幾千光年の孤独の歌詞について考えてみた
THE BACK HORNの楽曲に「幾千光年の孤独」という曲があり、その歌詞について解釈してみた。最初に聴いた時には「怒り」、「尖った」印象は伝わってきたが実際に何を指しているのかわからなかった。特に対象はなく抽象的なものかな?とも感じた。
何となく歌詞のイメージが浮かんだきっかけとしては、本人がこの曲を作詞した背景をツイートしていたから。
つけ加えて、栄純自身のYouTube配信でもこの曲の背景について詳細に語っており、以下の事がわかる。
締め切り前日に歌詞が浮かばず焦っていた
追い詰められて絶望していた
ビーチで遊ぶハッピーな人々と自分の状況を比較してイライラしていた
ハッピーな人への嫉妬で自分の中の闇の感情が湧いてきた
この曲の主人公は人への妬み嫉み等の闇の感情でいっぱいである為、ひとつも正しい事を歌わない方が良いと思った
日本の古典のような雰囲気の歌詞に仕上がっていたら、グランジっぽい曲調とのギャップで良いと思った
曲の背景から何となくわかる主人公の人物像を以下にまとめる。
陽キャに対しての妬み嫉みの感情でいっぱい
陰キャ
人生に絶望している
自己肯定感が低く、自分が一番不幸だと思っている
歌詞解釈
ビーチにいる人達はみんな陽気でハッピーに過ごしている。今絶望している自分の居場所は此処には存在しない。ここでいうビーチは天国。
目の前で楽しそうにしている人々(陽キャ)が鳥獣戯画の宴。
「やらせろよあばずれ」は幸せそうにしている人達への羨望と怒り。
※栄純曰く、この部分の歌詞が曲の雰囲気、空気感を決定づけるものであり、ここから先は目の前の風景は関係なく曲の世界に入り込んでいけたとの事。
このビーチにいる自分が居た堪れない為、寒いのを防ぐ為に襟を立ててこそこそと歩いている。太陽が絶望を背負った背中を焼く。
十字架は磔刑に処されたイエス・キリストの事だと思われる。十字架の木にかけられた者は神に呪われた者とされており、その呪いを背負っていると思っている程、自分自身が堕ちている。
幾千光年程遠くにあるすべての呪いが自分に襲い掛かってきているという壮大さを表現したかったのだろうか。
罪人であった人々の為にキリストは死んだのだが、この主人公を見たら亡くなったキリストも憐んで泣くだろう。
後の歌詞にある「星空も飛べた事」に繋がるが、現実を知って空も飛べると思っていた程、自由だった自分はもう存在せず、道化師に成り下がった主人公。オルゴールの「雨に唄えば」はミュージカル「Singin’ in the Rain」のテーマソング。幸せになりたいと願う主人公を表している?
ビーチで純粋に遊んでいる子供達。
この頃は自分が何にでもなれると思っていたが、成長するに連れ、挫折を経験し、現実を知り、純粋無垢な気持ちをいつしか忘れてしまう。
自分の孤独さを誰もわかってはくれない。いつも見ている太陽さえもただ輝いているだけ。
自分の世界は陰鬱、厭世的であり、そこは朝日が昇るような明るい未来が待っているわけではない。
顔のない人々は「自分以外の人々」を指すと思われる。その人々が泣く程、不幸という事を表現したかったのだろうか。
所々不明な点はあったが、主人公が負の感情に包まれているという、曲の雰囲気はわかったきがする。
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