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「小林秀雄先生来る」を読んだ

先日下北沢で見た芝居の原作本を読んだ。

そしたら、これは原作というより台本そのものだった。びっくりした。この内容がそのまま芝居になっていたのだった。芝居を見る前に読むかどうか散々迷ったのだけれど、原作を先に知ってしまうとガッカリするパターンが多いのでやめておいた。映画なんかの場合、特に。

やめておいて本当によかった、と読んでみて思った。

後書きを見てみたら、2003年に劇作のために書かれその後上演され、2008年に本になったものだった。なるほどそういうことでしたか。

だから台本そのもののこの本を読んでみたら、芝居のその場の空気感が蘇る。

最後の小林先生の講演会のセリフなんて、なんと13ページもあった。こんなに長いセリフを覚えられる人って凄すぎる。

そして、そのセリフの温度感がとても心地よくて、読むとその時の温かみが蘇ってくる。その中で特にいいなと思ったところがここ。(長い。。)

だからあの人は「考える」という言葉について、こういうふうに言っています。『玉勝間』という本の中にあるんですがね。「考える」の「か」は発語です。何も意味がない添えた言葉です。とすれば「考える」は「むかえる」だ、と言うんです。「迎える」の「む」は「身」です。身はこの身体です、自分の体です。「身」の古い形は「む」です。そして「かえる」の古語は「かう」です。「かう」って言葉は交わるって意味でしょ。だから「考える」とは、自分の身が何かと交わるってことなんです。私がこのマイクのことについて考えるってことはですね、私の身がこのマイクと交わりを結ぶってことです。交うんです。「身」「交う」んです。それがこの「考える」という言葉の意味だと言っているんです。だから宣長さんの考えだと「考える」ってことは、向こうに物があって、こっちでそれを観察することじゃないんです。向こうの人はこっちへ来るんです。こっちの人は向こうへ行くんです。両方の身が交わるんです。そこで「身」を「交う」んです。両方の身が交わるんです。これが人間と人間との、本当の生まれながらの関係なんです。(中略)人は何でもふッとものを考える。と言うことは感ずることと同じです。感ずるということは向こうの身になることです。だから互いに向かいて思いめぐらすことを「かんがう」というのだと言っています。

                    原田宗典「小林秀雄先生来る」より

最初の行の「あの人」とは本居宣長の事。34年かけて「古事記伝」を医者をやりながら書き上げたその人。

この場面を見ていた時、「考える」についていままで考えたことなかった、って思ってちょっと恥ずかしくなった。

「考える」とはその対象を外から観察するだけでなく、そのものと交わること。そのものに身を寄せて思い感ずること。

「考える」って大変だなって思った。
でも、そんな風に「考えて」みたら、

何か分かることがあるかもしれない。それで何か変わるかもしれない。

「身を交う」ように「考える」。ちょっと試してみようって思う。

余談になるが、この長台詞をまるで自分の言葉の如く話していた俳優さん。
誰かに似てるってずっと思っていた。声質も誰かにそっくりだ。

今朝わかった。

北大路欣也だ。目線の運び方とか話し方がとても似ている。そして声質は、北大路欣也に橋爪功を足した感じ。さっきやっとわかって安心した。

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