私の脳の「永遠が通り過ぎていく」/戸田真琴監督
短編3作が縫い込まれた戸田真琴監督の「永遠が通り過ぎていく」の試写会に参加させていただきました。
「ごめんね」という言葉が、情景や刻まれた歴史の違う人生を刻んだ人間にうつしだした、短編3作のなかで必ず発されていた。
その「ごめんね」は、すべて誰に言うでもなくきっと己の感情すべてに存在する生きた自分の欠片を自分自身で引ったくったり、夢に微睡んでさえ抱きしめることができなかったり、壊すことで保った過剰になるべき部分への怒りの愛の言葉だと感じた。
生きる愛の怒りを封印している人、自分なんてと思っている人、過去を忘れるために逆向きで振り返っている人に、苦しい鮮やかが通る映画なのではないかなと思います。
映画が上映される前に、戸田真琴さんのトークイベントと朗読があった。
短期記憶障害があるので感情で覚えることができても、ひとつひとつの言葉を鮮明に覚えることは難しいわたしなので言葉の意味合いが違ったら申し訳ないが、朗読のなかに
「どんなに悲しみを強請っても必ず君は光になってしまう」
というような言葉があって、その時点でわたしはこの映画を届けてもらうべき人だと確信したところで、戸田真琴さんは舞台袖に進まれた。
「アリアとマリア」1作目
過去である現在と消えては求める先にある未来の現在を、あるはずのない場所で、存在しうるはずの無いキャスティングで表現されていた。
友達、ママ、神様、いくつもの自分、反射してすべての存在はいつもそこにある。
首をしめたりしないでね、と、言ったのは、きっと自分自身。
「わたしはあなたの言っていることがわからない。でもそれも正しいことなんだろうね」
この世界は生きていた人の数だけ、生きている人の数だけ、しかも発生した瞬間の感情と、3歩進んで部屋を出た瞬間の感情は交わることはあれど重なることは永遠にない。
孤独に触れかけることはできても、自分自身の孤独でさえいつも点在して、理解に進めば進むほど純度は薄れて穢れていく。それでも、
孤独は痛くて読解できなくとも美しい個人だから、「正しいことなんだろうね」という言葉はわたしにとってまさに生きる印だった。
「ここで殴ってくれたら、この悲しみに名前がつくのに」
幾度となく偏った脳で通った10代のわたしを、再生しているかのようなシーンでした。
美術館、展示会、そこに人生が映し出されているかのような、各々噛み砕くことができるやさしく傷口に触れてくる映画だった。
「Blue Through」2作目
キャンピングカーで時を共にする男女の話しですが、全3作のなかで特にこのBlue Throughに出演している西野凪沙さんの表情の間合い、発する言葉の置き方がとても好きでした。
「永遠がほしい。永遠がもらえないなら今ここで殺して」
暴力的な自己愛、言ってしまったら守ってきた魔法が崩壊してしまう言葉。
きっと、外側に永遠なんてものは無いから最後の光に向かって内側にしまい込むことを選んだほうが楽な言葉。
映像から切り替わって、写真が何枚も何枚も流れていく中の静かな終わり。
どうして永遠がない世の中に永遠という言葉が存在するんだろう。
心許ない存在を鮮明にわかりやすくかたち取る永遠は、外側にはハッキリと絶対に無いけれど、外側と関わったことによって内側に幻想の更新がされていくようなものなのかもしれない。
「M」3作目
戸田真琴さんの大森靖子さんに当てた手紙が、ほとんどそのまま歌詞になって歌われている曲。
わたしはこの曲が大好きで、何度も大森靖子さんのライブで聞いては心を閉ざして開き、聞いたことの無い言葉なんてほぼないのに、言葉と言葉の接着や紡ぎに、何度聞いても白くなりました。
「この曲と向き合った映画でもある」と戸田真琴さんは上映前のトークイベントで仰っていて、その言葉を聞いてより一層この曲が好きになってしまったわたしは他人の人生の芸術を食べる欲深い人間だと思った。
この歌詞のなかに
「本来少しは愛を囁かなければ内臓の奥までみせられないのがはがゆい
かっこよくなんか生きなくていいよって言う権利が欲しくて…」
という部分があります。
MVのような3作目「M」は、本当の願い事、本当の欲望、業、正義、愛を見つける過程に置かれて過去を覗き見て、瞬に還ってきては置いてかれる生きるための走馬灯みたいでした。
「強く強く生きるのは どうしようもなく恥ずかしい
若くて ダサくて 不器用で 傷だらけだから美しい」
最後の歌詞、この2行だけは大森靖子さんが作った歌詞だと聞いたことがあります。記憶に間違いがあったらごめんなさい。
傷ついたことのない人間などいないと思うし、似たような場所に傷がついてもどんな形の傷でどの刃物で、今もどれくらい跡が残っているか、その傷を見る瞬間がどれほどあるのかでまったく違うけれど、
戸田真琴さんの以下のメッセージにあるように「孤独のための賛歌」を、音楽や演技や映像や美術や纏いで「M」は静かに傷口に触れて内側に吸収されていきました。
戸田真琴さんはこの映画を2019年に撮られたとのことで、来年AV女優を卒業されると見ました。
知らないものは作れないから、全て戸田真琴さんが見て触れてきたものがこの映像のなかに閉じ込められ、そして、わたしたちが見たことによって、見る人の数だけ、拡張されたり凝縮されたりしてまったく別の作品に増加していくものが映画だったり、文章だったり、生き様だったり、芸術なのかなと思います。それが許されてしまって良いのが芸術なのだと思います。
戸田真琴さんに、試写会に来たどなたかが
「映画は嘘だと思うのですけど、」という流れの質問をされていました。
その返答に、「セットや服装や撮り方など全部用意されたものだからそれは全部嘘だけど、その幾千の嘘を重ねて出来上がった先に、見てくれる人がいてその人と映画のなかに本当がうまれるのだと思って作りました。」というような回答をされていて、
何かをつくる人間だけではなく、それは生きて誰かと関わることすべてにおいて当てはまる言葉だと思いました。
「ごめんね」
自分のために生きているつもり、自分を形作るための鉄の壁、扉さえない。でも何度も封じた傷口に「ごめんね」って叫んで触って見たら、本当の願い事が見つかるのかもしれないなと、綺麗なタトゥーに蹲った左手首を見て、まだ私には難しいなと、いつの日かまた、と。
今日のわたしにとっては、雨の日に古傷が痛むことが気持ちよく、純粋なヴェールに気づかせてくれるような映画でした。
試写会に参加させていただけて本当に良かったです。ありがとうございました。
どのコンディションで見ても、今その瞬間に見たからこそ、生きてたらいつの日か思い出す言葉が必ずある作品だと思うので、色んな方に見に行ってほしいです。
4月1日(金)より、アップリンク吉祥寺にて公開されるそうです。
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