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殉死

 昔とある彼氏と付き合ってたときに、「僕は罰ちゃんのこと愛してるっていうよりも好きの方なんだと思う。所有して自分のものにしたいから」って言われたことがあるの。
 古代ギリシアにおいては、一番神的な愛はエロスとされていた。なぜなら、女性の生殖は神秘であり驚異的なものであるから。きっと、これは彼の濁った情熱からくる、愛の対象への畏怖からくる愛なんだと思う。これは類的な人と人との交換という儀式として、人類史的に普遍的に見られる世界観でもある。だから、そこには肉体的な交渉と相互交換が前提とされていて、それは恋愛や結婚と呼ばれた。

恩寵の愛

 愛の種類にはもうひとつある。それは、無償の愛…アガペーである。これは、人間に対して無条件に一方的に与えられる愛で、キリスト教の新約聖書においては、神様からの無償の愛とされている。どうしてそのような愛が必要とされたかといえば、人間は神様に御造られた存在であるから、そこに人間の意思や欲望は存在しないからである。しかし、そんな無償の愛を受けて造られた存在である人間には、原罪という大きな矛盾を抱えている。つまり、神様に愛されてみなが生まれてきた人たちの世界なのに、世界には悲しみや裏切りが存在するのである。その理由は、人間は罪を犯す存在であり、罪を背負って地上へと降り立ったものだから。そして、そのような存在をもう一度救う愛として、キリストは神様の子として受肉をし地上へと降り立ったのだという。しかし、その過程にはアガペーの残酷な面が現れている。それは、人間の罪を背負って無償の愛で解決してくれる存在を、ただ希求するだけの存在が神様の前に取り残されてしまうということだ。人間は罪深い存在であるから、キリストが受難を経て磔にされることで、罪は無償の愛によって赦された。しかし、罪深き人間は、それでもなお罪や裏切りを犯し続けてしまう。そこに、無償の愛を与える存在はこうやって囁くの。キリストは、もう一度復活する。また、罪を背負って恩寵を与える存在として。
 ここには、一つの構図が出来上がる。罪を犯し続け、ただ赦しを乞うために、無償の愛の復活を希求する存在と、復活という囁きによって、不在でありながらも罪を犯す人間に、愛を今にも与えようとする恩寵の存在。

不在の愛に祈る


 世の中には、それがありふれた事象であるようにエロス的な恋愛や結婚が存在する。しかし、それが肉体的であればあるほど、人間的となる。人間的になるということは、その関係には人間が背負う原罪が介在するということだ。そこで類的な人間である存在は、原罪を無償の愛によって赦してもらうことのできる存在を希求することになる。しかし、その無償の愛は本来不在として存在している。    だから、人間は、類的な同じ人間であるはずの存在に、エロス的な神的な愛とは別に、恩寵の愛としての神的な存在であるように振る舞わせようと投影をする。それは、一番の恋人であったり、結婚相手であったり、あるいは自分の子どもであったり。しかし、それは不在の存在に対して、投影によって主観的に見出した欲望であって、投影先の正体はエロス的な愛や家族愛といった恩寵の愛とは別の愛で結びついた類的な人間であるのだ。この愛の倒錯と錯視は、ふたりの関係に大きな矛盾を生み出すことになる。それは、人間が背負う原罪を知覚させるかのように。
 私は、ただ不在の愛を今まで他者に投影し続けることで、自分の拠り所と赦しを得ようと思っていた。しかし、それは錯視であって、それは赦しではなく許しであった。私はただ、不在の愛に対して祈るばかりのことで精一杯になってしまった。錯視を正当化する自己欺瞞的な自意識も、錯視の対象さえをも幻想の中に包み込むことが怖くなってしまった。私はただ、不在の愛、ただそれだけは信じてそれに殉死しようかなって思っている。私はもうすぐ死んじゃうんだと思う。




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