wowakaの話(再掲 2022/11/07 01:57)

どうしようもなくさみしくて苦しい、私にとっての4月のこの日というのは、2019年からずっと変わらないものだし、変えられないものだ。はじめて人の死を知った日、死んだからこそ人を愛することを知った日、彼がこれから先、記憶の中でしか息をしないと知った日。どうしようもなく空虚でさみしくて、私がすこしだけ人間らしくよわっちくなる日だ。彼のみる世界が好きだった。人が世界を愛する姿、それがどうやっても理解できずにいるけれど、不器用にきらめく彼を通してだったらそれだって飲み込める気がした。私が彼を思い出して泣くとき、みっともなく泣くとき、嗚咽の漏れる喉にはいつも彼がいるから、え、え、とつかえる音がする。3年前に比べれば、私は随分強くなった。したたかになって、人と距離をとるようになって、痛みに強くなって、かたくなった。いろんなものを除いたせいで、がちがちになってしまった。感情的にならなくなってしまった。だけど私の心の中の一部、どこかにやわらかで致命的な、大切な傷がある。彼のせいで負った傷だ。彼が死んだから、彼を愛したから負った傷。ずっと癒えることがないからやわらかであたたかな生肉がむき出しになっていて、ずっとぐずぐずになっている、まるでうまれたての子どもみたいに真っ赤だ。きっとモノクロにはなれない、いつになっても。その傷があるから私はたまにやさしい人間みたいなことができる、泣ける、怒ることができる。彼の死は私を人間にしてくれた。別に人間にならなくたってよかった、だから彼の死がなかったことになればよかったのに。今年の1月ごろ、彼のアイコンを象ったアクリルスタンドが届いた。思っていたより小さかった。自室の机の上に置いて、事ある毎にそれを見ている。彼に関する物はこれと数枚のCDとDVDしか持っていない。何度も何度も彼が今までに出したCDなどをすべて買おうとしたけれど、そうしてしまったらなんだか彼の終わりを受け入れてしまう気がして嫌だった。だから彼に関するものはあまり持っていない。彼が死んだから彼を好きになった、そういう流れだったかもしれない。今もまだ生きていてくれたら、こんなに好きでなかったかもしれない。ファンだとか、推しだとか、そういう軽い言葉で軽い気持ちで、好きでいられたかもしれない。そうできずにこんなにも何年も何年もずっしりとした感情で苦しみ続けるのは、ああ、これはやっぱり好きだったんだ、愛していたんだ。ふつうに言う恋とか愛とか好意とかではなく、彼が彼として生きていた生命の跡地に、なにか安心しているんだ、と思った。彼が自分の記憶の中で凍りついたように生きてくれていることに、さみしさと安心感があるのだ。だから死んだことは、絶望だと思ったことが一度もなかった。「早く生き返ったらいいのに」。Twitterでこういうことをツイートした。その言葉が私が彼に望むすべてだった。早く生き返ったらいいのに、早く生き返ったらいいのに。そのためだったらいつまでも待ち続けられるのに。

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