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三輪椙山神社
「杉」か「椙」か?一体、何がルーツなのか?
西谷戸横穴墓群からスタート。
丘陵のヘリに沿って進むと、いかにも旧道らしい三叉路が現れます。それを左に曲がってすぐの場所に、奥まった感じで鎮座しているのが三輪椙山神社です。
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三輪の由来
町田市東部の突端部。鶴見川に接したこの地域は「三輪」と呼びます。
「三輪」自体は珍しい地名ではありませんが、どのような由来があるのでしょう。
・大和三輪説
一説に、奈良県の三輪山が由来と言われています。
三輪町の南西には奈良町(横浜市青葉区)があるので、奈良とのつながりがあるのでしょうか?
「町田の地名のいわれ」(町田図書館刊)には、次のように記されています。
古代の祭祀遺物が発見された地域が椙山神社に接しており、椙山神社の笠をかぶせたような山の形が、大和(奈良県)の三輪山に似ているという説もあります。
前々回の記事「沢山城址」で紹介しましたが、三輪には、平安時代に大和から氏族が移り住んだと伝えられています。
そもそもこの三輪の地は、清和天皇の御代(877)、大和国三輪の里の神の社使、荻野・矢沢・斉藤氏等がこの地に移住したと伝承される所で、敬神崇祖の念は篤く…(後略)
これらを勘案すると、古代の奈良(大和)に縁があったと言う説には、それなりの信ぴょう性がありそうです。
*その他に、奈良には「平(ナラ)す=なだらかな斜面」という地形由来説もあります。
・「三つの野」「鶴見川」由来?
一方で、別の見方もあるようです。
原野が開墾された頃、東南部を「台野」、西北部を「御裔野 (みすえの)」、北部を「藤桑生野」と呼び、 総称して「三野輪」と呼ばれていたようです。天正年間(1573~1592)に三輪村になり、大和の三輪明神を勧請したと伝えられますが、確かではありません。一方、「水に囲まれたところ」という「みのわ」の意味からすれば、鶴見川の氾濫原に由来する地名かもしれません。
「3つの野=三野輪」「水に囲まれた所=みのわ」という2説。
原野が開墾された時期とはいつ頃のことだろう?古代まで遡るのだろうか。16世紀後半、三輪村と称するようになってから三輪明神を勧請したならば、大和三輪説とは時系列が大幅に違うなぁ。
うーん…まずはお参りしてみよう!
椙山神社
一の鳥居
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![画像2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/65133770/picture_pc_dfd91d4d8701c5e974867e0f23921eed.jpeg?width=1200)
その先には、まるで二の鳥居のように木が立ち並んでいます。
狛犬
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/65134380/picture_pc_e2b6d65b4ea2164f6bba98d91ed3ff19.jpeg?width=1200)
二の鳥居
![画像6](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/65134418/picture_pc_0594a8997eb1ae87fdc412cd1b3b80d2.jpeg?width=1200)
![画像7](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/65134452/picture_pc_17f581d4e0e162dca49d418b7d6fc379.jpeg?width=1200)
小さな二の鳥居は、視覚効果を狙った仕掛けのように見えます。
境内
![画像8](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/65134489/picture_pc_6705a01aff60fcaace184ad2509ff771.jpeg?width=1200)
最後の階段を上ると境内です。
画角には入っていませんが、境内は横に広くなっています。
社殿
![画像9](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/65134502/picture_pc_f9752dd1b7ef6df2057f3c61e61b0efb.jpeg?width=1200)
3時前でしたが、太陽が山影に入ると、自動で蛍光灯がつくようです。
![画像10](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/65134586/picture_pc_a64e0d0ba73ea5ebaaa82dcdae70ca16.jpeg?width=1200)
本殿の背後はすぐ山の斜面。山自体が御神体とのことなので、このような位置関係なのかも知れません。
境内社
社殿の右側にかわいらしいお稲荷様が。
![画像12](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/65134630/picture_pc_5328118476f01067d1e388be48e5128b.jpeg?width=1200)
御神体は杉山?
写真では分かりにくいですが、なだらかで広い山裾です。
![画像13](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/65134658/picture_pc_8fdbd8ab8a8f8e6408ec6d154bb8bb9a.jpeg?width=1200)
![画像14](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/65134739/picture_pc_919df36d6e62554d2aab41ac767c3438.jpeg?width=1200)
神が宿る領域や自然物(山、盤座、木、森、滝など)をご神体とする信仰を神奈備(かむなび)信仰といいます。
地域の伝承によると、この美しい笠形の山が大和の三輪山に似ていたことから、ご神体として崇められたと伝えられています。
地理院地図傾斜量図で、ご本家の三輪山の断面図を見てみました。
![](https://assets.st-note.com/img/1672731431387-x7W1vfk59l.png?width=1200)
同様に、椙山神社の山も測ってみました。
![](https://assets.st-note.com/img/1673085845139-INYwfdq4HP.jpg?width=1200)
確かに似ているかも(約1/12モデル)
![](https://assets.st-note.com/img/1671273867824-6dm0ovTfhl.jpg?width=1200)
参道側はなだらかで、ちょうど境内のあたりが平坦になっています。
今昔マップで古地図と古い航空写真を見てみます。
![](https://assets.st-note.com/img/1671273867885-xjmufQ0oXU.jpg?width=1200)
明治後期の地図では舌状台地の先端部のような地形に見えますが、昭和初期の写真では西側がやせ尾根になっているようです。
由緒
ご祭神は日本武尊と大物主命。大物主命は大国主命の魂とされ、同一神と見られています。
そして、ここでも大神神社のある三輪山との関連性が記されています。
![画像16](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/65134916/picture_pc_d20c7d48230bffde4e41be4c9f9866dc.jpeg?width=1200)
当社は「古事記」「日本書紀」にも記されている有名な大和国の三輪の里(現奈良県磯城郡大三輪町)に鎮座する大神三輪神社の御神体である秀麗な三輪山に、この附近の山容がよく似ているところから元慶元年(八七七年)当地に勧請されたとの伝承がある。
御神体は不動明王が抽出されている御鏡であって裏面に下三輪総鎮守寛文四年(一六六四)大吉と刻まれている。
特に社号「椙山」はめずらしく武相地区に七十二の「杉山社」があるが、当社の椙(國字)は唯一のものである。=後略=
元慶元年(八七七〉のころ、大和国城上郡三輪里大物主神社(奈良県磯城郡大三輪町)の孤峰峻抜鬱蒼たる三輪神山によくにているところからニモモ(三諸山)のこの地に勧請したとの伝承がある。
=中略=
永和年間(一三七五~八)または永享五年(一四三三、五四〇年ほど前)に著したと伝えられる『安居院神道集』には「武蔵六所宮(府中市大国魂神社)の六宮は椙山明神と申す、本地仏は大聖不動明王是也」とあり古い社である。
椙山神社と杉山神社は何が違うのか?
杉山神社は鶴見川水系に多く存在する神社で、延喜式に「都筑郡唯一の式内社」と記載されている神社です。
平安時代の貞観11年(869年)に編纂された『続日本後紀』では「枌山神社」と記述される古社で、同書では当社が承和5年 (838年)2月に官幣を賜り、また承和15年(848年)5月には従五位下を授かった旨が記されている。さらに延長5年(927年)に編纂された『延喜式神名帳』では「武蔵国都筑郡唯一の式内社」との記載もされている。しかしその本社は比定されておらず、未だ多くの論社が存在する。
ただし、どの杉山神社が総本社(式内社)なのかは不明で、現在も茅ケ崎、大棚中川、新吉田、西八朔などの数社が有力候補(論社)として名乗りを挙げています。
椙山神社は名前の一字は異なるけど、杉山神社グループの一角を成しています。他の杉山社との違いは、次の2点。
① 五十猛命が御祭神ではない(他にも五十猛命が祭神でない社がある)
② 大神信仰がルーツであることが明確
鶴見川中流域にも大物主命を祀った北新羽杉山神社がありますが、こちらは三輪神道の一派が勧請したもので、中世の建立となっています。
椙山神社は式内社の可能性があるのか?
椙山神社が延喜式内社という説もありますが、創建の経緯からしても有力な説とは言えません。
それでも…
大神神社についてネット情報を漁っていたところ、とある文献を発見。
三輪山伝説と大神氏 松前健(天理大学レポジトリ)
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/2958/YMN001901.pdf
ざっと目を通してみると…
大和の大神氏と出雲族、渡来系、忌部氏(!)との関係、タタラ製鉄、竜蛇神信仰と治水、杉山の信仰など…出てくる出てくる。「杉山神社の謎」に関わるキーワードが、大神氏の周辺から溢れ出している!
私が想像するに…
いにしえからこの地域は、山からも海からも色々な一族が流れ着いて、ぶつかり合って融合し混沌とした所。そこに新しい技術を持った一族がやって来ては、代わる代わる地域を治めていった可能性がある。
丘陵の隙間を曲がりくねる鶴見川には両岸から大小の支流が流れ込む。氾濫が多く平地が少ないこの土地で、人々は効率よく生活の糧を得る技術(麻の栽培や馬の飼育、杉の植林、治水など)を有した一族に従い、その氏神を崇めることで生き延びてきたのだろう。
877年に大和三輪から神使一族が移住する以前に、既にある勢力が鶴見川上流に入植し、椙山神社の原型が出来ていたとしたら…。
忌部三神、五十猛命、大物主命、天照大神や日本武尊とか感覚なく、素直に「杉山を祀る=杉山神社」の起源と考えれば、椙山神社式内社説もあながち無理筋ではないような気がしてきた。
調べれば調べるほど、様々な要因が絡み合って複雑になる杉山神社。
一つひとつの社を式内社か否かと議論するより、俯瞰的に杉山神社の捉えた方が、その全容を理解できるような気がしてきた…けど、とても上手くまとめられそうもない。(触らぬ神に祟りなし)
椙山神社北遺跡
先にご紹介したように、神社の北に位置する三輪小学校からは、弥生時代の遺跡が発見されています。
この地域は、やはり古代から人が住まう場所だったんですね。
オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。