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わたしのカムパネルラ


ある日、ふと思ったのだ。
Sちゃんとわたしは『銀河鉄道の夜』にでてくる二人みたいだなあ、と。
すべての色を含んで真っ暗にみえる、茫漠とした宇宙に刺すほど光る星々。そのあいだを縫うように走る線路を手をつないで歩くSちゃんとわたしのイメージが浮かんで消えた。

そんなイメージが浮かんだはいいけれど、『銀河鉄道の夜』がどんなお話だったのか、いつ出会ったのか、何回読んだのか、まるではっきりとは思い出せないのだった。
気がつけば知っている、空のほうに存在している物語みたいに思っていた。


Sちゃん、いや、カムパネルラにちなんで仮に鈴子ちゃんと呼ぼう。鈴子ちゃんと出逢ったのは6年まえだ。
鈴子ちゃんは絵を描くひと、わたしは歌を歌っていたので、おなじ催しものに参加する機会があって知り合った。
おたがいに持病を抱え、内向的な性格もあって友達つきあいがうまくない私たちは、ゆっくりと距離を縮めて魂にふれていった。
言葉を使わない往復書簡のように、絵と歌を送りあい、作品を見せあうことでやっとテレパシーのようにコミュニケーションができるのだった。
わたしは当時、深刻な病をたずさえていて、よく死のことを考えていた。
わたしが死んだら、鈴子ちゃんがお葬式にきて号泣して、そしてわたしのことをたくさん褒めてくれるんだろな、と想像することもあった。
鈴子ちゃんも精神的な病とともに生きていた。鈴子ちゃんの絵のモデルをしに彼女のアトリエに行って、休憩と言って二人でお菓子を食べているとき、わたしは言った。
「ずーっとこうやって生きていけたらいいのに」と。

生まれた世界は私たちには美しくて苦しかった。絵や歌のなかにいるとき、私たちは呼吸ができる。
今おもえば、二人で生死の曖昧なふわふわした線路を歩いていたようだ。あやういバランスで。
「現実的になりなさい」と二人とも言われたことがあった。
眠るのが大好きな私たちは、「起きたくなるような現実になってから起こしてー」とふざけあった。

「どうしてこんなに苦しいのに生きなきゃいけないんだろう」。
鈴子ちゃんはそう言ったことがある。
そうして彼女はある日突然、みずから命を絶って旅立った。
その日の早朝にも言葉をおくりあっていた。

彼女のおうちにうかがうまで、数ヶ月が必要だった。迎えいれてくださったご家族がつくった祭壇にはわたしの撮った鈴子ちゃんの写真が飾られていた。
懐かしい彼女のアトリエには、わたしを描いた絵が置かれていた。


『銀河鉄道の夜』を読みなおしてみて、この作品に賢治は何度も手を入れて、未完成であることを知った。
「後期形」では作者が消してしまった部分、「初期形」に書かれた言葉にわたしはひきつけられる。


「さあ、きっぷをしっかり持っておいで。おまえはもう夢の鉄道の中でなしに、本当の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐ歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つのほんとうのそのきっぷを、決しておまえはなくしてはいけない」。

たったひとつのじぶんのからだを与えられて、生まれたときにもらった切符。
その切符とペアでわたされるのは死ぬ切符。
生まれないと死ねないから。
生まれて、死んだ鈴子ちゃん。
あなたのからだでなにを体験し、感じていたの?いまどこにいるの?

2枚の切符を手にした私たちは、どう使えばいいのか途方にくれていた。
眼の前にはみわたす限り、見たことのない草花や不思議な動物がいて、ずーっと見ていたいけれど、生きることは哀しくてさみしい。
人を憎んだり、嫉妬で気が狂いそうになったり、どうしようもないわたし。
働け、一日にひとりも傷つけるな、ああ、ひとのうつくしいところばかりがみたい。
じぶんから逃れて、大切なものを世界に差しだせたなら。
わたしの2枚の切符でこの世にいいものを残せたなら。
「ほんとうのさいわい」に触れられたなら。


初期形の原稿で「夢の鉄道の中でなしに」「生」の現実の切符をつかってまっすぐに歩いて行かなければいけない、と言った賢治さん。
一方で、燦爛とあまねく宇宙の夢の世界がくっきりとした手触りで示されている。
死んだ人はそこにいるんだろうか?

鈴子ちゃんがなくなってから2回、夢を見た。
一度めの夢で、鈴子ちゃんは夢の中でもなくなっていて、天国と電話がつながっていた。
「やっと話せた。またときどき電話がつながるから、そういうときに喋ろうね。」と私たちは言った。
二度めの夢でも鈴子ちゃんはなくなっていて、鈴子ちゃんがなくなったことを2人で綺麗な歌にしていた。

夢なんてじぶんの無意識が見せているものだから、思いこみや妄想だよ。
そう思うけれど、鈴子ちゃんは生きてるあいだに「夢を作品にしたい。夢で見たことを大事にしてる」と言っていたから、なんとなくいまも通じている気がしている。


わたしはずーっと鈴子ちゃんとともにいる。
あれから数年が経ったけれど、毎日鈴子ちゃんと話している。
こんな感情は今まで知らなかった、鈴子ちゃんがはじめて教えてくれる気持ちがいっぱいある。鈴子ちゃんとおなじ気持ちになったりもする。
さっきまでいた人がもういない、当たり前が奇跡でつながっている銀河のなかで、性別も年齢も関係なく魂ふたつで手をつないで旅をできたことをうれしく想っている。
生まれて出会えたことをうれしく想っている。

 

うつくしいもの 八木重吉
わたしみづからのなかでもいい
わたしの外の せかいでも いい
どこにか 「ほんとうに 美しいもの」は ないのか
それが 敵であつても かまわない
及びがたくても よい
ただ 在るといふことが 分りさへすれば、
ああ ひさしくも これを追ふにつかれたこころ
 

八木重吉の『うつくしいもの』という詩がある。『銀河鉄道の夜』はわたしにとってこの「うつくしいもの」だ。
あることが、存在していることがうれしい。
たとえそれが見えなくても。流れ星のように、秘仏のように、天国のように。

賢治さんが描いたジョバンニとカムパネルラが「ほんとうのさいわい」を求めて、いつまでも未完の物語の中で懊悩しているから、わたしもそう、だよと思う。赦された、掬われた気分になる。

「死」のまえに立つことで生きとし生けるものはみんな同志になる。先に死んだ何億もの命が星になってここにも、そこにも輝いて道標になってくれる。天の川の星々のように、遠く離れているようで、ここも天上もひとつの川のながれなのかもしれない。あの世はとなりの星なのかもしれない。

銀河鉄道の眩い世界にいる鈴子ちゃんと、わたしは応答する。

(ああ、そうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのように見える橙いろの三角標のあたりにいらっしゃって、いまぼくのことを考えているんだった。)

わたしはまだ「どかどかする体」で鈴子ちゃんのことをこちらの星で考えている。
わたしが鈴子ちゃんを想えばこちらの星がチカチカ光る。

わたしは、わたしの切符をしっかり持って、わたしの使命を考えている。
答えを決めずに「ほんとうのさいわい」を考えている。
限りある生の時間のなかでどのように動けばいいのか、弄っている。

逆上がりすれば天上と地上が逆さに見える。
どちらもおなじ輝く星。

「ぼくたちしっかりやろうねえ。」
「ぼくもうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでもぼくたちいっしょに進んで行こう。」

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