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馴染みの花屋

この歳になって、馴染みの店ができた。

花屋である。

いや、こちらが一方的に馴染みと思っているだけで、向こうからすればただの客である。

その花屋のことは、前々から気になっていた。

アーケード商店街を通り抜けた先にある、間口2間ほどのとても小さい店。いつも店の反対側の路肩に配達用のカーゴが並んでいる。きっとお寺や学校、式場が主な得意先なのだろう。それでも、小さな店内には色とりどりの花々が整然と並んでいて、小売もしているようだ。

昨年末、買い物帰りに思い立って、正月用の花をその店で買った。店先に並んでいた花束に心を掴まれたのだ。

スッとした立ち姿の松と愛らしい赤い実の千両、艶やかな白と黄色の大ぶりの菊とふっくらとした小菊。正月定番の組み合わせだが、そのバランスが絶妙に良かったのだ。

値段は年末ご祝儀相場だったけど、きっと駅前の花屋なら1.5倍の値がしただろうし、スーパーの花屋なら花が7割ほどの量に減っていたことだろう。

茎が長かったので短く切ってもらった。手際の良く作業する合間に、ご主人が手入れの方法を教えてくれた。

松と千両は玄関に、菊は仏壇に供えた。

驚いたことに、菊の花は3週間も綺麗に咲き続けた。良質な花だったんだろう。途中、茎を切り上げていったので、だんだんこじんまりと愛らしい形になった。松と千両は1ヶ月以上経っても枯れることはなかった。


これまで生花を生けて手入れをするのは、とても面倒なことだと思っていた。だから、代わりに季節ごとの造花を買い揃え、春は菜の花、夏は百合、秋はバラ、冬はポインセチアとローテーションで飾っていた。しかし、いくら花の形をしていても、造花はモノだ。模様替えした一瞬だけは色を発するかも知れないが、1日もすると周囲と同化して主張もしなくなる。

生花は生き物だ。雑然とした家の中でも、周囲とは際立った輪郭を有している。陽の光を受けて輝く花には、はっきりとした生命力を感じる。


1ヶ月ぶりの今日、再びあの花屋に立ち寄った。2月になったから、新しい花を買おう。

店の入り口近くには、既にセッティングされた花が2束、紙に巻かれていた。十分なボリュームの花束が750円、十二分な花束が1000円だ。

きっと、夕方に来る常連さんのために用意してあるのだろう。花の色も種類も様々。そのままでは売れなくなった花や在庫の多い花を混ぜ合わせ、お徳用にしてあること間違いない。

我が家には十二分過ぎる1000円の花を買った。250円増しで2倍の幸福感。

ご主人に年末買った花が1ヶ月もったと話したら、にっこりと笑ってくれた。茎を切って欲しいとお願いしたら、「長持ちさせたいなら、最初は不恰好でも長めの方が良いと思います。だんだんと形を整えていくと、長く楽しめますよ」と、やや控えめに切り揃えてくれた。

花がある生活は幸せだ。

そう言えば、宮本浩次も歌っていたっけ、
花を飾ってくれよ、いつもの部屋に…と

馴染みの花屋ができたから、これからは毎月、花を買って飾ろう。


昨年末からの松葉と千両は、短く切って炬燵の上に


宮本浩次が「花を飾ってくれよ」歌っている『悲しみの果て


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