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世田谷文学館 『宮沢和史の世界』 ワークシート (2006年)

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2006年9月30日から11月26日まで世田谷文学館で開催された企画展『宮沢和史の世界』会場で配布した「宮沢和史ワークシート」のテキストです。展示しているものの他にも伝えたいことがあったので、このワークシートは期間中どんどん増えていきました。2020年の今になっては更新したいこと、新たに書くべきイシューもたくさんありますが、文章は2006年秋当時のものです。

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宮沢和史 プロフィール

宮沢和史(みやざわ かずふみ)

1966年甲府生まれ。東京世田谷在住。ロックバンド、THE BOOM(ザ・ブーム)のボーカリストとして1989年にデビュー。これまでにTHE BOOMとしてアルバムを11枚、宮沢和史ソロでアルバムを4枚発表。2006年からは新バンドGANGA ZUMBA(ガンガ・ズンバ)としての活動を開始しています。

世界を旅し、誰もが聴いたことのない新しい音楽、誰もが歌える大きな歌を作り、その歌を届けるために旅に出るという音楽活動を続ける、希有な才能と行動力を持つミュージシャン。

代表曲のひとつ「島唄」は、日本だけでなく国境を越え、いまも世界に広がり続けています。

音楽作家としても小泉今日子、矢野顕子、喜納昌吉、川村結花、友部正人、夏川りみ、MISIA、SMAPなど、多くのミュージシャンに歌詞、曲を提供。2003年は日本ASEAN交流事業「J-ASEAN POPs」のイメージソング「TREASURE THE WORLD」を作曲。アジア11カ国の歌手により、それぞれの言語でカバーされています。

宮沢和史はここ10年、海外でのレコーディングやリリース、ツアーを積極的に行なっています。2005年はフランス、ブルガリア、ポーランド、ロシア、イギリスのヨーロッパ・ツアーと、ブラジル、ホンジュラス、ニカラグア、メキシコ、キューバの中南米ツアーを成功させています。

音楽以外にも詩集『夜ふかしの凡人』、『未完詩』ほかの発表、ポエトリー・リーディング(朗読)のステージ、エッセイの雑誌連載など執筆、文学活動にも取り組み、歌詞とともに高い評価を得ています。近著は2006年8月発売の『言の葉摘み』(新潮社)。


宮沢和史と旅

〈僕の旅はすぐにはじまった。沖縄をきっかけに、タイや香港、シンガポール、そして決定的な影響を受けたインドネシアのバリに辿り着いた。ボブ・マーリィが歩いた道を歩みたくてジャマイカのキングストンにも行った。そこでヤミ・ボロというシンガーと出会い、二人でアルバムを作った。そのレコーディングの合間にキューバのハバナに行った。そこではラテンの洗礼を、生まれて初めて、じかに体感した。その先に見えたのはブラジル、僕が住む東京都世田谷区から地球上で一番遠くにある町———。そう、リオデジャネイロの港だったのである。何回も行った。曲を作った。バンドも連れて行った。ブラジルの人達とアルバムを作り、彼の地でコンサートもやった。(後略)〉(宮沢和史「セイフティ・ブランケット」2000年)

宮沢和史の音楽活動はしばし「旅」に比喩されます。実際に宮沢の音楽には、沖縄、インドネシア、ジャマイカ、ブラジル、キューバ、アルゼンチン、ポルトガルといった世界各地の音楽要素が取り入れられ、またそれらが融合しています。宮沢はこれらの土地を歩き、音楽や人に出会い、その文化を吸収していきました。代表曲のひとつ「島唄」も沖縄を何度も訪れ、その歴史を深く感じた上で書かれたものです。

2005年の「愛・地球博」キューバ館に寄せたコメントで宮沢は、「僕は90年代初めにこの島を訪れ、その豊かな音楽、街や空、海の美しさ、人々の優しさに触れ、今も魅了され続けています。キューバを知ったことによって、アジアの島に生まれ育った僕たちにとってのハートビートは何なのか、それを探し出さなければいけない、という宿題をもらったような気がしています」と書いています。

宮沢にとっての音楽の旅は、「アジアの島に生まれ育った僕たちにとってのハートビート」を探す旅でもあります。


宮沢和史と世田谷

THE BOOMのファースト・アルバム『A Peacetime Boom』(1989年)のジャケット写真は東京世田谷の砧公園で撮影されました。世田谷に暮らす宮沢和史には世田谷を歌った曲がいくつかあります。「都市バス」は用賀に向かう都バスの中、「夜道」は曲ができず散歩をしようと下北沢を歩いているときに浮かんだ歌だそうです。

都市バスの中 カラッポ頭/遠くへ逃げる 勇気ないなら/都市バスの中 世田谷の中/雲がくれの日々を 楽しもうよ (都市バス)

1998年、宮沢和史「Seven Days, Seven Nights」の舞台も下北沢です。

〈まだデビュー前、デビューしてからもしばらく、下北沢の六畳ぐらいのアパートに住んでました。風呂もなくて、バンドで練習して帰ってくると銭湯も終わってるみたいなところで。でも考えようによっては、自分のその汚い六畳は「寝室」だと。寝室が六畳というのは悪くない。じゃあ「リビング」はどこだというと、外なんですよね(笑)。下北沢の街が、東京中が俺のリビングだと思えば豊かじゃないですか。近くでバイトをして、そこで飯も食わせてもらって、客の酒なんかこっそり飲んじゃったりして、大手をふって部屋に帰って寝るという生活が何年か続いたんです。この「Seven Days, Seven Nights」は、夢があるんだけどその夢に向かってがむしゃらに進んでいるのではなく、そんな何となく日々穴埋めしていくように生きている若者が主人公の歌です〉(宮沢和史)

同曲のビデオクリップは永瀬正敏主演、宮沢自身が監督して下北沢で撮影されています。

      

宮沢和史とディック・リー


宮沢和史とブラジル


宮沢和史と島唄


宮沢和史と友部正人

宮沢和史が友部正人と初めて同じステージに立ったのは1991年、新宿のライブハウス。宮沢はTHE BOOMでもひとりの弾き語りでもなく、アメリカの古いフォークソングを歌う11人編成のバンド「歌え!バンバン」の一員としての出演でした。そのときの様子を友部正人はこのように書いていました。

〈楽屋の中に、バンジョーやマンドリンを持った若い一団がいた。彼らはステージに上がって行くと、ものすごい勢いでウッディー・ガスリーの「ジーザス・クライスト」をやりはじめた。ぼくはびっくりした。いかにも若い彼らが、ウッディー・ガスリーの歌をとりあげたことに驚いた。彼らが楽屋にいた時、指ならしに弾いていたブルーグラスの曲も、ぼくにはなつかしかった。(中略)宮沢くんとの出会いは、とても新鮮だった。〉

この出会いの翌年、下北沢タウンホールでの友部の「待ち合わせ」コンサートに宮沢和史と山川浩正が出演。その共演がきっかけとなり、同年、友部正人は宮沢との共作曲「すばらしいさよなら」(作曲が宮沢、演奏はTHE BOOM)をリリースします。

1950年生まれの友部正人は1972年に『大阪へやってきた』でデビュー。友部がボブ・ディランやジャック・エリオットといったアメリカのフォーク歌手に影響を受けたように、宮沢も友部の歌に影響を受け、1992年のTHE BOOMのツアーで友部の「熱くならない魂を持つ人はかわいそうだ」を歌っています。2003年には友部のデビュー30周年記念コンサートのために「鎌倉に向かう靴」を共作(作曲が宮沢)。

また、宮沢が朗読を始めたのは、2000年に友部が主宰するポエトリー・リーディングのイベント『LIVE! no media』に参加したことから。


宮沢和史とカメラ

2001年のシングル「沖縄に降る雪」のジャケット写真は宮沢和史が撮影しています。この石像を撮ったのは、収録曲「ゲバラとエビータのためのタンゴ」のレコーディングに訪れたアルゼンチンの首都ブエノスアイレス。この母子の石像に惹かれた宮沢は二日に渡ってこの場所に足を運びました。

〈旅先では小さなカメラを持ち歩いて、心を動かされたものを撮っています。(中略)町に出ると石像や銅像をよく撮ります。創った人の強い思いで彫られた硬い石。その表情や佇まいに、時には生身の人間よりも人間らしい何かを感じるんです。撮るときはかなり近寄りますね。フレームに周りの景色まで入ると、仕上がりがただの石像に見えちゃう(笑)。生き物として撮りたいんです。創った人たちは、モデルとなったこの人と別れたくなかったからこうして残したんだろうな……、などと石像が創られた理由や歴史に思いを馳せながら。石像は動かないけど、見る角度やこちらの気持ちで質感や表情が変わるから、腰を据えて撮りたくなる。誰かの思いがしっかり込められているものは、石であっても新しい命が吹き込まれています。石であっても新しい命が吹き込まれています。時間や歴史や人の思いを受け止めたかのような表情。そんな石像は幸せだし、他人が見ても美しいですよね。〉(宮沢和史/dreamers)

宮沢は2005年のヨーロッパツアーで旅先の各地で撮った写真を掲載する写真blog「MIYAZAWA-EYES」(2020年現在は→ https://www.miyazawa-kazufumi.jp/eyes.html)をオープン。詩集『寄り道』、『寄り道 2』でも自らが撮影した写真を、自分の詩に添えて掲載しています。


宮沢和史と朗読(ポエトリー・リーディング)

宮沢が詩の朗読を始めたのは2000年、シンガーソングライター友部正人の呼びかけによるポエトリー・リーディングのアルバム『no media』への参加がきっかけでした。ステージでの朗読初体験も友部主催による同年11月、阿佐ヶ谷でのイベントでした。

〈(前略)そこでもう開き直って詩集を何冊もかかえ、とにかくステージのイスに腰掛けてみた。たったひとりきりで「無」の状態から言葉を発するのは少々勇気が必要ではあった。ところが読み出すうちに頭の中に次々といろんなアイデアが浮かんでくるのである。普段歌っている歌詞を暗唱してみたり、体を使って詩を読んでみたりしてみて、事前に想像していた以上に20分間が短く感じ、リーディングの可能性を充分に知ることができた。「時間を作りだす」ということを覚えた気がする。ステキな表現方法だと思い、自分の活動のひとつに加えようと決意した。来年から、詩集を小脇に抱え、体ひとつでライブをやってみたい。言葉の迷路に迷い込んでみたい。〉(宮沢和史「セイフティ・ブランケット4」)

朝日新聞に連載の詩の紹介コラムをまとめた宮沢和史『詞人から詩人へ』(河出書房新社)には、宮沢自身が朗読した谷川俊太郎、中原中也、寺山修司などの詩22篇を収録したCDが付いています。「優れた詩というのは、読む側にリズムや温度、メロディーといったものを要求してくるんです。もしかしたらそれは作者が持っているリズムやメロディーとは違うかもしれないけど言葉自体が読む側に呼びかけてくる」と当時の宮沢は語っています。

2001年、宮沢は単独の朗読ツアー「未完の夜」を開始しました。高知・四万十川や佐渡島の小学校、三重の浜辺など、普段のコンサートでは訪れない場所での「未完の夜」は回を重ね、同タイトルのDVDも発表されました。宮沢が敬愛するミュージシャン仲井戸麗市とも2002年に札幌と鎌倉で、友部正人とも2004年に下北沢と福岡で、朗読を主としたコンサートを開いています。現在も各地で行なっている弾き語りツアー「寄り道」でも、朗読はコンサートの重要な要素になっています。


宮沢和史と釣り

「旅はある種、(曲作りのための)取材みたいなところがあるから、ちょっと休みに旅行しようかという感じにはならないんです。釣りしてるときぐらいですかね、音楽を忘れているのは」という宮沢和史が釣りを始めたのは小学生の頃。もっとも影響を受けたのは当時、雑誌に連載中だった矢口高雄のマンガ『釣りキチ三平』です。

〈麦わら帽子(三平のトレードマーク)こそかぶらなかったが、毎日毎日、僕らは川原を走りまわり、何度も何度も川を渡った。『釣りキチ三平』の中に出てきた名ゼリフ「水を恐れず、あなどらず」。この言葉は人間と自然の関係をとてもうまく表現しているが、それだけではなく人生そのものにも当てはまる。今でも仕事などで悩んだり、勇気がわかなかった時に、僕はこの言葉を思い出す。僕の人生のルーツの何パーセントかは自然、もしくは釣りがしめている。とりわけ全巻を揃え、何度も何度も読みふけった『釣りキチ三平』は僕の人生の一部であり、テキストだ。〉(宮沢和史「セイフティ・ブランケット5」)

渓流釣りを趣味とする父親に連れられ、少年時代の宮沢はふたりでたくさんの川で釣りをしました。

「僕の曲の少なからず何パーセントは父親が見せてくれた風景から生まれています。父が連れて行ってくれた川は、大人になった今でも自分にとっては大切な川なんです」。

「釣りに行こう」という最初期の歌をはじめ、宮沢には魚や川をモチーフにした歌も少なくなく、THE BOOMのアルバム『LOVIBE』のジャケットには魚が描かれています。

宮沢の釣りのスタイルはフライ・フィッシング(毛鉤釣り)。家には毛鉤作りをする机や釣り道具を置いた専用の部屋があり、時にはコンサートツアーを、釣り竿を積んだワーゲンを自ら運転してまわります。

釣りを通して自然と深く付き合ってきた宮沢。2001年の「ゲバラとエビータのためのタンゴ」には、“食卓に真っ黒な海苔を/下諏訪の渓流に山女魚を/長良川に五月鱒を/四万十川には香しき鮎を/子供らに花束を”というフレーズがあります。


THE BOOMとホコ天

1986年11月、宮沢和史はTHE BOOM(ザ・ブーム)を結成しました。メンバーは甲府時代の同級生、小林孝至(ギター)、山川浩正(ベース)、上京後に知り合った栃木孝夫(ドラム)の4人。バンド名は「“流行”(ブーム)という名を付けてパッと散るとバカにされるから、そうならないようにがんばろうと」という思いから付けられました。

結成の翌年7月からTHE BOOMは毎週日曜、東京・代々木公園横の歩行者天国(ホコ天)で路上ライブを始めました。1980年代後半の日本は「バンドブーム」と呼ばれ、ロックバンド最盛期。しかし、「歌」が中心にあるTHE BOOMの音楽性は当時のライブハウスにはあまり求められず、彼らは路上でのフリーライブを決意しました。自分たちでスピーカーなどの機材を運び、正午から休憩を挟みながら夕方まで30分ほどのステージを一日に5、6回。ホコ天でライブを始めた最初の日、THE BOOMの演奏に立ち止まってくれたのは3人だけでした。

「でもすごくほめちぎってくれた女の人がいたんです。自分の作った歌でひとに誉められるって初めてだったから、毎週ひとりでもいいから、そういう人が増えたらいいなという気持ちで続きましたね」

ホコ天での路上ライブは約2年、休みなく続きました。THE BOOMは徐々にファンを増やし、一年が過ぎる頃には彼らのまわりに観客が大きな輪を作るようになりました。「不思議なパワー」や「雨の日風の日」といった曲はこの時期に書かれた曲です。

レコード会社主催のオーディションをきっかけにTHE BOOMは1989年5月、アルバム『A Peacetime Boom』でデビューします。このタイトルは「A Wartime Boom」(戦争景気)という経済用語から宮沢和史が造った言葉です。「いつ壊れるかわからないかりそめの平和景気かもしれないけど、だからこそこういった歌を歌っている」。ホコ天時代のレパートリーの中から11曲が収録されています。


宮沢和史とねじめ正一

宮沢が詩人であり作家のねじめ正一さんに出会ったのは1996年、NHK総合『にんげんマップ』というトーク番組でした。このとき宮沢はねじめさんの魅力をこう語っていました。

宮沢 ねじめさんにあって僕にない部分はやっぱり「笑い」ですね。人を笑わせながら真理を突くっていうのは、僕はいちばん難しいと思うんですよ。人を興奮させたり泣かせることっていうのは、比較的容易じゃないですか。真剣にやればいいというか。僕はシンガポールのディック・リーにも、ねじめさんと同じものを感じるんですよ。笑わせて笑わせて、最後に残る沈殿物みたいなもの、そこにこそ本当のものが隠されているんだ、というような表現が、僕にはなかなかできないですね。

宮沢は2000年の『詞人から詩人へ』(河出書房新社)でねじめ正一の詩「東京羊羹」を紹介し、朗読しています。2002年のねじめ正一の著書『言葉の力を贈りたい』(日本放送出版協会)ではねじめが宮沢の歌詞の魅力を解説しています。

ふたりの最新の対談は『小説新潮』2006年10月号で。

ねじめ 初めて会った時からそうなんだけど、宮沢さんはミュージシャンというより、われわれ詩を書く人間と近い感じがする。特に、宮沢さんが詞と詩の違いについて「詞は感動させるもの。詩は世の中のひねくれた部分を描くもの」と、きちんと分けて認識してるのを知ってからはその感じが強まりましたね。

宮沢 詞と詩の違いについてはちょっと考える機会があったんです。音楽ファンの人たちは、基本的に好きなミュージシャンには、いつまでも自分が好きになった頃のまま、変わらないでいてほしいという心理があるんですね。でも、こちらは作品を発表するたびに「まだまだ」と自分自身に不満を感じていて、常にタッチや作風を変えて新しい方向を目指したい。ファンの期待をもしかしたら裏切っているのかな? と思うと苦しい時もあるけれど、一度発表した作品や自分の志向に嘘はつけないし、歌詞を書くことが窮屈に思えた時期があったんです。そういう時に、昔を思い出して現代詩を書いてみたら、言葉と遊ぶ楽しさを思い出すことができた。ハエが飛んでいるというだけの詩とか、行頭にア行の文字を順番に使って行末は全部同じ文字で終わる詩とか、書いてるうちに自分を取り戻したような気がしたんですね。僕はそれ以来、詞と詩、両方の世界を持つことでバランスをとっているようなところがあります。


宮沢和史とトロピカリズモ


GANGA ZUMBA

GANGA ZUMBA:宮沢和史/GENTA/tatsu/高野寛/今福"HOOK"健司/マルコス・スザーノ/フェルナンド・モウラ/ルイス・バジェ/クラウディア大城/土屋玲子

2005年初頭、宮沢和史 MIYAZAWA-SICK(GANGA ZUMBAの前身バンド)はヨーロッパ5カ国(フランス、ブルガリア、ポーランド、ロシア、イギリス)をツアーし、各国で盛大な歓迎を受けます。この旅の途上、各国で出会ったミュージシャンたちとそれぞれの言葉で録音された歌が「ひとつしかない地球」です。同年4月にはレコーディングに参加したミュージシャンたちが東京に一堂に介し、国境を越えた友情を音楽で示しました。

2005年10月、MIYAZAWA-SICKはブラジル、ホンジュラス、ニカラグア、メキシコ、キューバの中南米5カ国をツアーしました。宮沢にとってもブラジル以外はすべて初めてコンサートを行なう国。しかし、アンコールの声が止むことがなかったホンジュラスや、ほぼ全土にそのステージがテレビ中継されたメキシコなど、バンドは各国で高い評価を得ました。

ツアーの最終公演キューバ・ハバナ、予定されていた数万人規模の野外コンサートは史上最大のハリケーンの襲来で政府より「中止」を宣告されました。しかしそれは宮沢の旅の終焉を意味するものではありませんでした。

2006年4月、「GANGA ZUMBA」(ガンガ・ズンバ)という名のバンドが新たな旅路に出港しました。ここ数年の海外ツアーを共にしてきた、国籍も言語も音楽的背景も異なる個性派ミュージシャンたち10人によるバンドです。8月にはミニアルバム『HABATAKE!』を発表、日本各地のロックフェスに出演しました。

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「GANGA ZUMBA」というバンド名は、17世紀のブラジルに実在したアフリカ人奴隷解放の指導者の名に由来します。当時、ブラジルに強制的に連行されてきたアフリカ人たちの中には、支配者たちから命がけで逃亡し、「キロンボ」と呼ばれる自由解放区を作る者たちもいました。歴史上特に有名な解放区「パルマーレス」の最初の指導者の名前が「GANGA ZUMBA」(ガンガ・ズンバ)です。

国境を越え、あらゆる境遇の人の心に響く歌。宮沢和史はその理想を求め、音楽の旅を続けてきました。この旅に終わりはありません。


宮沢和史と矢野顕子

宮沢和史が中学時代からの憧れのミュージシャン、矢野顕子と出会ったのは1990年。「釣りに行こう」のレコーディングでした。THE BOOMのセカンドアルバム『サイレンのおひさま』に収録されたこの曲はもともと宮沢が矢野顕子と一緒に歌えたらとデュエットを想定して書いた曲。アルバムを矢野に送り、共演を承諾された宮沢は「生まれてこれまで、自分のやってきたことによってこういう嬉しさを手にすることができて、音楽をやっていて本当によかった」とコメントしています。

この出会いのあと、「釣りに行こう」や「中央線」「虹が出たなら」など宮沢の曲は矢野のステージで度々歌われ、矢野の弾き語りアルバム『SUPER FOLK SONG』にも収録されます。

1992年にはTHE BOOM&矢野顕子名義で共作曲「それだけでうれしい」を発売。宮沢も矢野のアルバム『LOVE LIFE』『LOVE IS HERE』などに参加しています。1995年には矢野顕子 & 宮沢和史「二人のハーモニー」をリリース。

2000年と2002年には、矢野顕子、大貫妙子、鈴木慶一、奥田民生、宮沢和史の5人のシンガーによる全国ツアー“Beautiful Songs”が行なわれ、ステージ上でも数々の共演が繰り広げられました。

2004年の宮沢のソロアルバム『SPIRITEK』では収録曲「何もいらない」が宮沢の歌と矢野の弾くピアノだけでレコーディングされました。

「矢野さんのピアノで歌うというのは、ライブでは何度かありましたけど、僕のレコーディングでというのはありそうでいてこれまでなかったんです。改めて矢野さんの凄さを知ったし、歌っていてとても楽しかったです。歌詞の世界や、僕のこれまで歩いてきた道を知ってて、ああいう演奏を選んでくれたのです」(宮沢和史)

「宮沢さんが、わたしのピアノをよーく聞きながら歌っている時、それは特別な空間を二人で造っている時なのです。そこには誰も入れてあげません。意地が悪いのです、わたしは。だって、誰にもこれを邪魔されたり、壊されたくないんですもの」(矢野顕子)

なお、矢野顕子に釣りの手ほどきをしたのは宮沢和史だそうです。矢野は「アングラーズ・サマー」という「釣りに行こう」への返歌を書いています(「アングラー」とは英語で「釣り人」のこと)。


GANGA ZUMBA「HABATAKE!」

2006年8月、宮沢和史をボーカルにした新バンドGANGA ZUMBA(ガンガ・ズンバ)名義の初めてのCD「HABATAKE!」が発売になりました。沖縄の雑誌「カラカラ」20号に、宮沢は以下のようにこの新バンドの音楽を説明しています。

〈GANGA ZUMBAを始めるにあたって、具体的なサウンドのイメージがあったわけではない。ただ、リズムが強くて、レゲエやブラジル、ラテンがベースのロックというキーワードがあるだけで、実際にどういう音楽になるかはわからなかった。ブラジル人パーカッショニストプレイヤーのマルコス・スザーノと、キューバのラテン・ジャズのトランペッターのルイス・バジェが一緒に演るというのは、普通、セッション以外ではありえないことだ。でも二人の間に僕が入っていくことで、どこへ到達するかわからない音楽的な化学反応が起こる。メンバーそれぞれ実力派ばかりだから、完成品も折り紙つきだ。こうした日本発の新しい音楽が、海外での経験をふまえてアジアの片隅で生まれたことを、沢山の人に伝えていきたい。〉

高野寛との共作曲でタイトル曲でもある「HABATAKE!」には、ここ数年、海外をツアーしてきた自分たちの姿も映し出されています。

〈最初にMIYA(宮沢)がサビの8小節を作って、僕がその続きを考えて完成させたんです。MIYAの作ったフレーズが、動物の中に潜む信じられないエネルギーを想像させて。また、僕らが世界中をツアーで廻る様子と、渡り鳥の姿が重なって、曲が完成した感じですね。〉(高野寛)

〈有無を言わさず突き進んで行く感じと、バンドの「これからマジで行くぞ!」という思いを重ねて僕は作りました。自分一人で完成させると、言葉が強すぎるドロ臭い作品となってしまう予感がして。だから高野くんのポップ・センスにお願いして完成させた曲なんです。結果楽しさがありながらも、メッセージ性のあるものに仕上がりましたね。〉(宮沢和史)(以上、雑誌「barfout」インタビューより)

日本、ブラジル、キューバ、アルゼンチン国籍のミュージシャン10人からなるバンドであり、共通言語は「音楽」というそのミクスチャーさが、GANGA ZUMBAの音楽の大きな特徴にもなっています。

以下はブラジル人キーボーディスト、フェルナンド・モウラの「ラティーナ」でのインタビューから。

〈僕たちは、ほんとにいろんな人たちが集まっているバンドでしょ? だけれど、そこに共通点もあるのが面白い。たとえば、僕はジャズが好きだけど、ルイス(キューバ人トランペッター)もマルコス(ブラジル人パーカッショニスト)もジャズが好きなんだ。一方で、タカノ(ギター)はもっとポップな要素があって、それはtatsu(ベース)もそう。それから僕はクラシック音楽を勉強したけど、レイコ(土屋玲子)もクラシック出身だったり。それがGANGA ZUMBAの音楽だ。それらの可能性を通して新しい音楽が生まれるんだ。〉


宮沢和史と仲井戸麗市

「宮沢和史の世界」関連イベント、10月28日に朗読&コンサート「GOOD DAY」を行なう仲井戸麗市さんは、宮沢が少年時代から敬愛しているミュージシャンです。

1970年にフォークバンド「古井戸」としてデビュー。78年からロックバンド「RCサクセション」として活躍。90年よりソロ活動を開始。ライブではポエトリー・リーディングも交えて、独自の音楽世界を構築し続けています。愛称はCHABO(チャボ)。

宮沢和史とは2001年に札幌で、2002年に鎌倉でふたりだけの朗読会を開いています。2004年のTHE BOOMデビュー15周年記念ライブでは、THE BOOMメンバー全員が熱望していた共演がありました

2002年2月14日の朝日新聞は以下のように鎌倉での朗読会をレポートしていました。

〈スポットライト一本の簡素なステージで、THE BOOMのボーカル宮沢和史が、本を手に自作の詩を読んでいく。三日、神奈川県鎌倉市の鎌倉芸術館で、ギタリストの仲井戸麗市との「ふたり会」と題した朗読会だ。恋愛や人生観をテーマにした宮沢の朗読を、熱心に聞き取ろうとする空気が張りつめているようだった。「夢やぶれし人の住む町……他へ行こう/他へ行こう/どこへでも」(「ホーボーへ」)一方の仲井戸は、宮沢とは対照的な、ひょうひょうとした朗読。十年以上前の作品の歌詞を少し照れながら披露し、会場をあたたかな雰囲気に包んでいく。最後は二人の共演で、宮沢の朗読に仲井戸がアコースティック・ギターの演奏を重ねた。(後略)〉 

宮沢はその夜の感動を次のように語っていました。 

〈CHABOさんの朗読をステージ袖で聴いてて、素敵だなあ、この人って思って。もちろん前からRCサクセションが大好きだったけど、実際付き合うと人間ってわかるよね。久しぶりに憧れられる先輩に出会えた。兄貴っていうかね。それがすごく嬉しくて。ロックの世界とか芸能界って「椅子」があるし、座れば楽なんだけど座ったら立てない。CHABOさんは座ってこなかったし、5キロぐらいあるギブソンを下ろさなかった。一回下ろしたらもうしょえないからね。〉


THE BOOM「風になりたい」

THE BOOMの代表曲のひとつ「風になりたい」は、THE BOOMが初めてブラジルの音楽にトライした1994年のアルバム『極東サンバ』に収録されています。レコーディングにはブラジルの打楽器がたくさん使われ、サンバのリズムで歌われています。

大きな帆を立てて あなたの手を引いて/荒れ狂う波にもまれ 今すぐ風になりたい/天国じゃなくても 楽園じゃなくても/あなたに会えた幸せ 感じて風になりたい

〈「風になりたい」を作ったときのことは今でもすごく覚えています。曲は先にできていたんですが、自分の家で歌詞を書いていて書き終わったあと、こみ上げてきたんです。目頭が熱くなって。自分がいちばん最初に感動したんです。これが人に伝わらないわけはないって、そのとき思って。できたときのことをこれほど覚えている曲はありません。〉(宮沢和史)

※宮沢和史直筆の「風になりたい」歌詞ノートも「宮沢和史の世界」会場内に展示しています。

「風になりたい」はコンサートでの人気から翌1995年にシングル・カットされました。その後、サッカーの応援や学校での合唱で歌われるなど、「島唄」のように幅広い年代に愛され、広がっています。2001年には毎年合唱コンクールで「風になりたい」を歌っているという北海道・稚内の小中学生たちがコンサートに招待され、THE BOOMと一緒にこの曲を合唱しました。海外でも中米の国ニカラグアの人気バンドMACOLLA(マコーヤ)がサルサのリズムでカバー。2005年には同国での宮沢のライブで共演しました。

2003年、THE BOOMは「風になりたい」を新たなアレンジでレコーディングしました。タイトルは「風になりたい(Samba, Nova)」。ポルトガル語で“新しいサンバ”という意味です。

「風になりたい」のその後を描いた「風になった」という詩が、宮沢の詩集「寄り道 2」(2006年)に収載されています。この詩は先日、世田谷パブリックシアターでの弾き語りコンサート「寄り道」でも朗読されました。


THE BOOM『百景』

21世紀になってTHE BOOMはライブ活動を通常のコンサートホールから野外中心に移していきました。長年国内のツアーを続けてきたTHE BOOMにとっても2001年から2003年のこの野外ツアーは、初めての発見、出会いの多い日々でした。

「町の大きい、小さい、会場の大小を問わず、いろんな野外でライヴを行ないます。おじいちゃんもおばあちゃんも子ども連れも、いろんな人たちが気軽に観に来られるライヴにしたいと思います。これまでコンサートが行なわれたことがない場所でも、いいところがあったらぜひ教えてください」

宮沢のそんな宣言から始まったツアーで、THE BOOMは野原に、浜辺に、丘に、河原に歌を響かせていきました。日本一の清流として知られる四万十川のほとりの村。高松の四国村のステージは幕末の建物を移築したという農村歌舞伎舞台でした。地元のお祭りに招待された新潟や長崎でのステージ。三宅島から避難し東京で生活する島民を対象にした体育館でのフリーライブ。メンバーのふるさと・甲府の街を見下ろす丘の上。玄界灘の風に吹かれた能古島のライブ。宇和島の闘牛場で360°観客に囲まれてのライブ……。

THE BOOMの2004年のアルバム「百景」には、数年間のツアーで日本各地を訪れた際に見た風景や、出会った人たちとの思い出が詰まっています。

大空を埋め尽くす 雲の切れ間から差す光/色あせてゆく季節の隅で 春を待つ白い花/海原を埋め尽くす 氷の切れ間に照る光/移ろう日々の心の隅で 葉を揺らす白い葉/春はいつも遠く 夏はすぐに去りゆく/北の果ての遠い街で 今も咲いてますか(「白いハマナス」)

収録曲「白いハマナス」は北海道・稚内の思い出を歌っています。

「THE BOOMを呼びたいと言ってくれる人たちのいる土地をまわったこの数年間だったのですが、その中に、日本最北の街、稚内もあって。あの土地で一緒にライブを作り、笑い、酒を飲んだ人たちは厳しい冬の間どうしてるんだろうと思ったんです。稚内の印象は、美しいグレー。どんよりとした雪、海、建物。決して明るくはないけどぬくもりはある、そんなサウンドになったと思います」(宮沢和史)


宮沢和史と極東ラジオ

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「極東ラジオ」は宮沢和史がイギリス人の音楽ジャーナリスト、ポール・フィッシャーと1997年4月にスタートさせた音楽番組です。大阪FM COCOLOをキー局に週に一回(当初は2時間番組。その後、宮沢ひとりで1時間番組に)、2003年12月まで352回オンエアされました。番組のコンセプトは「ジャンルも、国も、時代も関係なく、僕らがいいと思った曲を紹介する」ということ。ちまたのチャートとは無縁に、ブラジルも、沖縄も、インドネシアも、新旧関係なく宮沢選曲による音楽をオンエアし、自身のレコーディングやツアーのエピソード、アルゼンチンやブラジル、ポルトガルなど旅のお土産話も、いちばんにこの番組で報告されました。

毎回のテーマも宮沢が考え、そのテーマに合った音楽を選曲しました。宮沢最愛のブラジルのシンガー、ジョアン・ジルベルトが初の来日を果たしたときは3週に渡って特集。ブラジルの最新ロックやレゲエ、スカなど音楽ジャンル別の特集がある一方、「ドラム」、「バンドネオン」、「三線」、「二胡」といった楽器別や、天文に関係ある曲、子どもの歌、ご当地ソングなど様々な角度から企画が組まれました。 

リスナーから投稿された詩を宮沢が朗読する「ラジオ詩人」というコーナーは、宮沢の朗読会「未完の夜」につながっていきました。他にも、投げたコインの表裏で宮沢の回答が甘口か辛口かが決まる「アマカラ人生相談」というコーナーや、ヒットメニュー「ベビースターラーメン炊き込みご飯」を生んだ「夜食バンザイ」(1999年の大阪での公開録音で実演)などが人気を集めました。

番組には多彩なゲストが訪れました(後期は宮沢の自宅スタジオで収録)。矢野顕子さん、大貫妙子さん、鈴木慶一さん、細野晴臣さん、久保田麻琴さん、佐野元春さん、小泉今日子さん、夏川りみさん等々。「宮沢和史の世界」関連イベントに出演のねじめ正一さん、仲井戸麗市さん、友部正人さんも極東ラジオに登場しています。

「宮沢和史の世界」会場内に極東ラジオの試聴コーナーを設けています。ご利用ください。


宮沢和史と谷川俊太郎

宮沢和史が日本を代表する詩人、谷川俊太郎さんに出会ったのは1992年、雑誌「宝島」での対談でした。〈あなたの詩はとても今の人の詩だなと思いましたね。同世代の苛立ちとか不満を代弁している。それと意外に老成しているものもあって。ボクは「釣りに行こう」というのが好きですけれども……青くさくなくて、一種ユーモラスなものもあって、すごく特徴的だと思ったのね。〉と谷川さんは宮沢の詩への印象を語っていました。

谷川俊太郎さんは1931年生まれ。21歳のときに詩集『二十億光年の孤独』でデビュー。『みみをすます』『よしなしうた』など代表作多数。翻訳や「鉄腕アトム」の作詞、脚本、ビデオなどさまざまな分野で活躍しています。宮沢は自著『詞人から詩人へ』(河出書房新社)の中で、〈僕はまだ谷川さんの手のひらの上を歩いているのかもしれない〉と谷川さんへの想いを綴り、「多面的真理に関するテーブルポエム」「子どもと本」を朗読しています。また、谷川俊太郎さんの詩をフィーチャーしたbirdの「これが私の優しさです」では、宮沢が谷川俊太郎さんの同名詩を朗読しています。

2000年11月に発行された雑誌『週刊金曜日』で、「越境する『詞』と『詩』」というタイトルの宮沢和史と谷川俊太郎さんとの対談が掲載されています(司会は筑紫哲也氏)。以下は同対談からふたりの発言の抜粋です。 

谷川 言葉としていい言葉であれば、メロディがついているものであろうが現代詩であろうが、まったく区別はないと思っています。ただ、自分が歌の詞を書いた経験から言うと、詞は詩よりも少し“間抜け”でなければいけない、という感じを持っています。きっちり書いちゃうと音楽が入り込む隙間がない。いわゆる作詞された詞を文字で読むと物足りないのは、逆に歌としていいから詩として物足りないんだ、と思うことはあるんです。

宮沢 そのとおりだと思います。ぼくも詩と詞はまったく一緒だと考えています。ただ、詞はあまりきちんと書いてしまうと、完全に音楽を超えてしまうんです。そうすると音楽は必要がなくなる。だから詞にはどこか脇の甘さがないと、想像力がかき立てられないという部分がある。しかし自分でやると欲張ってしまって……。

(中略)

宮沢 谷川さんが人前で自分の詩を朗読しようと思い立ったのは、何かきっかけがあったんですか。

谷川 1960年代に、アメリカで行なわれていた詩の朗読を聞いてからです。(中略)そこで、自分の詩のなかで声に出したら受けそうなものを選んで、朗読を始めたのが最初です。やってみると、とても健康的な感じがしました。愛読者カードが2、3枚戻ってくるだけではなくて、目の前にいる何十人かが、退屈なら出て行くし、おもしろければ笑ってくれる。それがすごくうれしかった。

宮沢 音楽もそういうところがあって、歌って初めてスイッチが入る歌があるんです。記録としてはCDに収めてあり、楽譜にもなっているんだけど、演奏するたびに新しく生まれていく曲がある。詩にもそういう可能性はあると思うんです。

谷川 詩集の中にある文字は、まだ詩ではない。だれか一人でも読者がいて、その人がそれをいいと思ってくれたときに、初めて詩として成り立つ。朗読は、なおかつそれが「現場」でできるおもしろさがありますね。フルートヴェングラーは「楽譜のなかには音楽はない」と言ってるそうですが、それと同じで、詩を声にした場合、あるいは歌った場合に、活字にはないものが立ち上がってくる面が確かにあります。

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追記 当時の告知記事(ファンクラブ会報に掲載)

 熱心なファンが読んでいるファンクラブ会報で「客観的」なんていう言葉はおかしいけど(それでも書くけど)、「客観的」にみて宮沢和史というミュージシャンは日本の音楽シーンにおいてとても希有な活動をしてると思う。昨年の東欧、中南米でのツアーもそうです。誰もこんな道を歩んでない。世界各国で歌が歌われるなんてこんなこと誰も成し遂げてない。

 僕はいま世田谷文学館に集められた大量の資料と格闘しながら宮沢和史の足跡をたどっています。宮沢和史の旅の歴史とそのルート(グレートジャーニー!)から、「宮沢和史の世界」という地図を描いています。
 「文学館」なんだから旅する音楽家という部分だけではなく、その「ことば」にももちろん注目しています。詞人・詩人としての宮沢和史です。数々の歌の中に見え隠れするその死生観とは……。
 貴重な直筆原稿や、愛用品など「作家」っぽい展示もあります(「うんち一発!」なんて20代前半に描いてたマンガもきっと展示されちゃうでしょう)。宮沢和史がこれまでの15年間で推薦してきたたくさんのアルバム、本も展示し、販売します。ファンの僕らでも驚く、「客観的」な凄さと魅力。「宮沢和史の世界」展をお楽しみに。(杉山敦)
 
世田谷文学館「宮沢和史の世界」
9月30日(土)〜11月26日(日)

「宮沢和史の世界」関連イベント続々決定!
ねじめ正一さん、仲井戸麗市さん、谷川俊太郎さん、谷川賢作さん、友部正人さん、Felis Batuqueが世田谷文学館に登場します。

講演会 10月7日(土)15時〜
ねじめ正一 「宮沢和史の詞と詩」

宮沢和史が敬愛する詩人ねじめ正一による詩の朗読と、著書「言葉の力を贈りたい」でも触れた宮沢の歌詞の魅力を紹介。宮沢とはこれまでに何度か対談し、「東京羊羹」(ねじめ正一)は宮沢自身の朗読会でも度々朗読されています。「高円寺純情商店街」で直木賞受賞。


朗読会 10月28日(土)15時〜
仲井戸麗市 「GOOD DAY」

RCサクセション、ソロでの多くの作品で宮沢和史に大きな影響を与えたシンガーソングライター、ギタリスト。宮沢とは2001年の札幌、2002年の鎌倉でふたりだけの朗読会を行なう。コンサートではポエトリー・リーディングも交え、独特のグルーヴを生み出します。


朗読会&コンサート 11月11日(土)15時〜

谷川俊太郎+谷川賢作 「『宮沢和史の世界』に寄せて」

現代を代表する詩人谷川俊太郎とピアニスト谷川賢作によるコラボレーション。谷川俊太郎+谷川賢作名義で2004年にCD「家族の肖像」を発表。詩作における谷川俊太郎の影響を常に語っている宮沢和史はbirdのレコーディングで「それが私の優しさです」を朗読しています。


コンサート 11月18日(土)15時〜

友部正人「LIVE! no media/世田谷編 ミュージシャンによる詩の朗読会 プロデュース 友部正人」

1972年デビューのシンガーソングライター。1992年に宮沢和史と初の共演。その後「すばらしいさよなら」などを共作。ポエトリー・リーディングにも積極的に取り組み、宮沢が朗読を始めたのも友部正人主宰の朗読会シリーズ「Live no media」(2000年)への出演がきっかけ。
[出演]友部正人、三宅伸治、寺岡呼人(ミュージシャン)


ワークショップ 10月14日(土)15時〜

「リズム!ことば!うた!」

THE BOOMの栃木孝夫とパーカッショニストの今福健司らが作っているパーカッショングループ「Feliz Batuque(フェリス・バトゥーキ)といっしょに、手作りの打楽器でことばにリズムをつけて、うたって、楽しもう。


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