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鹿森さんのこと


鹿森さんとはじめて会ったのは
K病院の508号室だ。

がんの手術のために、わたしは4人部屋に入院しようとしていた。
てつづきをすませて母と一緒に荷ほどきをしていたら、カーテンの向こうから点滴を引きずって、となりのベッドの患者さんがでてきた。
それが鹿森さんだった。

はじめましてのあいさつを交わす。
わたしとおなじ手術をすでに受けた鹿森さんは、不安がこぼれでる母に
「私もできたから大丈夫ですよ」と言ってくれた。
母はその言葉ではりつめていたものが解けたと今でもいう。

同部屋の3人はみんな婦人科系のがんの女性だ。
鹿森さん、30歳になったばかりのピュアなヤンキーのさやこちゃん、それにわたし。
私が入院して10分後には、修学旅行の夜さながらに女子トークが止まらなくなった。

どんな手術なのか、体はどうなるのか、病棟の生活はどんなか、みんな喋りたいことと知りたいことに溢れている。

なんだ、どんな状況でも楽しくてもいいんだ、と笑えてきた。
入院生活は、病気の事さえなければ最高に楽しい旅行のようだ。

さやこちゃんは子どものように、看護師さんに「触るときは先に言って!」とだだこねたり、痛いことをする医師の手をはたいたり、
処置されるたびに鹿森さんと私は大笑いした。
ほかの大部屋はみんなカーテンを閉めていたけれど、508号室はだれかがしんどくない限りカーテンを開け放して治療を応援しあっていた。

手術の前の2日間、食事はおそなえもののような量のお粥だ。
鹿森さんは常食じゃない私を気遣って、カーテンを閉めて別々にご飯を食べている。
夕食の後に、手術の最終準備をした。

手術後に着替えさせてもらう、前開きのパジャマを着てみる。
わたしを産むときに母が着ていた
マタニティードレスだ。
ファッションショーのように、カーテンからでていくと、2人は大爆笑して泣いていた。

痩せすぎていたわたしの胸は丸出しだった。
「ねえ、これこんなにみえてていいのかな?」と聞くわたしに、さやこちゃんは
「笑わせないでよ、傷がひらく…」ともだえている。
ためしに着てみなかったら、術後に半裸で転がされるところだった。

手術に向かう朝は、はやくから2人がずっと見守って見送ってくれた。
なにか歌で送ってあげよう、と鹿森さんが言ってくれたので、ドナドナをリクエストした。
ストレッチャーに乗ったら、手術室まで猛スピードで運ばれていくよ、と経験した2人が言う。
だからドナドナはすごいスピードで流れるよ、と言って超高速でドナドナを歌って手術室に送りだしてくれた。

ドナドナドーナ、ドーナ、仔牛をの〜せーてー。

手術が終わってしばらくは、笑わせないであげるよ、と事前に約束してくれていた。
その言葉通り1日は放っておいてくれたのだ。

長い一夜が明けて、わたしは看護師さんに立つことを促される。
倒れそうになりながらも3秒ほどたつことができたとき、
カーテンの向こうから鹿森さんが
「たてた?たってるの?すごい」と拍手してくれた。

立っただけで拍手をもらったことを、
わたしは生涯忘れないと思った。

痛みもたけなわのときに、コントのように私のベッドが壊れたときも、鹿森さんがナースコールしてたすけてくれた。

鹿森さんはわたしのヒーローになりつつあった。

病状がわるくなっても、いつも現実的にできることを淡々とやっておちゃらけている。

なかなか入らない注射針を刺しにくるいろんな人を面白がっている。

病院食で出ないと思って、ピザを食べてワインを飲んで入院する。

わたしが褒めると、やんちゃ坊主のようにはぐらかす。
結果的にツキちゃんが一番たいへんだったね、
といつもさりげなく気遣ってくれた。

たった10日ほどの共同生活で、縁あって偶然出会えた人。
年齢も境遇もこえて、本当に尊敬できる友達と出会えたことの不思議をおもう。
だいたい病院の大部屋なんていじわるな人がいそうなのにね。

退院してからも、508会と称して自然な流れで私たちは会いつづけることになった。
鹿森さんはクラリネットを吹く人だったから、よくコンサートを聴きにいった。

オーケストラの中で、鹿森さんの息がカッコいいメロディを奏でる。

空気をふるわせてわたしの胸に届く。

彼女の姿が、生きることは楽しいことだと体現してくれていた。
いつ会ってもお互いが生きていることがうれしい。

入院から5年のあいだ、わたしの病状のつらさや鹿森さんの緩やかな悪化などいろんなことがあった。
彼女はいつも、定期的に病状を知らせてくれていた。
「病院に行ってこうだったよ、帰りにおいしいものを食べました」
鹿森さんの口から愚痴や嘆きを聞いたことがない。
がんの転移がおこりはじめたとき、鹿森さんは、
今まで治療で苦しかったことがないから
もっと治療を試してみたいと先生に言っていた。

鹿森さんと最後に会ったのは、新宿のデパートだ。
アルプスの少女ハイジのようなとろけるチーズをこれでもかと一緒に食べた。
気どりすぎの若い店員さんにアレルギーを尋ねられて、飄々とキウイアレルギーの説明をしてあげている。
それからいつものようにごはんをたくさん食べ、病気の治療の武勇伝を聞かせてくれた。
彼女にかかると、喋りすぎの隣のベッドの人も、具合が悪くなったこともちょっとした冒険なのだ。
そして、5年のつきあいの中で初めて家族の深い話をしてくれた。

いつものように一緒に写真を撮って、
エレベーターの前で別れる。
永遠に生きていてくれたらな、と切ないような気持ちになったのを覚えている。

近いうちにひとりでは歩けなくなります。
先生にそう言われた鹿森さんは、
そうなったら一階に引っ越さなくちゃ、
と言ったそうだ。
どこまでもじぶんの力でじぶんの道を進む人だ。
ホスピスも予約していたし、
508会の予定をたてて会う約束をしていた。さいごまで勇敢に、生きる気まんまんだった。

もう一度アラスカにオーロラを見にいくって言っていたな。

彼女の死を知った朝、出勤直前まで知人とやりとりをして、なんとか葬儀の場所を知った。
新札をおろしにいき、コンビニエンスストアで薄墨色の筆ペンと封筒を異国の店員さんから買う。
バイト先で、友達のお葬式で早退するのはどうかと思うと上司から言われて、
しばらく涙をこぼしながら働いていたけれど、
辞めてもいいから行こうと決意した。
結果的には同僚が助け船をだしてくれて、
私は葬儀に行けることになった。

走って走って駅まで行き、知らないところをめざす。

永遠につかないんじゃないかと思いながら、揺れる電車の中で
黒っぽい服を着たわたしは
薄墨色の筆ペンでじぶんの名前を書いた。

お葬式の帰りに、
電車がトンネルにはいった。
きっといまごろ、
鹿森さんは火葬場のトンネルの中をくぐっている。
トンネルの中。

生まれるときに通ったところ。
死ぬときにとおるところ。
私の中にも、あるところ。

がんになったことで、触れられたことのない場所に、器具をなんどもいれられることになった。
主治医は子宮がん検査をする時、
「今から5秒絶対に痛いです」と言った。
5秒、耐えると血が流れてとまらなかった。

わたしは、わたしの中にあるトンネルを知っているとおもった。

人がなくなると脳は3秒ほど生きているのと似た状態になり、
5秒ほどα波、θ波がながれ、
最後に止まってしまうまで
イメージする、思いだすことに使う部分が
きわめて活発に動くという。

海から陸にあがって
生まれる前の5秒。
赤いトンネルの中。
死ぬまでの5秒。どんな景色をみるんだろう。

あれからなんどもなんども
鹿森さんは私を助けにきてくれる。
彼女のしていた明るい色の腕時計は、
私がもらった。
ヒーローベルトだ。
わたしの中に彼女のつよさがある。
たまに素敵な色だと声をかけられる。
秒針の音がとても綺麗で、
しんどいときには
耳に当てて、
ただ聴いている。

鹿森さんの呼吸の音のクラリネット、
生きた証のメロディ、腕時計、
心臓のきざむリズム。

死ぬのも生きるのもこわくなったとき、
鹿森さんの声が聞こえる。

私もできたからだいじょうぶ、
しんどいよね、
でも笑いながら、いまするべきことをしてたらだいじょうぶ。

犬でしょ、音楽でしょ、ごはんと、旅でしょ。
生きるって、
楽しいことたくさん!


#フィクション #ノンフィクション



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