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宇宙のおわり



乳がん疑いが晴れて「さあ!こんどこそ生まれ変わったのだ、新しい人生をはじめよう」と思っていたところ、謎の頸椎の激痛におそわれて半月ほど拷問のような日々をすごしていた。
人生で2番目に痛い。
ちなみに1番目は卵巣がんが捻転したとき、3番目は顎の矯正器具が締まりすぎて食い込んだときだ。
がまん強い方だけど、幾晩も眠れない日が続いてさすがに泣きそうになった。

もしかして精神的なものかしら、と疑う。
未来について、仕事について考えると苦しいから、具合が悪くなると都合がいいのだろうか。
もし潜在意識が、病気になった方が心が楽になると思ってこんなにからだを痛くしているのならとても悲しい。
もう病気じゃなくて大丈夫ですよー、と念のためじぶんに言い聞かせてみる。
痛いことに飽きたのでもう病気はやめようとおもう。

筋肉を緩めるために筋弛緩剤を飲んでいる。
リラックスしづらい人生だ。
優しい薬剤師さんに、「どうして筋弛緩剤を投与すると死ぬことがあるんですか?」と聞いてみた。
説明を聞きながら、死は究極のリラックスなんだなと思った。
つらい一日の終わりに薬剤師さんが薬湯の入浴剤の試供品をくれて、それが一番の治療だった。

わたしは神経質で心配性だから、うつになったり寝たきりになるのは簡単だ。
からだが辛いから放っておけばそうなってしまうと思う。
だからこそ、しんどくてなにもしない人生にならないように、マイナスにフォーカスしないように拳を握っている。
こんにゃろう!とファイティングポーズをとる。
同じ時間は続かない、と言い聞かせている。
じぶんの外側に、内側に、想像以上の大胆な世界が広がっている。
なにを失っても、また新しい世界が開ける。見えなかったものがみえる。
じぶんの意識や考えをこえて、いつだってからだはダイナミックに、生きることを喜んでいる。
いいことも、わるいことも、もっともっとあるぜ。と神様が笑う。

精神腫瘍科医の清水研さんの『もし一年後、この世にいないとしたら。』を読んだ。
最悪のクジをひいた気分です、というがん患者に著者は「最悪のクジならひかなければよかったと思いますか?」と聞く場面がでてくる。
こんな人生なら生まれなかったほうがよかったですか?と問われているように感じた。
奇跡のような偶然によって生まれなければ
これもそれも味わうことがなかった、人と会うこともなかったとおもうと不思議な気持ちになる。答えはからだの底にしかない。

この本の中で、レジリエンスという言葉を知った。
可塑性、復元力、弾力性などの意味だ。
柳のようにやわらかに状況に応じて元に戻ろうとすることをいう。
人の心の、からだの中にあるレジリエンス。
失った臓器の代わりに全体で対処する体。
事実は変わらなくても光の方をむく力。
その力があらゆるものに備わっていることに果てしない希望と畏敬を感じる。

自分の中に、自然の中に、病気の友達の中に何度もみた目をみはる強さ。
そして、なくなった友達や祖母や犬がその姿で教えてくれる。
なんだ最初から最後まで大丈夫だったんだ。
ただ遊べばよかったんだ。
きっと死んだときそう思うだろう。
小さい時のわたしは、チャイムに背も届かないドアをたたいて友達を片っ端から訪ねていた。
これがダメなら、それ。それがダメなら次。
方法はいくらでもある。
ぜんぶの生き物と遊びたい。
口癖は「生まれた時から知ってるもん」だった。
楽しくいることがわたしたちのお仕事なんだ。

あたりまえとして在るものの凄まじさや不思議に気づいていくのが、生きる道のりの愉しさかもしれない。
それならば失うこともあまり怖くはない。
借りていたものをかえしただけかもしれない。
疲れて立ちどまったところに咲く小さな花。
寝ころんだ隣を歩く虫、部屋を横切る鳥の影。弱ったときしか見えないもの。
在るものを数えるよろこび。
気づくこと、きづくこと。

美術館や本につまっているのは、かろうじて形につかまえられた美だけれど、一瞬で消える目立たないところに美は無数に散らばっている。

大学生のころ、歴史学の授業で先生が言っていた。「すべての歴史は現代史であるといわれています。なぜなら歴史を見ているのは現代の私たちで、その解釈によって歴史が変わるからです」と。

わたしは人生についておもうとき、よくオセロを思い浮かべる。
真っ黒だった盤のうえに白いコマをおいた瞬間、すべてがうらがえって真っ白になることを。
わたしは、この世界に無限に散らばっている白いコマを星のように思い浮かべる。
探しにいこうか。

2019年の年末、オリオン座のひとつ、ペテルギウスが急速に暗くなっていることで超新星爆発の前兆ではないかというニュースが流れた。
永久に変わらないと思っているもののしなやかな変化、時間の流れの悠久さに目が覚める気がする。
いま見えているペテルギウスはもうないかもしれない。
生きている間にみられるものなんてほんの少しだ。見られなくても、想像するだけでうれしくなる。
人知れず降る流れ星のように。
公開されない秘仏のように。
早朝に美しい音で割れる氷のように。


最寄りの駅で人身事故があった数日後、線路沿いの奥まったところに、制服姿の男の子と女の子がしずかに花束を置いていた。
わたしは、この世からなくなったもので悼まれないものはいないのだと思った。
この世にうまれたもので祝われないものはいないのだと思った。

宇宙のおわりには、
あらゆる天体が死に絶えたあとは、数種類の素粒子が飛んでいるだけのさみしい世界になるという。
最後には宇宙は空っぽになり時間は意味を失うという。

わたしたちのからだは小宇宙だ。
大宇宙の中で、小さくまるく明滅しあって消えては生まれていく。
小宇宙同士がうつくしい交信をしている。
ひとつひとつのからだに起きることは大宇宙の中に抱かれている。

みんなじぶんのことをわたしって言って、
みんなじぶんのことを孤独って言って、小宇宙はとても似ている。

何千年も同じことで悩んでいる。
声にすれば、それを声にできれば共鳴できる。言葉じゃなくてもいい。
音楽でダンスで絵で、存在だけでも表現だ。
みんなで聞きあえば、癒しがおとずれる。

人間はじぶんより弱いものを守ることができる。そのことで救われる。

人間は、わかってもらえないなら死ぬ、ほどの欲求のエネルギーを持っている。
だれか、見ててくれれば。
だれか、わかってくれなきゃ。

犬の遊びを見守っていただけで、小さなこどものそばにいただけで、友達になれる。
見ていてくれるだけで満たされるものがある。

わかってもらえた、と思うだけであっけなく氷解していく。

玉葱の皮をむくように衣をはがして本来のじぶんにもどっていこう。
最後の皮をはがしたら、そこにはなにもなくて、おめでとう!って書いた紙吹雪が舞う。
命をもらっていきている。順不同にしんでいく。そうやって、いま生かしてもらっていることのツミホロボシやオンガエシに。

名前もなくし、肩書きも、種類も関係なく
星のからだとして生き物と出会いたい。
星座のひとつとして触れあいたい。

宇宙の終わりになにを願うことがあるだろう。
ただ感覚のぜんぶで、漂うだけ。
味わうだけ。


#フィクション#ノンフィクション

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