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『月と6ペンス』と現実逃避。

くさくさしている。
理由は分からないけど、心がささくれている。
それを私は「くさくさしている」と言う。

世の中にはいろんな人がいるけれど、私は頭の中に文字と言葉が溢れて、思考を止めるのが難しいタイプの人間だ。
食べることは生きること、と言うけれど私にとっては考えることも生きることだ。

そしてどうも自分の感情を追いかけるのが苦手らしい。
「らしい」と他人事になるあたり、どうかとも思う。
ストレスを認識するのが苦手で、体調面に出てきてから、「何がストレスだった…?」と考える始末だ。我ながらどうかと思う。

先日もよく分からないまま考えてもどうにもならないようなことをぐるぐる考えて、すみっコぐらしのとかげのぬいぐるみを抱いていた。
今日は何がダメだったのか、理由の分からない不調ほど辛いものはない。身体的なものならまだしも、精神面は辛さが倍増する。
無理、辛い、理由分からん、しんどい。なんでだ。

とくさくさしながら考えて、やめた。
考えたところで原因が分からないので改善しない。
うん、やめた。なんか頭空っぽにできることしよう。
何しよっかな。

ああ、勉強しようか。

と思い至り、またちょっと呆れた。
ざっくり現実逃避の手段じゃん、勉強。
そんなに現実が嫌いか、私よ。

とはいえ、嫌いかどうかと言われると嫌いではある。
だからリアルな物語より、フィクションと分かる物語が好きなのだろう。
恋愛と殺人事件なら確実に殺人事件の方が起こり得ないから、ミステリーが好きだし、SFやディストピアにハマったのも納得できる。
日常系アニメが受け付けないのも多分そういうこと。
自分からいちばん離れているところにいるであろう人の物語を愛しているのだ。

勉強は、私にとってはずっとどこかに行くための手段だった。
大学受験も今も、「ここじゃないどこか」に行きたかった。できれば私のことを誰も知らない場所に。
『月と6ペンス』の

生まれる場所を間違えた人々がいる。彼らは生まれたところで暮らしてはいるがいつも見たことのない故郷を懐かしむ。生まれた土地にいながら異邦人なのだ

新潮文庫 サマセット・モーム、金原瑞人訳『月と6ペンス』

という文章を見たとき、「この文章を読むために、この本を読んできたのだ」と思った。
ずっと見たこともないどこかに行きたいと思っている。
行ったことも見たこともないどこにあるかも分からない故郷を求めている。

現実から逃げることは、どこかに行きたいというその欲を手っ取り早く満たせる方法だった。
今見えている世界が嫌いなら、その世界が変われば何か変わるだろうか。
知識はメガネのようなもので、見える世界の解像度を上げる。
見えなかったものが見えることが嬉しいように、知らなかったことを知るのは楽しいし嬉しい。
でも、度が合わないメガネをかけると目が疲れるように、付けすぎた知識も多分いいことにはならない、気がする。
知らない方が幸せなことは世の中に山ほどある。
でも、知らないままでいることなんて、きっと耐えられない。
好奇心は猫をも殺す、とはよく言ったものだな、と思う。

防衛機制の中で、現実逃避はあまりよくない方法と言われる。
勉強はもしかしたら、昇華に当てる人もいるかもしれないけど、ほぼ現実逃避だと、私は思っている。
勉強している間は、一旦考えなくていいから。

今は社会保険労務士の勉強をしている。
国家資格で、それだけで食べていける。
落ち着いたら、美術の勉強をしてみたい。
経理事務をしているから税理士も悪くないな、と思っている。
私は何になるのか、とちょっと考えて、まあでも1人で生きて行けるならそれでも悪くないと思った。

勉強以外なら、本を読むとかも割と頭を空っぽにする方法だ。
最近はなんとなく『地の糧』を読みたくなって、数ページだけ再読した。
書を捨てよ、街に出よう。
それが理解できるようになったのだから、大人になったということだろうか。
あとはnoteの更新。
たまには頭の中の言葉を吐き出しておかないと。

いつか私は見たこともない故郷に行けるだろうか。
ま、とりあえず勉強しよ。

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