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『明日ちゃんのセーラー服』についてのあれこれ

はじめに

 『明日ちゃんのセーラー服』がものすごく良かったという話がしたい。話がしたいのだが、この作品の良さを文字にしようという試み自体がもはやナンセンスなのだと思う。『明日ちゃんのセーラー服』とはそういう作品だった。
 おそらく、見た人の間に生ずるコミュニケーションでしか『明日ちゃん』そのものは語れない。なぜならあの作品は彼女たちの日常を断片的に、記録映画のように、記したものに過ぎないからだ。もちろん各話の話、キャラクターの話、キャラクター同士の関係性の話はできる。「蛇森・戸鹿野ペアが良すぎる」とか、「龍守さんのデカ眼鏡になりたい」とか、「兎原さんのおでこに住みたい」とか。ただ、そういう話は文字であらわすのではなくて実際に話す方が双方向的であり、はるかにコミュニケーションの密度が高い。だから、文字にする必要性はそこまでない。
 そしてこのコミュニケーションは、『明日ちゃん』が断片的であるがゆえに各話の間に不可視かつ無限の空白が存在している、という事実によって担保される。我々は、二次創作のような形でその空白に、すでに掘り下げられている各キャラクター間のコミュニケーションをはめ込むことが我々の間で可能であるのだ。これが『明日ちゃん』の特徴であると僕は感じる。それはかつて言われていたような「属性」をデータベース的に消費、つまり「キャラ設定」だけを取り出して全く関係のない文脈に叩き込むことよりは、いくぶん「物語消費」に近いのではないだろうか。
 だからこそこの作品は面白いし、どこまでも僕たちハマってしまった人間を没入させてゆく。そして、キャラクターの掘り下げが行われる各話を見ない限り『明日ちゃん』という物語を消費することは不可能だ。何度も何度も見ることで、我々は『明日ちゃん』をより深く理解していく。というわけで『明日ちゃんのセーラー服』を人類は見てくれ。終わったらぼくとほしつみさんのスペースで話しましょう。本日の明日ちゃん活動、開始!

 それではなぜ僕がわざわざ『明日ちゃん』が良かったという話をしているのか。それは、『明日ちゃん』は脚本、キャラクター造形、蠟梅学園中等部1年3組の関係性の他にも語れる点を持ち合わせているからだ。具体的には作画の話(これはフェチだとかなんだとか言われてるが、それは少し的外れな指摘だと思う)だ。僕はこれをまなざしについての問題、延いては不在性、萌えについての問題へ引き付けて語ることができる点にも面白さを見出している。こればかりは、(自分の考えを整理するためにも)文章にしたためた方がいいだろう。
 思うに『明日ちゃんのセーラー服』は2022年にようやく現れた新たな、とはいえ10年代から存在していたが見向きもされていなかった、「萌え」の形なのだ。この文章では、それをわずかでも示せればいいなと思う。

外縁:「萌え」について

 まずは、少しだけ外縁を語ろう。10年代の「萌え」について、簡単な見解を示してみたい。僕の考える「萌え」は、恐らく『明日ちゃんのセーラー服』にも通底しているものなのだと思う。
 まず、「萌え」は従来なんだったか。自分の知りうる限りの例を挙げよう。斎藤環と東浩紀だ。斎藤環は「虚構」と我々が今存在してる「現実」をつなげるための「おたく」の倒錯的な性的な欲望であるとした。我々は性欲によって虚構空間と接続可能で、それゆえ現実味を感じることができる。この性的欲求が「萌え」であるというのだ。
 対して東浩紀は、キャラクターいわゆる「属性」をデータベースに収斂して、そこからいくつかを出力することで動物的な消費を行うことだとした。「ツインテール」「金髪」「八重歯」から『ツンデレ』、「おさげ」「緑髪」「メガネ」から『委員長』を大量生産方式によって導き出されるキャラクター類型を消費する行為が「萌え」だ、ということだろう。
(なお、以上の二つは僕の理解なので違う可能性は十二分にある。というかどこかしら間違っている。了承されたし)
 しかしながら、当初の「萌え」と10年代における「萌え」はかなりのズレが生じていると僕は常々感じている。2010年代における「萌え」の代表作がきらら作品を中心とした「日常系(=主人公が我々と同一化されにくい)」であったことからもわかるように、テン年代における「萌え」は、虚構への性的欲求の喚起、ヒロインの所有というよりは、むしろそれを極限まで排除した概念であったように僕は感じるのだ。それが例え宇野常寛氏によって「誤配のない箱庭で展開されるレイプ・ファンタジー」であると批判されたとしても、である(具体的な反駁は今のところできないが)。
 そして所謂「日常系」作品には、我々が知覚できる範囲の外に、そしてそれでも作品の内に、空白が存在している。そして我々はキャラクターでも物語でもない、その中間点にある、物語間の奇妙な空白にすでに作られたキャラクターをはめ込むことで消費し、二次創作を行うことが恐らく10年代では多かった。だから我々は必ずしもキャラクターの属性を動物的に消費しているわけではなかっただろう。
 よって、ゼロ年代で言われてきたような「萌え」と10年代で名指されている「萌え」には大きな違いがある、と僕は思う。というよりむしろ、ゼロ年代に「萌え」と言われてきた行為の数々は「推し」という言葉へ変貌を遂げ、さらなる動物化を推進している(今や性的欲求のみでなく、金銭によっても接続しうるし、「物語」のないコンテンツでは、当然キャラクター消費が加速している)ようにも思える。
 それでは、「萌え」はどこかへ消えたのか?そんなことはないだろう。「推し」が多用されるようになったとはいえ、少なくとも僕の中では、ゼロ年代とは形を変えて「萌え」という言葉は今もなお生き続けている。だから、まず我々は「萌え」についての再解釈を行わなければならない。

 今のところの考えでは、「萌え」とは不在の対象に対する何かしらの感情であると言える。ただし悪感情であるかは今のところ考慮しない。ヒロインや作品に対する嫉妬、憤怒、憎悪が「萌え」と定義できるとはあまり思えないが、明確にできないとする論理を現状提示できない。
 やはり、僕にはどうしても我々が本気でフィクショナル・キャラクターを所有できたと信じているとは思えないのである。むしろ、所有の不可能性に目を向けるべきなのではないか。
 我々はしばしば、アニメによって手の届かない虚構を鑑賞する。我々の世界とは地続きではない場所で、我々とは異なる位相のキャラクターが生きている姿を見せつけられるのである。
 もちろん、我々が空間自体の所有、つまり「誤配のない箱庭」を所有しているという批判は考えられる。しかしながらそれですら所有にはなり得ないのではないか。これは、なぜ「聖地巡礼」が流行しているかにもつながるかもしれない。聖地巡礼は実在を実感し、所有欲を満たすために行われている行為か?それは恐らく違う。本当に所有欲を満たしたいのなら、「誤配のない箱庭」を体現したいのなら、聖地巡礼には行かないはずだからだ。現実の土地と虚構の土地を同一視するならば、我々が聖地に巡礼した瞬間、それは誤配そのものになる。だからこそ、聖地巡礼は誤配すら許されないことの証明であり、「不在」、または所有の不可能性を実感する行為の延長線であると僕には思えるのだ。
 ひとまず「萌え」についてはこれで一旦置こう。これ以上精密な議論は現状できない。以降、僕が断りなく「萌え」という単語を使用する際の意味は10年代的な、「虚構のキャラクター、作品空間に対して"その不在性を十分に認識した上で"抱かれる種々の感情」であることが了承されれば問題はない。
(追記)
ちなみにたった今知ったが、「萌えアニメ」がWikipediaに登録されているので引用してみたい。

萌えアニメ(もえアニメ)は、アニメのジャンルの一つであり、ストーリーよりもキャラクターを重視し、個性の異なる複数のキャラクターたちの魅力で作品を牽引し、視聴者の萌えを刺激するようなアニメを指す。
かわいらしい女性キャラクターが登場するなど、「萌え」を刺激されるアニメ全般を指す。ただし、「萌え」という語の定義は千差万別であり、この用語の意味するところは使用者の主観に依拠している。よって、この用語の定義は極めて曖昧である。
Wikipedia「萌えアニメ」より

 なお「萌えアニメ」の具体例として、『ご注文はうさぎですか?』『きんいろモザイク』が挙げられている。まごうことなき「きらら系」の作品である。

『明日ちゃんのセーラー服』について

1.『明日ちゃんのセーラー服』と「萌え」について

 与太話はこの辺にして、『明日ちゃんのセーラー服』の話へと戻ろう。なぜ、僕が『明日ちゃんのセーラー服』を称揚するのか。それは、この作品が10年代の萌えに従って描かれた、しかしながら20年代の問題意識に沿ってもいる、”アップグレードされた、10年代の正統な後継者”であると思っているからだ。
 それが如実に表れている点こそが、『明日ちゃんのセーラー服』について最も言及されている作画である。
 『明日ちゃん』の作画は大変興味深い。大別するにこの作品の画は3種類、①比較的普通の作画、②比較的緻密な作画、③かなり緻密な、まるで絵画のような(そして少し不気味ですらあると言われる)、作画の3種類に分類できる(当然これらは完全に分断できるものではなく、どちらとも言えるシーンも多々存在する)。いくつか例を挙げよう。

①比較的普通の作画(7話)
②比較的緻密な作画(8話)
③かなり緻密な作画(2話)

以上、TVアニメ「明日ちゃんのセーラー服」【公式】(@AKEBI_chan )より

 本作では①→②→①→……と繰り返されていく中で、時折③が織り込まれながら進んでゆく。
 しばしば話題に上がるのは②についてだ。①では通常のアニメ、具体的にはデフォルメされたキャラクターや漫符などを用いる、と同様の表現がなされる。対して本作品ではフェチを感じさせるシーンの際、②を用いる場合が多い。例えば着替えのシーン(3話、6話)がわかりやすいだろう。これらのシーンでは過度に性的であると指摘されても言い逃れのできないカットが(それも緻密な作画で!)現れる。もちろん②のすべてではなく、一部分においてである。
 この批判は至極正しいものである。(少なくとも自分の周辺で『明日ちゃんのセーラー服』に入れ込んでいる人間の中でそのような性的な観点で見ている人物はいない(であろう)とはいえ)②におけるまなざしは確実にフェチを喚起させることを意図していることがあり、もはや言い逃れの余地はない(少なくとも現時点での僕は反論できない)。

 しかしながら、②におけるフェチ的なまなざしは、ある種の必要悪であると僕には思われる。というのも、②のまなざしは③のまなざしとの差異によって我々に虚構との徹底的な断絶性を突き付けるからである。換言すれば、③のまなざしの世界は、②のまなざしによって普段は隠匿されており、ほんの数瞬だけ我々の前に顕現する。
 当然、それは性的視点を肯定するものでは決してない。鑑賞者にはある種の”道徳的”視聴態度が求められる。ただ、繰り返すようだが肝要であるのは②のまなざしのフェチ性ではなくて、それと③の差異なのである。
 虚構、この場合はアニメ、に対するまなざしは我々には規定不可能である。我々はただ、画面の前に座って受動的にまなざしをインストールすることで、虚構と部分的に触れ合うことができる。
 だからこそ、②におけるまなざしと③におけるまなざしが明確に違うことは注視されなければならない。そして、③のシーンについては間違いなくさらなる分析が必要である。我々は誰の視点で作品を見ているのか。それをまずは考えていこう。①、②の多くは、多くの作品・シーンで用いられる、意図的に与えられた第三者視点である。そして③の重要性は、誰の視点であるかに大きくかかわっている。そのため、まずは以下に③が用いられている箇所、そして誰の誰に対するまなざしてあるかをいくつかを示していく。(見ている存在→見られている存在)

A.1話(11:31ごろ)花緒(またはユワ)→小路
B.1話(18:34ごろ)小路→木崎さん
C.5話(4:04ごろ)小路→大熊さん
D.6話(6:21ごろ)小路→木崎さん
E.6話(14:04ごろ)小路(カメラ)→木崎さん
F.7話(21:04ごろ)小路→生静

以上、TVアニメ「明日ちゃんのセーラー服」【公式】(@AKEBI_chan )より

 当然そうでない場面(俯瞰の視点であったり)もいくつか存在するが、『明日ちゃん』内において③の水準の作画が挿入される際、基本的には「作中の登場人物のまなざし」を通したものであることが伺えるだろう。ここから、③というのはまさにキャラクターがその瞬間に見ているような、「生き生きした現在」的なものを切り取り、引き延ばしたものであると考えることは、さほど困難なことではないはずだ。それはEにおいて直後に差し込まれる、ほぼ同カットの動画撮影シーンで③の作画が使われていないことからも顕著である(Bでは爪を切る動作が③の作画で描かれるが、これは小路が直接まなざしているのであり、「生き生きした現在」と考えて差し支えないだろう)。
 この観点から、③の作画の魅力というものは僕の中でさらに引き上げられることになる。キャラクターの「生き生きした現在」に触れる、ということは「キャラクターが見ている世界」へのまなざしをインストールすることなのである。我々はあの画を通して初めて、本当に彼女たちが見ている世界を知覚することができるのだ。
 ではなぜ、常にその水準へと到達できないのか。そして②の作画が③を隠匿するのか。(当然作画にかかる労力等も存在するわけだが、今回はそのたぐいの推測は脇に置こう)それこそが2010年代の「萌え」を受け継いでると僕が思う所以、虚構の世界と我々の存在する世界の徹底的な隔たりを意識させるためにあるからである。
 残念ながら、我々のいるこの世界と『明日ちゃん』が展開される世界は接続し得ない。それは「蠟梅学園」の所在が明確に示されない(無論蠟梅学園のモデルとなった学校は函館に存在するが、小路の服装で春先の北海道を闊歩するのは恐らく無理があるだろう)ことからも明確に読み取れる。そしてさらに、この断絶性はまなざしの違いによって一層鮮明になるのである。
 当然、明日ちゃんの周辺世界はフェチ的な視線で彼女を見ないだろう。しかし我々はそのような視点(=②)を(半ば無理やり)インストールされることを要請されており、そこからの一瞬の逸脱、見てきた通りキャラクターの視点をインストールすることによって可能になる、があるゆえに、『明日ちゃん』の世界におけるまなざしへの超越を赦される。そして再び②の視点へと回帰することで改めて、虚構からの疎外を認識するのである。

(4/11追記) この作画に関して、より詳細な分析をはいり氏が行っている。本文章とある程度相補的内容となっているため、こちらも併せて読んでいただければ、さらに解像度の高い理解が得られるだろう。

(4/30追記) ペシミ氏が作画について西洋美術史的視座から分析をしていただいた。また自分が軽くしか触れなかった「萌え」についてさらに踏み込んだ議論をおこなっているこちらも併せて読まれたし。

 そうであれば、①のまなざしについても、もう少し踏み込んだことがいえるだろう。②ではフェチ的な疎外を受けた我々が①において受けるのもまた、疎外なのである。現れるキャラクターのデフォルメや漫符の使用は、現実の我々と③のまなざしを隔てるフィルターとして機能していると考えることができると僕には感じられる。
 だからこそ、最終話における「おはよう!」も、いや、あれこそが、『明日ちゃん』が「萌え」であるとする決定的な一打として機能している。

「おはよう!」
(12話)

TVアニメ「明日ちゃんのセーラー服」【公式】(@AKEBI_chan )より

 この「おはよう!」では、③の作画を用いない。当然である。蠟梅学園中等部1年3組の誰かに向けてのものであり、我々がそこから徹底的な疎外されているのだから。それで良いのだ。この不在が、狂おしいほどの「萌え」を生んでいる。我々は小路に「おはよう!」と言われた錯覚の傍らで、虚構の側から突き放される。
 恐らくこれで、『明日ちゃんのセーラー服』が僕の言う10年代の「萌え」を体現していることは多少理解してもらえたと思いたい。フィルターによって隔てられた『明日ちゃん』の世界を、ほんの少しそのフィルターを破ってまなざすことで、改めて不在性を確認することができる。そしてそこには③の作画が相当に緻密で、"妙に"リアルであり、かつ現実味がないことが深く関連しているのだ。

2.『明日ちゃんのセーラー服』のリアリティについて

 それゆえ(閑話休題として)、ここで「虚構」のリアリティについても少し考えなくてはならないだろう。
 「虚構」におけるリアリティとは何か。虚構がもっとも虚構らしい(ただし我々に通底する何かが存在する)瞬間はどこの地点か。現実のような背景か?3Dモデリングを用いた立体的な顔面か?現実に対応する等身や顔の描き方か?モーションキャプチャーによるなめらかなキャラクターの動きか?恐らくはそのどれかかもしれないし、どれでもないかもしれない。
 様々な在り方があるだろうが、『明日ちゃん』においては、それはおそらくどこまでも虚構なのにどこか現実味のある、絵画のようなものなのである。我々は③の作画のどこかしらに、我々と同じ何かを感じずにはいられないのだ。
 これは、しばしば③の作画が不気味であると言われることからもわかる。我々は中途半端に「リアルさ(=親近感)」を感じており、なおかつどこまでも非現実さ(=違和感)を突き付けられるからこそ、不気味なのである。
 重視するべきは、そのリアルさを担保しているものが、決して斎藤環的な「萌え(=性的欲求)」でないことだ。仮にそうであるのならば、③は描かれる必要がない。②の作画がすでに虚構のリアリティを担保する。だからこそ、旧来の「萌え」はここで改めて否定されるのだ。
(しかしながら、斎藤環的「萌え」ではないならば何か、と突っ込まれてしまうと今の自分には残念ながら答えることができない。今後に期待)
 ひとまず言えることは不気味に感じてしまうからこそ、我々は『明日ちゃん』の世界との断絶、どこか現実味のある「虚構」との明確な差異、そして明日小路の不在をまざまざと突き付けられること。そしてこの不気味さがあってはじめて、③の作画は我々を突き放すのだ。だから、そこに「萌え」が生まれる余地ができる。
 だがここで、さらなる疑問が生ずるのである。そもそも、そうまでしないと「萌え」が発生する余地は存在しないのか?という点である。これこそが10年代と20年代の最大の違いであることを確認していきたい。

3.『明日ちゃんのセーラー服』と20年代について

 それでは最後に『明日ちゃん』のどこがアップグレードされているのかについて考えていこう。10年代の「萌え」と異なっている部分はどこか。
 それは前節で述べたように、虚構の不在性を認識する手段である。フィルターを通したまなざしを視聴者に与えることで、「虚構(我々が”見させられているもの”)」とそのフィルターを外した「虚構(虚構本来の姿)」を明確に区別することを、『明日ちゃん』は可能にしているのだ。簡単に示せば、
「現実(画面の前)-虚構(キャラクターの視点)」
 という構造のズレを生じさせることで、新たに虚構の不在性を創出している。

 しかし、この虚構内部における2種類のまなざしの区別はなぜされる必要があるのか?そして、現実(画面の前)とはどういうことか?これは10年代(それも、特にその前半)と20年代の間にある隔たりとは何か、という問いに発展しうる。10年代に我々は、虚構のリアリティなど認識する必要もなく現実との隔たりを実感できていたはずなのである。
 これらの問いには、恐らく明確な原因が存在していると僕は思う。つまりはSNSの浸透だ。10年代が進むにつれて浸透していったSNS文化が、画面の前に現実があることを生み出し、その影響で虚構と現実の区別をあいまいにしていったのではないか、という仮説が立つ。
 10年代の進行につれて、世界は大きく様変わりしていった。SNSが一層浸透し、画面の前に流れるタイムラインでは異国の情勢、遠方の友人の近況といった自分から遠いものと学校の友人の噂、近所の事故といった自分に近いもの、そして虚構の美少女のイラストが等しく流れている。虚構と現実の混同とまで言えば言い過ぎであるように思うが、どこかしらで接続しているものと考えているのは間違いないだろう。それは当然、「青春ヘラ」が大きな効力をもって受け入れられていることからも読み取れる。青春ヘラが標榜する「絵に描いたような青春」は、皮肉にも文字通りの意味なのである。本来ならば断絶していて、羨ましがる意味/必要すらなかったものが、その断絶が曖昧になっているがゆえに改めて羨ましがられているのが、「青春ヘラ」の様相であると言える(これは「青春ヘラ」がカロリーメイトのアニメーションCMや、新海誠作品を例にとっていることからも顕著だと思う)。
 こうした状況と10年代の「萌え」は真っ向から対立することは、もはや語るまでもないだろう。断絶を信じる「萌え」は接続を信じる「青春ヘラ」と根本的に相容れない概念なのだと僕は思う(余談だが、僕が『明日ちゃんのセーラー服』、感傷マゾ研の会長が『その着せ替え人形は恋をする』をそれぞれ称揚するのはとても示唆的で面白いと思う)。

 10年代前半以前の「現実(いま、ここ)」と「虚構(画面の向こう)」から、10年代後半から続く「現実(画面の向こう)」と「虚構(画面の向こう)」を経由して、『明日ちゃん』が提示した「現実(画面の向こう)」から「虚構(フィルターの向こう)」へ。この流れは自分のなかでは非常に納得のいくものであり、ある種閉塞的な現状から、考え得る数少ない「正解」まで僕を導いてくれたとすら感じている。
 だからこそ、『明日ちゃんのセーラー服』は2010年代の正統後継者であり、他方で20年代、僕の推測では10年代後半ごろには萌芽していた、新たな文化に抵抗する「萌え」からの要請によって、20年代に新たに生まれた、全き新しい、10年代の可能性なのであると僕は思う。そしてこの流れは『明日ちゃん』一作にとどめてしまうにはあまりにも惜しい。今、目の前に10年代へ再び至る第一の道筋が開けたのである。ならば僕は、もう一度手を伸ばしたいと思うのだ。

おわりに

 さて、ぼくのよくわからない話はこれくらいにして。あとは実際に『明日ちゃんのセーラー服』を実際に見ていただきたい。親愛なる同年代オタク諸君なら、あの圧倒的な「萌え」を前にすれば、何かを語らずにはいられまい。そうしたらスペースを開いて、たった一言、「明日ちゃんの話、しましょうか」と呟けばいいのだ。多分そこにはぼくなりほしつみさんが登場して、明日ちゃんの話をして終わる。それでいいのか?それでいいのだ。不在を認識して連帯するところから生まれるコミュニケーションこそが10年代の可能性であったと思う。

(4/30追記) なお明日ちゃん活動×低志会のスペースが先日開催され、公開されているので聞いていただけると面白い発見があるかもしれない。(ただしかなり長いので作業BGMと考えていただければ幸いである)

 だからひとまずは、今後『明日ちゃんのセーラー服』のさらなる進展(2期来い!)や、それに準ずるようなアップグレードされた10年代作品、そして「萌え」の復権に期待して、今回はここで筆を置きたい。

それでは、「また明日!」

思い出はきっと 今が1番 輝いてるから
大切にそっと 抱き締めて 眠りにつく
(Baton)

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