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バクーニンにおける神学および、そこから導かれる革命の存在論的なあり方

バクーニンの神に対する解釈


 バクーニンにおいては神とは、存在の全てであるため、神(客体)をもたないの。これは、つまり即自的な意味で虚無の存在であるということ。
 これは、ヘーゲルの小論理学における有論の最初の導出や、同じ啓示宗教であるユダヤ教における神に対する見方(ユダヤ教においては、神はYHWHという記号があたえられるけど、厳密にはこれを発音することがなくて、YHWHというような形式をとるよ。つまり、それ自身では表現が不可能なものとしてかんがえられているんだね)と同様だよ。ヘーゲルの場合だと、まず最初に見出すことができる存在とは無であるというの。これは、無規定の存在であり、そのもの自身で存在として成立するけど、しかし代理するもの(物理的、情報的な量化されたもの)が存在しないから、それを表現するために"無"が"有る"という形態を取ることとなるよ。これが、一番最初の存在の形態であり、存在に課される最初の規定であるわけであるけど、これを逆手に考えると、それ自身が全てであるものには、それと相反するものを内包することでしか、認識ができないから、それは空虚(矛盾)であると考えられるの。そしてこれが、バクーニンにおける神学で重要な、悪魔と人間という存在を導く鍵となるよ。

バクーニンにおける神から導かれる悪魔

 さきほども行った通り、神はそれ自身が全てであるから、神を持たない存在だといったよね。そして、ヘーゲル論理学においても指摘されている通り、それ自身で全てであるものは空虚であるから、それを表現するためにはそれと相反するものを内包することが必要なのも確認したよね。そして、バクーニンは、このヘーゲルのテーゼに忠実であったの。
 彼の住む土地は欧州ロシアで、そこはロシア正教が国教であったわけだけど、彼は宗教批判の神学として、これらを展開していくの。まずは、キリスト教の神を、神を持たない絶対的虚無な存在として規定したの。しかし、現実にはキリスト教は神を表現することで生まれるわけだよね。つまり、全的な存在である絶対的虚無な存在である神を、存在として可能とするために、神が内包した相反するものが制度化されたものとして、キリスト教が存在するとバクーニンは捉えたの。そして、この神が存在を表現するために内包した、相反するものは、彼は神に対立するものであるとして悪魔であると表現したの。しかし、何度も確認する通り、あくまで神がその存在を表現するためのものとして悪魔は存在するから、悪魔は神の否定的な側面として、あるいは神の絶対的虚無の側面を表現するものとして存在するの。だから、悪魔は、あくまで神という存在の否定的側面(一部であり、それ自身も神を持つ)から、キリスト教のように制度化されたという性質を持つの。

神を持つ存在としての人間、神を持たない存在としての神と動物

 ここまでは、バクーニンにおける神と悪魔の規定を確認してきたので次は彼の神学における人間について見ていくよ。
 人間は、神に対しては対自的な存在であるの。なぜなら、人間が神と出会うときは、それを信仰するという形で、人間が神を持つ(自己の外に信仰の対象をもつ)という形として存在するの。彼が生きた時代の、当時の欧州社会では、今よりももっとキリスト教は社会風俗に根付いていて生活の基盤であったから、社会一般の人間の特徴としてこれは見出されるよ。ところで、神に関する規定のところで、神を持たない存在は神であるという話をしたよね。そして、このお話には続きがあって、神を持たない存在としてもう一つが挙げられるの。それが動物。これは、生物学、神経学的に正確かどうかというのは棚においておくとしても、彼の規定の中では、自己の外に信仰する対象を持たない、なにか規定されるものを持たないという意味で、即自的であるから、動物は彼によってそのように規定されるよ。つまり、ここでは有神論的な世界観を持つ社会において、2つの対極な存在があることとなるの。それが神を持たない存在である神、ならびに動物。そして神を持つ存在である人間。

神を持たない存在と、神を持つ存在を接続する存在としての悪魔

 有神論的な世界観をもつ社会において、2つの対極な存在があることまでをこれまで確認してきたよね。それが神を持たない存在(神、動物)と神を持つ存在(人間)であるわけだけど、バクーニンによると神を持つ人間は前人間性を持つ有神的な人間であるというの。理由はまず第一に、神を持ち自己の外に信仰の対象をもつ人間は、自らを規定するものを自ら自身ではなく、自らに先行する何か(この場合だと、存在の全てで、存在そのものである神)によって規定されると自意識で認識をしているから。そして、バクーニンはまず最初に即自的な状態が、対自である神によって縛られているという前人間性の性質を破壊することが、彼の革命論の根本にあるの。
 では彼にとって、破壊とはなにであって、破壊の先になにがあるのかが問題になるよね。それは、彼にとっての破壊とはヘーゲルにおける止揚であったということなの。つまり、即自的な状態を規定する対自に対して、その両者の性質を否定しながらも同時に保持し続け、あたらしい第三項の性質を生み出すということだね。だから、彼にとって破壊とは創造でもあったの。それでは、この前人間性であり有神的人間という性質を否定しながら、同時に神を否定する要素を持つ存在とはなにか?それが、神に対立して、神とうう絶対的虚無である存在を否定する存在である悪魔なの。バクーニンによれば、まずこの悪魔は、神に対立して神という存在の性質を否定する存在でありながら、神に内包されているため、悪魔もまた神を持つ存在でもあるの。つまり、ここで、神を持つ存在という意味で、前人間性である有神的な人間は共通項によって接続されるの。そして、この人間と神を接続する存在としての悪魔を媒介とすることによって、両者は否定されて破壊をされるんだね。では、バクーニンは、この両者が破壊されて第三の性質を持つ人間をどのように規定したかと言えば、半神、半動物としての人間性だよ。これは、有神的人間が否定されたときどうなるかを考えると自明だよ。つまり、神を持つ人間の否定は神を持たない存在である人間。つまり、神を持たない存在であるわけだね。そして、上記でも確認した通り、神を持たない存在とは神と動物であるから、人間はその両者の性質を存在論的(自己の外に自らを規定する何かを持たないという性質)にも肉体的(生物学的に見て、人間は動物でもあるよね)にも有するから、半神、半動物である存在になるという論理だね。

不可能性による革命である、総破壊と不可視独裁

 ここまでで見てきた通り、前人間性を破壊して、前人間性に縛られない人間の創造というプロセスと、それが彼の革命論の根本であることを確認したよね。そしてこれは、人間の一般的な性質の自意識に対する変革のみにとどまらず、このプロセスを社会変革にまで拡大させることことが彼の革命論で、それを総破壊と呼ぶよ。これは、新しいこの人間性の創造というプロセスを社会に演繹していくというものではなくて、この人間という存在様式と社会の様式というものは表裏一体であり、新たな人間性の創造というプロセスが進行することと、社会変革のプロセスが進行することは不可分であることが彼の革命論の最大の特徴であるよ。それはなぜかといえば、彼の思想においての存在論は、存在そのものと神学という対自的な制度化されたものの二重の形態を同時に分析しており、そしてそれらを破壊によって、総合させる(止揚させる)という視点を持っていたから。
 具体的に分析していくよ。まず最初には、存在そのものである神という性質をまず見出して、分析したよね。そしてそれを表現するものとして、対自的な悪魔というものもまた同時に分析したよね。そしてそれが、制度化されたものの一つとして、神そのものと、それを表現する存在物という形で、存在と存在物との二重に存在するキリスト教と、それを受容する人間性というものを分析して、それらを止揚するものとして、新たな人間性という存在そのものを生み出したということになるね。
 それでは、これに対応する社会変革のプロセスについて見ていくよ。まず、前人間性の項目でも指摘した通り、前人間性という形で人間を縛るものの存在物はキリスト教であったから、これの破壊のための媒介として、今まで神を表現するものであった、神の一側面である悪魔の神に対する否定性(神の存在様式である絶対的虚無を否定するものとして)として生まれたキリスト教を、悪魔を媒介とすることでキリスト教を否定する…つまり、神は存在するという形で表されていた否定性と、神そのものの表現することの不可能性を止揚することで、不可視の神(不可視のキリスト)という新たな宗教形態を社会に生み出すことで、それまでの社会を止揚をすることをバクーニンは考えたよ。そして、これはまた国家にも同じことが起きると言えるよ。神は存在するという否定性としての悪魔によって、本来の絶対的虚無である存在の全てである神が顕在した形が、キリスト教であり、また国家でもあった。しかし、これは本来性という意味で存在を歪めているため、顕在するという形では国家は抑圧を働く=矛盾した存在であると考えられるために、キリスト教と同じく政治機構は不可視であるべきだと考ええられたの。これを不可視独裁と呼ぶよ。
 ここまでをまとめると、彼の神学によれば、神という存在の全ては、これまでそれを表現する存在物の形態が原因で、存在を歪めるという形でしか存在していなかった。このことが、存在の一つである人間も歪めて、あるいは人間の社会性も歪め、そして人間の社会性の極地にある政治機構や宗教をも歪めて、矛盾を生み出すことになったの。だから、彼は存在そのものである神という存在を見出し分析したときに表れる、神の不可能性という本来的なあり方へ総破壊によって止揚させていくことで、より高次な段階へと存在物を創造していくということが彼の革命論の根本を貫く神学という思想なの。

結びに(一応、私なりの思想の解釈パートもあるよん)

 ここでは、彼の思想の根本にある神学と存在論についてと、それによって導かれる革命のあり方の青写真を概説として提示することに重点をおいたよ。だから、不可視独裁のどうして独裁であるべきか、であるとか国家やキリスト教が抑圧を働くとはどういうことか、などはまた違った視点になるから、具体的には彼の著作(私のおすすめは、「告白」、「国家と無政府」、「鞭のドイツ帝国と社会革命」)を当たることをおすすめするよ。彼の神学的な思想をもっと詳しく解釈したい場合は、「神と国家」もおすすめだよ。バクーニンについては一番新しい翻訳でも、10年近く前で、日本語の研究書に関しては1970年代から80年代のものが中心で、海外テキストや論文も含めて、現在研究されることもスポットライトを当てられることも少ないので、文献に当たるのが非常に困難だよ。もし、このnoteをよんでいる人の中で、哲学研究者の方がいればこれはアカデミズムの危機だと私は考えるので、翻訳作業や新たな解釈の提示などを頑張ってほしいと個人的に思います。私は学部生だし、専門は数理や物理学とその生体への応用などが中心なので、他人任せとなってしまうのが無責任で申し訳ないのですが、一応私なりの彼の思想の現代的意義について解釈を提示します。興味があれば読んでください。
 

解釈


 彼の思想の根本にある、キリスト教神学の存在論的分析は、当時においては新たな社会の提示という形として登場することになったけど、私としては彼の思想はある種予言めいたものとしてあり、彼の描いた青写真というものは現在社会のリアリティになりつつあると思います。
 まずはじめに、キリスト教を中心とした、かつてより帝国主義国として存在し、近代国家の枠組みを世界に強制、あるいは早い段階で受け入れていた国家における、神を持たない存在としての人間の増加。これは、フーコーの有神的な人間の死、日本でも動物化するポストモダンなどで表現されてるけど、これは近代国家という西洋式の社会形態をその社会の根幹に据えた国家において起きる、社会性の自然な動態だと言えると思います。これは、宗教の不可視化という彼の提示した新たな宗教というものと同じ位相を持っていて、それが現代的な潮流によって変形されていると解釈します。また、不可視独裁についても同様です。現在、かつては帝国主義国家の搾取と強大な資本による搾取は不可分に関わっていましたが、今はそれがどんどんとグローバル企業によって取って変わっているという状況があります。現代のインフラを担うのはこれらのグローバル企業であり、生活の基盤をどくせんしているわけですが、その活動実態は国家でさえ不可視なものになりつつあります。これは、彼らの思想の根幹にあるクリプトアナーキズムというものに、不可視独裁というものが変形されたと捉えることもできると思いますし、この傾向が加速すれば国家は、独占資本に隷属し共犯関係にあるという利益さえ失い、形骸無実化するとも言えると思います。それはまさに、少数の結社による世界の不可視独裁です。
 では、なぜバクーニンの思想は、現代社会においてリアリティを持つのでしょうか。私はそれを、啓示宗教の神学を思想の根幹に据えたことにあるとおもいます。旧約聖書の解釈にカバラというものがありますが、あのように聖書の解釈である神学とは、常に予言めいたものとして存在しているという性質があります。それは、啓示宗教が存在に対して、直感的な目に見える有にある矛盾から無を導くのでなく、無というものから有を導くからです。つまり、啓示宗教自体が、人間の認識においては存在しないものを形而上で導出した上で、それが顕在したものとして物理的な実体を考えるのです。少し、専門的な解釈をすると、定性的な性質というものを量化していくことで、現実という物理現象を解釈していくのです。これはまさに、無という直感に反する性質に対して、現実にあるものに近づけていく記号(言葉や物語)を吹き込んでいくこと…現在起こっていないことに、その性質を見出して、それを現実に近似させていくというプロセスを聖書は取っているということです。その代表例が、創世記や終末論であり、キリストの復活です。そして、それらを別様の言葉で、未来という無から現実に吹き込んでいくことが聖書解釈=神学であるなら、彼の思想の根幹に神学があることが、予言めいた思想であり言葉であることも自明であると言えます。



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