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夜に似ている

夜はわたしが飼っていた雑種の犬だ。
だけど本犬に聞いたらじぶんのこと、雑種の犬だなんていわないと思う。
夜は夜だ。
誇りたかくて、自分勝手で、スターみたいな犬だった。
柴犬とスピッツがまざったような美しい顔をしていた。柴ピッツだ。
見るからに生きる力に満ちた夜のようだ。

夜がはじめてうちにきた日に、わたしは思った。全国に5000匹くらいいそうな犬だ、散歩中にすり替わってもたぶん気づけない、と。
そう思ったじぶんを今では懐かしくおもう。

たとえ人間に生まれ変わっても、ネズミでも、草になっても、夜だということがわかる。
犬が好きなんじゃなくて、夜が好きなんだ。

夜は顔のフォルムがくずれるくらい、狂気にみちたスピードで走った。
わぁうわぁうわぅうと、聞いたことのない声を発していて若干おそろしかった。
わたしが思っていた犬とちがう……とよく思った。


わたしは、夜にお手を教えるのを失敗してしまった。
おぼえたのは言いつけに従うことではなくて、じぶんの手は魔法の手だということだった。

この手を出せばなんでもかなう、と。

私が受けとらないと、「ここに置いておきますから」と二の腕に勝手に手を置いて、そのあと褒めてもらおうと頭を下げてつきだしていた。

彼女とわたしは似ていた。
散歩だいすき。橋をわたるのだいすき。
公園だいすき。あたまをなでられるのだいすき。
怒られるのだいきらい。

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ある雨の日のこと。
バタートースト色のからだに似合うだろうと、水色のゴミ袋を半分に切ってしっぽを通す穴をあけ、夜のレインコートにした。
母と私でほめたたえたら、王女さまのような顔になってゴミ袋レインコートのまま、行進のように散歩にくりだした。
おしゃれなレインコートを着た小型犬とすれ違ったあと私の顔を見て、「勝ったよね!!」って顔をする。

彼女は好きなように生きていた。
夜とわたしはいつも果し合いのように、きのみきのままで向かい合っていた。

2人で庭にでて、半日ほどただじゃれあって時をすごしたことがある。
ふと気づいたら、私たちは同じ言葉でしゃべっていた。
どうしてなのか、いつのまにか共感とシンクロがきわまって、おたがいの感情がテレパシーのようにわかるのだ。
夜が、もう少しでしゃべれそうな感じがひどく確かにあった。
そんなことは、17年の彼女とのつきあいで
たったいちどきりだった。


永遠に生きてくれそうな気がしていた夜だけど、
15歳をこえると耳も目も方向感覚も使えなくなって、ただじっとしていることが多くなった。

そんななかでも車の後部座席に乗って、夜は一人暮らしの私の街までやってきた。
わたしが車のドアを開けると、いつもしていたように散歩に行こうと立ち上がってくれた。
もうその頃は、ほとんど動くこともなかったのに。

きっと覚えていてくれたのだ。
なにかたのしいことがある。
起きてさんぽにいかなくちゃ。
それは、もう彼女も覚えていないからだの奥底の記憶。

認知症の人は、握手するときに画鋲を握らせると、その人に会ったことを忘れてしまっても、
なんとなくきらいなことを覚えているらしい。

なんでかわからないけど、たのしい。
おたがいに忘れてしまっても。
そんなふうに思える関係があったなら、生まれてよかったと思える。
たとえ土になっても。

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彼女がなくなったのは17歳のときだ。

なくなる前日までじぶんでさんぽにいき、トイレにいき、たまごと牛乳をのんだ。
夕方にぐあいがわるくなり、母につきっきりで
添い寝をしてもらった。
もう鳴くこともなかったのに、なくなる2時間まえに一声ほえて、それからおだやかになった。
母が「夜ちゃん、眠れたらだいじょうぶよ」と言い聞かせた。
むかいあおうね、といって横たわる夜の向きをかえたら、すーっと息をひきとった。

わたしは始発で実家にかえり、数時間まえになくなった夜に会った。
夜はひかり輝いていた。
神々しさに、息をのんだ。
ただただ美しかった。
かなしみよりもおどろきを感じた。

生きぬいた、そのことのすごさ。

あんなにやりたい放題、はちゃめちゃな犬生を送って神様みたいに死んでいった。
こんなふうに死ぬことができるなんて。
すごい犬だ。
わたしには到底届かない。
尊敬します、という言葉を心の中でくりかえしていた。
ぜんぶ、見せてくれたんだ。


家をみおろす、いちばんいい場所に父が穴をほった。
母が腕のなかに夜を抱っこして、葬るまえに
暮らしていた場所を一周した。
わたしは夜に似合う、かぼちゃの花を摘んだ。
ミルクをしみこませたわたしの服を口元に置いて、麻のふくろにくるんで3人で夜を葬った。

なんの打ち合わせもしていなかったのに、すべてが自然にすすんで、なくなってから半日もたたないうちにあの子は土に帰った。

ぜんぶの行いが、心から自然にわいた流れにそっていた。
理想の葬いのことをおもうとき、自然発生したような夜のお葬式のことをいつも、思う。

いまでもあの子のお墓は、木々がひとりでに屋根をつくり、生きものを優しく憩わせるような不思議な場所になっている。

彼女の上に土がかかり、その上に雪が積もる。
初めて雪が降ったとき、「踏んでもいいのかな?」とそっと一足ふみだした夜を思いだす。

わたしは、死がこんなふうに生きる力になることを彼女からはじめて教わった。
夜の飼い主であったことがわたしを勇敢にしてくれる。

それはそんなふうに彼女が生きたからだ。
夜のように生きたいといつも思っている。

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わたしは全身麻酔の手術を受けたことがある。
麻酔から覚めたとき、ふと夜や祖母が、ただまわりに存在しているのを感じていた。
応援するでもなく、見守るでもなく「ああ、かたちはないけどそばにいるんだな」と、からだで納得した。

結果的に、わたしは夜と同じ手術を受けたことになる。
避妊手術みたいなものだ。
避妊手術は、避恋手術でもあるかもしれない。
夜とおそろいだとおもうと誇らしい。
老化が早まったからか、数年前から白髪がでてきた。
白と茶色と黒の癖毛。
ぬいてみると、夜の毛とそっくりだった。

夜は年老いて、前庭障害になったことがある。ある日突然くるくる回りだし、上も下も右も左もわからなくなってパニックになった。3日ほど回り続けて、吐いて、平衡感覚はおかしいままだったけれど、発作のような症状はなんとかおさまった。

数ヶ月まえ、わたしもある日起きたら世界が回っていた。吐き続けた。
頸椎の老化による回転性のめまいだった。
吐きながら、夜のことを思った。
怖かっただろう。つらかっただろう。
でもあの子も乗り越えたと思ったらわたしもがんばれる。
結局、救急車で運ばれて、めまいは一週間ほどでおさまっていった。

わたしはどんどん夜に似てくる。

生きれば生きるほど老いて、夜に近づいていく。
憧れているもののようになっていく。
それはなんて嬉しいことだろう。
愛しいことだろう。


きっと微細に世界をみれば、どんな動物も植物も夜みたいに感情をもち、やりとりをしているんだろう。
コミュニケーションできない生きものなんていない。

友達になれるものを、食べたり愛でたりして
私たちは暮らしている。
かわいい、と食べたい、の境目はなんだろう。
あそび、は狩りの練習だったりする。
草食動物も肉食動物も、草も木も鳥も、与えられた役割を渾身で生きることしかできない。
だからこそ生きとしいけるものが、みんな命をまっとうして、その生きものらしく生きられるといい。
互いを敬愛しながら。

生きることは、ほかの生きものの元気になることだ。

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「わたしなんでもできる、
外の世界がみたい。
ひとりで生きていけるけど
今はここにいてあげる。」

夜、一緒にいてくれてありがとう。


夜は、アイスが好きだったから天国でアイス屋さんをやっている気がしている。
わたしが死んだら、夜のアイス屋さんでアイスを食べるのを楽しみにしている。

#エッセイ#犬 #キナリ杯#ゆたかさって何だろう

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