今日12月12日は祖母の誕生日

🍀私の祖母。
父の母親の誕生日
私の祖母は、生きていたら、106歳くらい。
卯年
私の父を産んでから、心臓を悪くしたらしく、ずっと心臓の薬を飲んでいたな。
父を含めて7人の子どもを授かる。
長女さんが、3歳くらいのとき、自家中毒で亡くなったそう。
最期は、ラムネが飲みたいって言って、良くなったら飲もうねって言ってたそう。
仏壇におけしのとっても可愛い女の子の白黒写真と、ラムネが供えられていたな。

私が、高校生くらいの時かな⁉️
ペースメーカーを入れる手術をして、
86歳くらいまで、ペースメーカーの電池を入れ替える手術をしながら、生きてくれました。
最後は、私の二番目の子どもが授かったとき、その子の産着を買いにデパートに行ったそう。
その日がとっても寒い日で、風邪をひいてしまいました。
それがこじれて肺炎になり、亡くなりました。
病院に行ったときは、苦しそうにあえいでいて、意識は、ほとんどない状態でした。
🍀最後にお話ししたのは、いつだろう。
どんな話をしたのか、思いだせない。
子どもの頃、私を広島に新幹線に乗せて、良くつれていってくれた。
蒲刈島のお墓参りもつれていってくれた。
原爆の話もよくしてくれた。
原爆落ちて、身内を探して救護所をまわった。
🍀いくつめかの救護所で、寝そべって手招きする人がいる。
側に行くと、変わりはてた姿になった、身内の方だったそう。
何日かして、すぐ亡くなったそうだ。
7つの川が血に染まったこと。
何十年も、草木が生えないって言われてたこと。

ハギノさんは、広島県の蒲刈島で生まれ育ったそう。
お裁縫がきらいで、家庭科の授業のときは、裁縫箱をかかえて、逃げていたそう。
🍀私が子どもの頃、何度も聞いた話だ。
若い頃の写真は、可愛くて、綺麗だった。

ハギノさんのお父さんは、
ハギノさんが子どもの頃亡くなり、
お母さんは、生活のために、
連れ子さんのいる男性と再婚したそう。
連れ子さんは、男の子で歳上だった。
その子と口喧嘩になると、義父の前では、
実の母親から、こたつの中で、足をつねられていたそうだ。
母親は、再婚の夫に、とっても気を使っていた様子が伝わる。
ハギノさんが、年頃になると、
その義理の兄と結婚させられそうになり、
逃げて九州まできたそう。
九州の高木さんに、同じ広島県出身の祖父をお世話してもらい、結婚したそう。
祖父は、はじめは、馬の餌となる藁をあつかう仕事だったそう。
その後、大きい紙袋の底を縫う、成袋業をはじめたそう。
祖父まさるさんは、とっても手が器用で、何でも作ってくれたと、父から聞いたことがある。そして、とってもやさしい方だったと。
戦争中に赤紙が来て、徴兵検査に行くと、身長が足りなくて、落ちて家に帰ってきた。
祖母は、非国民じゃって私に冗談ぽく言ってたけど、
周りから、きっとそういう風に言われたり、祖父も、風当たりがきっと強かったろう。
祖父は、49歳肝硬変で、最期は肺炎になり、ペニシリンが合わなくて亡くなったそう。
父が、21歳の時に。


父は、空襲警報のとき、なかなか防空壕に入らなかったと、父の姉が話してくれた。
父が3歳の頃終戦
祖母ハギノさんは、私をデパートに連れて行って、良くお洋服を買ってくれた。
大島紬の帯や、訪問着のバックや、草履も買ってくれた。
おばあちゃん家に行くと、いつも何か作ってくれて、食べさせてくれた。
梅酒や、アロエ酒をふるまってくれた。
おばあちゃん家に、最期の方は、行くのがおっくうになって、足が遠退いていたな。
なんでかな。
同じ話しを聞くのが、めんどうだったからかな。
なんとなく、気が重くなって、申し訳ないなあって思いながら、祖母の家の明かりをみていたな。
おばあちゃん、ごめんね
おばあちゃん、いっぱいいっぱいありがとう。
大大大好きだよ。ずっと。
自分の記録の為に書きました。
もし、みてくださった方、ありがとうございました。

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