たちは今日を生き延びている。

 けれど、少なからず接続点はある。
 それは唯一あの時と今が違うことがあるからだ。それは僕の愛したオタクコンテンツが変容しつつあり、このままでは失われていく一方であろう、ということだ。
 もちろんこれは僕の実感に過ぎないから、実際のところは作品の風潮は変わっておらず、自分が変容している可能性は十分にあるが、一定の人々はこの感覚に共感してくれていると信じたい。
「今、失われかけているオタクの世界」、僕はそれに対して懐古し、感傷に浸る。それを青春と呼べるのなら、僕も外縁ではあるけれど仲間に入れてもらえるのかもしれない。

 ならば僕たちにできることは何か?僕が考えていることは、この章の題名のとおりだ。
 僕たちは終わらない歌を歌うしかない。誰か一人が歌い続ければ、少なくとも僕たちの文化は終わらない。今ここに立つのは墓標ではなくて、僕たちであるべきだ。
 だから僕は今この瞬間、僕たちの実存を感じるために、終わらない歌を歌う。
 クソったれの世界のため。僕や君や彼らのため。
 明日には笑えるように。いつかこの歌が、合唱になるように。

 最後に一つだけ。僕は、二次元を愛している。由比ヶ浜結衣を、九条カレンを、西木野真姫を、千反田えるを、夜ノ森小紅を、樋口円香を、いまでも愛している。少なくとも今、彼女らはすでに、僕の実存におけるかけがえのないピースなのだ。
 だからこそ、僕は叫ぶ。例えそれが届くことはないとしても。もしかしたら既に失われてしまっているとしても。
 そうでなければ、狂っている僕は、もう寄る辺を失ってしまう。
 もしかしたらいま僕が悩んでいることも、オタクに優しいギャルヒロインちゃんが抱きしめてくれて「オタクくん、そんなことで悩まなくていーじゃんw」と肯定してくれる日が来るのかもしれない。そうなれば、僕は僕の愛したヒロインたちに清々しく別れを告げ、次の場所へ飛び立つことができるのかもしれない。
 けれど、今のところそんなことはあり得ない、ということがここまで読んでくださった方ならわかることだろう。そうでなければ、僕は、あの日々を追想しないし、取り戻したいなんて思わないのだから。

 一応、かなりぼくの実存に忠実な、しかも(珍しく)あまり韜晦していない文章を書いたと思う(いつもは友人に韜晦するなと怒られている)が、如何だっただろうか。
 これを呼んで何かの足しになるか、共感してくれる人がいたら、最高だと思う。書いていてそんな大層なものができていたとは思えないが。
 とりあえず、この整然としないnoteを最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。今回はここで終わりにしようと思います。
 それでは皆さんご一緒に。最近流行ってるアレ、やっておきましょう。

 今はなき、そしていつか取り戻したい、あの日のオタクたちのセカイに、合掌🙏

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