激論!ドーなる?!令和ニッポンの「エモ」至上主義(後編)
(前編はコチラ)
本文は「大阪大学感傷マゾ研究会」で頒布されている『青春ヘラver.4「エモいとは何か?」』に掲載されている、箱部ルリ・舞風つむじ『「エモ」の神話を解体する-質問調査と機械学習による「エモさ」の抽出-』の調査結果をもとにした討論です。
~前回のあらすじ~
今年6月に開催された【エモ座談会】。
最初に箱部による【エモ機械学習】の結果が示された一方、
後半は舞風が提唱する「エモい=美醜」論が議論をリード。
エモ破壊派の舞風が優勢のまま終わった前回の議論。果たして、箱部はここから持ち直せるのか⁈
題して、「激論!ドーなる?!令和ニッポンの「エモ」至上主義(後編)」
後編、スタートです!
後編(本編)
あえて外在化させる試み
(司会) さて、ラーメンをすすりお腹もふくれたことでしょうし、議論に戻りましょう。
(箱部) 休憩中に考えていたんですが、過去を「あえて」語ることで外在化させる、という試みが「エモ」に繋がるのではないかと思います。
(箱部) 「エモい」という物語の中に語りを通して客体化していく。そうすることによって自分と経験の間に距離を生むことは、「エモ」の必要性と言えはしないでしょうか。「エモがる」という行為は、規範を所与のものとしたうえでそれと戯れようとする諧謔的な試みであることは認めましょう。そしてそれが、結局のところ規範を再強化していることもまた事実かと思います。
(箱部) しかし、だからこそ、舞風的路線と「エモ」を折衷する必要があるのではないかと感じます。客体化が暴力性をはらんでいることは理解できますが、かといってすべてのことを主体的に引き受けることは、キツいでしょう。前半では「エモ」から零れ落ちる人間についての話がありましたが、そういう人たちにこそ「あーあ、俺ってかわいそう」という消費の仕方が開かれているし、それはある種の痛み止め的な作用がきたいできるように思います。
(箱部) ……というわけで、我々は和解すべきだし、それが記事のオチ的にもいい気がする。
(司会) もしかしてこいつ水かけられたくないな?
(注:対談前に、議論が白熱しすぎて最終的に互いのグラスの水を掛けあい、「結局水掛け論でした!」というオチにしようかという話があった)
(舞風) それに対する返答としては、まず自分を客体化するパフォーマンスを行ったとして、それを見る「他者」がいるかはわからないみたいなありきたりな話は出る気がする。
(箱部) それは自己憐憫でもいいのでは。
(舞風) あてのない自己憐憫の行きつく先は、結局のところ自分への絶望か不特定多数の他者(=社会)への憎しみになってしまうようにも思うけど。
(箱部) 「エモ」が責任を負うからなぁなぁでつきあっていこうよ~。
(司会) 「エモ」が責任を負う、というのは?
(箱部) 例えば「自分をメタ的に見る」という視点があってはじめて「エモい」と思えるわけです。「アンビバレントなもの」がエモいというのも、「普通」のものを想定して、そこからの距離にエモさを感じている……といったように原点となるものが措定されています。
(箱部) もちろんその自分のこととメタ的な視点のバランスが崩れることの危険性には理解を示せますが、その崩壊の責任は「エモ」が負うべきものだということです。一方でバランスがあるからこそ、我々の健康が保てているわけです。適度に「エモ」を用いつつ責任の分散を図ると言ってもいいでしょう。つまり客体化(=箱部)と実存主義的路線(=舞風)は、互いに排他的なのではなくむしろ共犯関係にいるのでは?
(舞風) 箱部の意見にある程度肯定はできる。君の言う「エモ」の論理は、それに包摂されない人間でも利用できるということだろう。ただ、それを「エモ」に言葉のもとに包含する意味がよく理解できない。結局のところ、後半に入ってからの箱部の議論というのは「自分の経験」―それは比較的マイナスイメージのものが多いだろう―を外在化させる試みについてのものだといえる。
(舞風) つまり、「エモ」は経験を外在化させることができるのだと思うけど、その前提として「エモ」っていうのが他責的なものとする姿勢に帰結するんじゃない?「この私」がつらいのは自分のせいか、社会のせいか……といった形に。「この私」のせいではないけれど「この私」はつらい状況に置かれているという乖離性、箱部の言葉を借りれば「アンビバレントな」と前置きできるだろう、が「エモ」を生み出す原理なのだと思う。そして、そのつらい経験を「エモい」という言葉でパッケージングして、外部に置く。
(舞風) これは両義的なもので、いい意味においては箱部が述べた「責任の分散(=痛み止め的効果)」があるのだろう。しかし、個人的には現在のそうした他責的な人々の在り方は、正直行き過ぎていると思う。
(箱部) 裏を返せば、手を結ぶとしたらそのバランスはもう少し「エモ」の側から離れるべきだ、と?
(舞風) 仮に手を組むのならば、ね。
自責と他責
(箱部) 実際問題として、社会から極端に疎外されている人、というのはいるでしょう。残念ながら差別や貧困もいまだ存在しています。また、いわゆる「ポリコレ」的なものと「エモ」といった諧謔との相性は悪いでしょう。もちろん「ポリコレ」的なものが社会に浸透すべきである一方で、結局それは「エモ」の局面においては「エモ」がどの程度まで許されるのかという程度問題に帰着するはずです。
(箱部) 性加害は許すべきではありませんが、一方で諧謔的な遊びが失われた性愛というのが想像しづらいのもまた事実なはずです。社会で疎外された人間にとってもそれなりに諧謔は大事であるように思います。
(司会) 今の話を聞いていると、社会からの疎外という文脈で差別や貧困が出てきたと思いますが、それだと「自分のことがエモいと思えない人」の話に収斂するのでは?「エモいと(他人から)思われない人」についてはいかがでしょう。
(箱部) エモい/エモくないが美/醜を強化しているのなら、それが自分のことであろうと他人のことであろうと、「自分の中での疎外」が、「社会からの疎外」に繋がるはずです。
(舞風) うん。「エモ」の対象が自分か他人か、というのは自己言及性の違いに過ぎないから、正直ここで議論する必要はあまりないと思う。
(舞風) むしろ今の文脈で言うのならば、やはり「エモ」が他責的すぎることの方が問題であると思う。例えばほかのことで言えば貧困の理由を―もちろん、完全的に自責的な原因から来るとは思わないが―他責的原因に求めるとき、それは行き過ぎると当然陰謀論的な方向に陥ってしまうわけで。「エモ」にも似たような雰囲気を感じてしまう。他責的であること自体は問題ではないが、なんでも「エモ」にしてしまうこと、つまり全てを「外部」に置くこと、そしてその価値観が社会全体に浸透している現在の状況は、翻ってすべてのことを自分のことではなくなってしまうようにも思う。
(司会) ものすごく雑に言えば不幸ヅラしているということでしょうか。
(舞風) まぁ、そういっても良い。というか、そうならざるを得ない。結局のところ多数の人が「エモ」にすがることで起きることって、どうしても「どっちがエモいか」みたいなマウント合戦になる気がしてしまう。
(舞風) 再三言っているように、俺は「エモ」を含め他責的であること自体は問題視していない。箱部が言った通り、全てを自分の経験として引き受けることはつらいことで、時には外部に仮託したり、誰かに理解してもらうことも当然必要だと思う。ただ、今の「エモい」が横行している状態ではそのラインが低すぎるように俺は思えるんだよね。
(舞風) なら結局のところ自責的であるにはどうすればいいのかっていうと、経験を固有化するところから始まるはずで、だから今の「エモ」は部分的でもいいから一度解体されなければならないと思っている。
(箱部) それはその通り……いや、そう言って相手の議論を包摂するのは朝生(自主規制)でやられていることだし、良くないことですが。「青春の全体主義」のように、SNS社会では安易な外在化が氾濫していることは事実です。
(箱部) そうした安易な語りが行き過ぎれば「陰謀論」的なものに動員されてしまうことも、その通りだと思います。ただ、逃げではあると思いますが、そうした安易な語りを壊したとしても結局別のものに頼ってしまうはずで、ならそうした安易な語りに逃げるという行為も防衛機構としてしかたないはず……という反論はできるかと思います。
(舞風) 「安易な語り」自体は俺も否定していないよ。要はその語りが「自分の経験を外部のものとして語る」という姿勢になっているのが問題なわけで。逆に「外部の言説を自分の経験に再解釈する」という姿勢を通した語りもできて、俺はそこに可能性があると思う。まぁ、俺がやっている「負けヒロイン研究会」は、その側面もあるようにしたいなと思っているわけだけど。
(舞風) ただ、それはあくまで一つの例に過ぎない。別に「負けヒロイン」に限らず誰でも見ることができるものであれば、例えば「日常系」アニメでも、ブランドごとに括られる美少女ゲームでも構わない。今は「負けヒロイン」に絞るけど、「負けヒロイン」が出てくる作品っていうのは、鑑賞体験として万人の前に平等に現れる可能性があるわけで。
(舞風) ただ、そこに「自分」が入らないことはかなり容易にできるわけだよね。「自分のこういう経験が谷川柑菜のああいう行動から思い起こされて……」とか自分を絡めて何かを言わなくたって、「終盤の柑菜見てるの辛すぎんだろ!!!」っていう言葉だけで事足りる。
(舞風) そしてそれは、「ヒロインの負ける姿を見る」という自分の辛かった経験(そして、他人にとっても辛かった経験)として機能する。しかも、ちゃんと「安易な語り」になっていると思うんだよね。もちろん「負けヒロイン」を安易な語りにすることに対しての反論もあるだろうし、無論俺もそれだけで終わってはいけないと思うけどさ。
どうあれ、君の「エモ」とやらは甘いってわけ。わかる?
(箱部) 甘くなんかないッ!!!自分の経験を安易に抽象化してるのかもしれないけど、どうしようもない状態に陥るまでの過程があって、結局どうしようもないから他責的になるのでは?
(舞風) 他責的になるのが早いだろう。早すぎる原因の外在化は、むしろ葛藤の機会を奪っている。
(箱部) ……(無言)
(舞風) 日々「エモ」という虚空に向かってシャドーボクシングしている俺には勝てないようだな!
(箱部) エモが画一的になっているのも、それを何とかしたいのもわかります。ただ、そういった情報環境にどうやって抗うか考えたとき、「この状況はダメだ!」というふうに啓蒙的に規範を振りかざすことはどうかなと思います。現実の日本を思い起こせば、「上から目線のリベラル政党」は若者にウケていないわけで。その辺りはどうでしょう。
(舞風) それはそうなのでは?俺はいままでの議論はよく考えてきたけど、普段SNSで啓蒙とか一切してないわけで。する意味もないと思う。
(箱部) でもそういう地下活動っぽいTwitter社会運動って基本しょぼいじゃん(ボソッ)
(舞風) こいつ言わせておけば……!
(司会) どうどう……。
(舞風) ……フン、まぁいい。俺のなかでは、そういう「しょぼい」社会運動と青春ヘラ的な毛づくろいコミュニケーションの中間点にいるように心がけているつもりだ。箱部的には、たぶんそれをもう少し青春ヘラ側に寄せることで折衷をはかりたいんだろう。
(箱部) 寄せたいというか、まるっきり流行に乗じた社会運動をするほうが早いのでは。現代において革命を訴えることがもはや不可能に近いのなら、一度は資本主義の論理に乗っかるのも悪くないかと思うんですが。
(舞風) 俺としてはすでにかなり乗っていると思っていて、これ以上するのならば何らかの形で「コミュニティから何かを排除する」という動きが発生すると思う。これはつまり、ある種の「青春ヘラ」批判になるかもしれないが、「青春ヘラ」や「エモ」というのは、既存の価値を転倒しつつ新たな「島宇宙」を作っているに過ぎない。結局のところ手あかのついた「世代間闘争」に近い構造になってしまうのでは。
(箱部) ベタな反論だとは思いますが、政治っていうのは常にそういう動員ゲームに過ぎないと思います。
(舞風) そういう動員ゲームを受け入れ続けてきた結果として俺たちはこの資本主義ベースの社会で苦しんでいるのでは?もちろん、異なる価値観を排斥しない島宇宙が多数存在できる場が作れるのならば今すぐそうするべきだが……。例えば島宇宙の一つとして「エモ」があり、他方で別の島があるのなら問題ないけど、現状は「エモ」という巨大な大陸が存在しているわけで。そうなると話は変わってくるよね。
(箱部) それはその通りだけど……社会全体に「エモ」的な路線が広がっていったことをお互い批判したいわけで、どこがダメなのかを分析する舞風の立場と、エモの論理を突き詰めることでオルタナティブなエモさを追求しようとする箱部の立場。両者とも全くダメなわけではなく、それなりにお互い頑張っていきましょう……って感じでどうですか?
(舞風) まぁ、いいでしょう。
試合後コメント
今回の「エモ」討論会を通しての箱部・舞風両名の感想、そして「青春ヘラ」刊行者のペシミ氏からのコメント(「青春ヘラ Ver.4」より抜粋)です。
箱部
正直負けた!!……気がします。Twitterでエゴサをかけても、舞風の「エモ=美醜」論に対する言及が多かったなぁという印象です。実際エモいものは美しいし。あと作業めっちゃ手伝ってもらったし。作業といえば、舞風はもちろん、撮影に来てくれた友人代表氏とカメラマンのT君。機械学習を手伝ってくれたちゅーばくん氏。みんなありがとう!!!!!
せっかくなのでTwitterで見た意見にいくつかコメント返しをします。
・「エモ」について議論しているのは分かったが、そもそもエモが何かわからないので解説してほしい
→青春ヘラver,4をお読みください!
・「エモ」は個人の経験に紐づいているのに、特定の単語がエモいかどうかは議論できるのだろう
→手前味噌ではありますが、アンケートで特定の回答が多く出現していること、機械学習で既存の分析と整合性のある結果が出力されたことは、各個人のエモ観が(個人の経験と結びついているかどうかは別にして)それなりに統一されていることを示していると考えます。だからこそ特定の単語があたかもアプリオリにエモいと考えられるではないかというのが私の主張です。
・「エモがる」?!?!
→エモがるって冷静におかしい?おかしいか……
最後に。舞風!次は絶対〇す!!!!!!!!!!!! (編集済)
舞風
今回の議論では「エモ」をいかに解体するかを中心に組み立てていきました。日々の壁打ちの成果が出たのか、終始優位に立って議論を進めることができたかと思います。
当然、「エモ」という言葉は一概に定義できるものではありません(僕は友人が言っていた「得も言われぬ」の略語だという説が好きでした。はがないネタだと知ったのはつい最近のことです。アニメで言ってなかったと思うんだよな)が、一般的な用法に従えばそこに美/醜の判断を見ないわけにはいきません。
結局のところ「エモい」が脱構築する「醜い」とは「背徳的」だとか、「退廃的」といったマイナスイメージを覆いかぶせることが免罪符となったように見えるだけの欺瞞に過ぎません。そもそも美しいものに傷をつけたところで「美しくない」わけではないでしょう。これは既存の規範に対する脱構築なのではなく、むしろそれに見せかけた、規範を隠蔽したと言ってもいいでしょう、規範の温存・再強化でしかないのです。
また「エモい」が流行り出した同時期のスラングとして「ぽきたw魔剤ンゴ⁉︎(以下略)」があると記憶しています。この文章に出てきた数多の略語は、時代と共に廃れ2022年の今では見る影もなく、ここにも何か示唆的なものがあるのかもしれません。
さて長々と書いてしまいましたが、他に「エモ」について一家言ある方は、ぜひ舞風までお願いします。俺とガチンコバトルや!ガハハ!冗談です。楽しく読んでいただけたなら幸いです。
ただ箱部ルリとかいう激浅エモオタクを取り逃がしたので、次回は確実に仕留めたいと思います。
ペシミ氏(おまけコメント)
大阪大学感傷マゾ研究会代表のペシミです。この度、箱部・舞風両氏からコメントを寄せて欲しいとのありがたいお誘いを頂いたため、僭越ながら本稿についての所感を記したいと思います。非常に緻密な分析が施された本稿を掲載させていただけてたいへん嬉しいです。
まず、「美しいものはエモい」について。エモいには価値転倒の作用がありながらも、美醜が温存されているという指摘は非常に鋭いです。つまり、「エモい」の持つ反転作用とは、「醜」を「美」に統合するのではなく「醜」に分類されるものを無理に「美」に持って行くことにすぎないのです。この点で、「エモい」は根本的に美醜の二項対立を克服できてはおらず、単なる視点の転換を促すにすぎないと言えるでしょう。
「距離があるものはエモい」について。ここでの距離とは物理的距離に限られていますが、物理的な「届かなさ」はそれ自体でエモいのではなく、心理的な「届かなさ」がエモいという前提の下、それの比喩としてエモいのではないのでしょうか。極論を言えば、新海作品は「届かない」ことを手を変え品を変え表現しているわけですね。『ほしのこえ』では違う惑星に引き裂かれているし、『天気の子』は 地上と空に分かれている。物理的距離は心理的な距離をある程度担保するからエモい。だから新海監督は、離れていても容易に繋がれるSNSをあまり登場させないのでしょう。日記アプリやノートに 書き残すなんて原始的なコミュニケーションよりよっぽど便利なのに。
「儚いものはエモい」について。おそらくこれは、日本人が脈々と受け継いできた感性なのでしょう。風の前の塵はエモい。最近では『エモい古語辞典』なるものが上梓されており、エモいと古語の関係はやはり留意すべきです。儚いものは、いつ壊れるか分からない危うさを孕むわけですから、要するに「距離が開く」可能性があるわけです。 心理的距離及び物理的距離はエモいと言いましたが、その過程で「喪失」の要素は必然的に挟まれます。儚いものは、距離の導線としてエモいのではないでしょうか。
ところで、指摘された「過去に遡れば遡るほどエモくない」は距離の話と矛盾するように感じられます。それは、過去に遡るにつれ「物語」が単なる「歴史」になってしまうからではないかと思います。「歴史」と広く言いましたが、ここでは自分から遠く離れた年代、くらいの意味で使っています。レトロブームでフィルムカメラやカセットテープが流行っています。それらがエモいと思えるのは、我々がギリギリそのアイテムを使っている風景が思い浮かぶからです。実体験でなくとも、映画や漫画にもそういったシーンはあるでしょう。 だからこそ、そのアイテムを目にするとイメージが付随し、そこに〈物語性〉を感じ取ってエモくなる。
一方、例えば縄文土器を見てエモいとは思わない。それを使っているシーンを想像できないからです。そうなると、アイテムは単なる遺物になる。
このことから「遡れば遡るほどエモくない」とは自身の想像力の範囲外に出ることを意味するのだと推察します。想像できなければ 〈物語性〉は感じられず、あまりに離れた時代の感性は理解できないのでしょう。けれど平安貴族の恋愛をエモいと思えるのは、現代の我々にも共通する感性があるからでしょう。瑛人の「香水」だって、 平安時代ならば立派な和歌になっていたはずです。
最後に、エモへの対抗手段について。お二人の提案される手法は素晴らしく、それを生んだのはある意味でエモの貢献と言えるでしょう。他方で、指摘の通り、エモには「不確かさ」が根底にあります。 日常で感じた自身の不明瞭で曖昧な感情を言語化することが必ずしも正しいと、僕は思いません。きっと、モヤモヤしたまま保存した方が良い場合も往々にしてあるでしょう。無理に言葉のフレームに入れようとすると、そこから零れてしまう部分が出てきます。けれど、分からない感情はそれだけで怖いものです。三秋縋は『感傷マゾvol.02」のインタビューにて、「エモい」のことを"好ましくないも のでコーティングされた好ましいもの"と言っていますが、歪な感情に「エモい」をコーティングすることで美的に捉えるその様は、 むしろ「好ましいものでコーティングされた好ましくないもの」と形容できるでしょう。そして、一旦好ましいものに置き換えた上で「エモい」のその先を探る。それこそが、エモを解体するための第一歩だと僕は感じました。
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