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戒め 3/5

昔の自分を思い返しながら、考えた事。

私論だが、ロジカルを基点に置いて考えられた否定、批判は「正しさ」を纏った強い言葉となって他者にぶつかる。
その対象が芸術などの「間違い」が無い表現の領域になると、当人にとっても相手にとってもとても悲しいことが起きると思う。

ぶつけられた側は己の自由な部分を他人が振り翳す「正しさ」になぶられて拘束され、
ぶつけた側は振り翳した「正しさ」によって何者かになれたという感覚に酔い、見える景色も正しさに酩酊したものとなっていく。

誰かが言っていた。否定は自分を「何か考えて生きてる風」に見せるには一番簡単でお手軽なツールだと。

共感するのと同時に耳が痛い言葉でもあった。
身に覚えがとてもあったからである。
時間が経ったおかげで昔の私は否定した対象の「良いところ」に気づけなかっただけなのではないだろうか、という考えを持つこともできるようになった。

ただ、どうしても個人の好みというのは発生するし、「なんとなく嫌い」「なんとなく好き」で世界の7割ほどは作られていると思うので、先立った「なんとなく」の感情も否定せず見守りたいところではある。

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