訪問者

 車に積んできた荷物は、数回の移動だけで全て部屋に運び入れることができた。
 ふう、と一息ついた由香は、手近な段ボールに手を付ける。何も書かずに封をしてしまったので、どの箱に何が入っているのかすら分からなかった。とりあえず片っ端から開けてみるしかない。
 箱の側面、ぎざぎざしたガムテープの端に爪を当てる。カリカリとひっかく指先を眺めながら、親指の爪切らなきゃな、と数秒後には忘れることを考えていた。
 何度も爪を立てた割には、ガムテープは少ししか剥がれなかった。仕方なしに、浮いた部分をつまんで引っ張ろうとしたが、思ったより粘着力が強く剥がれない。力任せに手を引くと、ガムテープは不快な音を立てて千切れた。
「……」
 めんどくさ、と呟いて立ち上がろうとしたとき、

 ピンポーン

 突如聞こえた音に、体が硬直した。
 なんでこのタイミングで……? 訝しく思いながらも、おそるおそるインターホンに近づく。〈通話〉ボタンに触れようとしたとき、

 ピンポンピンポンピンポンピンポン

 ひっ、と声が出た。直後にドンドンとドアを叩く音。思わず後ずさる。
(ねえタクミ、起きてるのー?)
 ドア越しに女性の声がする。溶けかけの飴を思わせる、粘着質な声。
反射的に美香は部屋の中を振り返った。机に椅子、綺麗に整えたベッド。大丈夫、とりあえずは問題ない。それで、この女の人は……?
 画面に映っているのは、小柄な女性。大きな黒のリボンがついた、真っ白な帽子を被っている。つばが広いせいで顔はよくわからないが、その下に覗く赤い唇が印象的だった。
 なにか返事をしなければと思ったが、相手の声がそれを遮る。
(ねえなんで起きてないの? 七時には起きてる約束だよね? また私との約束破るの? おかしいよね、ねえ————)
 話すうちに、声が不穏な空気を帯びていく。おそるおそる由香は言葉を発した。
「あ、あの、私引っ越したばっかで、それで」
(は?)
 冷え切った声が返ってきて、由香は舌を引っこ抜かれたように何も喋れなくなった。
(女? は? 誰? 何? なんでタクミの部屋に女がいんの? どういうこと? ていうかお前誰? 誰?)
 モニターの向こうの表情が歪んでいく。唇が大きく割れ、白い歯がむき出しになる。
(まあいいや。とりあえず開けろよ、扉。早く。開けろっつってんだろ)
 ガチャガチャとノブが捻られる。スピーカーからの音が割れ始め、暴言が耳を貫いた。
 今まで感じたことのないような恐怖に、血の気が引いていった。心臓がばくばくと鳴る。
「あの、違うんです! 私は今引っ越してきたばかりで、タクミ、さんでしたっけ……と、とにかく、その人のことも知らないんです。きっともう引っ越されたんじゃ……?」
(あ? ———あ、そう、そうなんだ……)
 女の語気が嘘のように弱まり、由香はほっと胸をなでおろした。
(そっか、そうだよね。あー、ごめん、大声出しちゃって)
 モニターの向こうで、女が額に手を当てている。その瞬間、女の顔が露わになった。意外と若いな、と思う。
(引いたよね。私、情緒ヤバいんだ。友達からもよく指摘されるんだけど、むかつくことがあるとすぐムキになっちゃって)
 分かりますよ、と由香は頷いてみせる。相手からこちらの姿が見えないことは分かり切っていたが、とにかく話を合わせることに集中した。こういうタイプには、変に刺激せず共感だけしておいた方がいい———それが彼女の経験則だった。
「それで、そのタクミさん……っていうのは」
(私のカレシ。よくこの部屋で会ってたんだけど、あいつ浮気性でさあ。前に問い詰めたときも「もう絶対にしない」って言い張ってたんだけど、なんか信じられなくて……で、久しぶりに来てみたら女の声がしたから、勘違いしてつい大声出しちゃった。ごめん)
 先ほどまでの調子とは打って変わって、しおらしい調子の謝罪が続く。そうなんですか、と由香は適当に相槌を打ちつつ、まっすぐカメラを見るようになった相手の容姿を観察する。荒々しい言葉遣いに似合わない、幼い顔立ちをしている。
(それにしても変だなー)
「変?」反射的に顔が強張る。
(あー、いや、引っ越すんだったら教えてくれてもいいのに、って思って)
「ああ、なるほど」
 そんなことか、と安堵する。
 由香は考え込むように間を取ってから、口を開いた。
「……もしかして彼氏さん、サプライズのつもりであなたにそのことを隠してたんじゃないですか? いつか喜ばせるために」悪戯っぽく言ってみる。
(サプライズ、ねえ…)女は疑わしそうにしていたが、口角がわずかに上がっていた。
(ちょっと大家に聞いてみたいけど、なんか愛想悪そうだったからなあ)
「それに今は旅行中みたいですし」由香は口を挟んだ。「あの、ひとつ提案があるんですけど、そんな意地悪をする彼氏さんは、逆に焦らしてやったらどうですか」
(焦らす? どういうこと?)
「少しの間、連絡をあえて絶つとか。向こうがあなたのことしか考えられなくなるまで、うんと待たせてしまえばいいんです」
(えー、そんな手に引っかかるかなあ。———でも、いいかも)
 由香の提案を評価するかのように、女は微笑んだ。これまでの言動が信じられなくなるような、かわいらしい笑顔だった。
 女はもう一度謝罪の言葉を口にして、モニターから消えた。
 由香は、まだ少し震える指で〈通話終了〉のボタンを押した。画面が真っ暗になったことを確認すると、全身の力が抜けたように、膝からその場に崩れ落ちた。
「……怖、かっ、たぁぁ」
 引っ越して早々、とんだ災難に巻き込まれたものだ。なんとか追い払うことはできたが、薄ら寒い不安を感じてしまう。
「……」
 それにしても———。
 ふう、と息を吐いて、由香は身を起こした。先程の会話を思い返しながら、足元の段ボールに目をやる。無理やりガムテープを剥がそうとして、ぼろぼろになった表面。
 自分が何をしようとしていたか思い出した。それだけじゃない。やらなきゃいけないことが一気に増えてしまった。
 でも、全部後回しだ。
「あー、カッターどこだっけ?」
 独り言のように呟いて、ゆら、と立った。
 厚手のカーテンの隙間から、か細い朝の光が差し込んでいる。その線を綱渡りするように辿って、ふらふらと部屋の隅の小棚に近づく。
「あの娘、話し方は怖かったけど、落ち着いたら結構かわいかったなー」
 三つ並んだ引き出しを下から開ける。カッターは一番上に入っていた。慣れ親しんだ部屋でも、わからないことはたくさんある。人間だってそうだ。
「わかんないもんな、誰と関係を持ってるかなんて」
 引き出しを閉める。優しく閉めたつもりなのに、ばん、と大きな音が出た。
 きち、きち、と刃を出しながら、対角線上にあるベッドに向かって歩く。途中、ガムテープの切れ端を踏みつけてしまい、不快な粘着質が足裏にまとわりついた。邪魔だなあ。
「邪魔だなあ」
 思わず声に出ていた。
 切れ端をつまみ上げて、銀色の刃を突き刺す。そのまま端まで破いた。
 無理やり剥がそうとすると、壊れるもの。剥がした後に、まとわりついてくるもの。総じて面倒だと思う。
「だめかあ。やっぱ治らないんだ、浮気って」
 抑揚のない声で呟いて、びりびりに裂けたガムテープを床に放った。そのままベッドの脇に立って、しずかに見下ろす。全体を覆うように掛けられた布団が、かすかに上下している。
「私にも言ってくれたよね。『もう絶対にしない』って———」
 布団に手を掛け、力任せに剥ぎ取った。
「嘘じゃん」

#創作大賞2022

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