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孤独と連帯すること

 通りに面した食堂のガラス窓にネットで見つけた「STOP GENOCIDE」のポスターを貼った。
 その後、ジャーナリストの古居みずえさんが自身の作品であるガザの映画の自主上映会を呼びかけているのを知った。古居さんには大学時代につながりをいただいた。上映会にかかる費用は無料で、チケットの売り上げはガザに寄付してほしいということだった。
食堂が終わった後、最寄り駅のロータリー前に向かい、近くの教会を借りて上映するガザの映画会のチラシを配った。帰路につく人々が一斉に駅に向かって歩いてくる。ここはその人の流れが一番密集する場所だ。でも結果から言えば、2時間で10枚も配れなかった。ずっと報じられているニュースだからもう少し関心をもって受け取ってくれるものと思った。何件かのコンビニやスーパーにチラシを貼らせてほしいとお願いをしたが、そういうのはやっていないらしい。貼らせてもらえたのは商店街の一件のコンビニと、小さなパン屋さんだった。道行く人には足を止めるどころか目にもとめてもらえなかった。中には不快感を示す人もいた。通りかかった高齢の男性には「あんた、ハマスの一員かい」と言われた。減らないチラシを持ったまま、時間だけが過ぎ、孤独を感じた。見上げた空は夕焼けに染まり、静かだった。そして、世界から見捨てられていると感じるガザの人々の孤独は、こんなものじゃないと思った。呼びかける声が少し大きくなった。しばらくすると、視線を感じた。向かいのケバブ屋さんのお兄さんがこちらを見ていた。お兄さんは何か言おうとしたのをやめて、目の前のコンビニで温かいお茶を買って、それを渡して帰っていった。何て言おうとしていたのだろうと思った。そして、それは何となくわかった。「そんなことしても、僕たちに戦争は止められないんだ」。そう言いたかったんだと思う。そのとおりだと思った。

 上映したガザの人々のドキュメンタリーは、子どもたちが主役だった。2008年のイスラエルによる攻撃・破壊で家族を殺された子どもたちの心の再生を追った映画だった。子どもたちは兵士たちがしたことを繰り返し絵に描き、落ちていた薬きょうを集め、彼らの姿の真似をした。忘れたいことをあえて記憶に残そうとする子どもたちの姿に、大人たちは戸惑う。その中の一人の少女は「わたしはもう笑わない」といった。彼女の表情は真剣だった。これは憎しみの連鎖なのだろうか。そう言ってしまうには、子どもたちの瞳はあまりにも澄んでいるように見えた。むしろ、それは死者への連帯なのではないかと思った。失われていった多くの命、もうここにはいない、愛する人たちの存在を、たとえ世界が忘れたとしてもわたしは決して忘れない、そんな子どもたちの深く静かな思いが伝わってくるようだった。

 今、アメリカの大学で起きているプロテストの映像を見る。大学を埋め尽くして揺れ動く人々の姿は、ひとつの川のようだ。川は絶えず流れ続ける。たとえひと時せき止めたとしても、水はまたどこからか湧き出る。力では奪えないものがある。どんなに微弱だったとしても、流れ続ける川の一部でありたい。

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