wowakaをまだ待っている (再掲 2023/04/05 17:34)

夜中起きてtwitterを開くと「wowakaさん」の文字がトレンドに見えた。今日は4月5日である。wowakaはまだ死ぬべきではなかった。私の目が黒いうちは死ぬべきではなかった。そのような馬鹿馬鹿しい幼稚で身勝手なことを思い続けて今日でめでたく4年目だ。人の生き死にを生活の中、ニュースであったり会話の中であったり、そういったそこかしこで認識する度に私の中で必ず頭にあるのは、いつだってwowakaのことだった。行きもしない夏フェスで出演者の名前が発表されると無意識にヒトリエのそれを探しながら、wowakaが亡き今も解散せず同じ名前で活動し続けている彼らを心底恨めしく思ったりする。彼が生きているうちにもっとライブをやってほしかった、大きなイベントにも出てほしかった、歌を出してほしかった、姿を見せてほしかった…いくらでもそういうあれこれが湧き出てくる。私とさほど変わらない身長の体にどれだけハードな心拍が叩き込まれたのだろうか。そんなに急ぐことはなかったんじゃないのか。あなたの好きだった令和はきれいではないかもしれないが、それでもあなたを必要としている人は確かにいたのに、どうして同じ世界で同じ時間を過ごせないのだろうか。彼のいない世界に気が付くと、私はそのときだけは明らかに自分の道理に反する身勝手なことや合理的でないことを考え、ときに人を傷付ける。自分の言っていることのおかしさを正当化するため、人に対してそういうことをするのも厭わなくなる。あのねえwowaka、私はあなたの死でおかしくなってしまったんだよ、この4年間。これからもあなたがはぎ取った皮膚から露出した生肉からにじみ出るこの液体は私をおかしくさせるんだよね。先日いとこが秋葉原に出かけていって、そして帰宅して、「wowakaさんのグッズはなかったよ」と冗談らしく軽く笑ってそう言った。私は心中穏やかでなくなりながら、しかしどこか冷たい面持ちで冷めた部分もありよくわからない顔でよくわからない返事をした。wowakaのグッズなどというものはそれは秋葉原にあるわけもない。あの人はアイドルとかではないのである。あったとしても私はいらなかった。手元にあるアクリルスタンドだけで十分すぎるほどに十分なのだ。だから私はwowakaに関するものを今後CDだとかDVDだとか以外に買わないし、それにそういうものはたぶん今後売られないだろう。彼が終わってしまったことを飲み込めない傷を延々とほじくり返し、治らないようにする作業を続けていくことだけが続いてゆく。話が脱線した。それで、そう。そのいとこは私によくそういうことを言う。wowakaさんの番組がやっていないかな、プロセカにwowakaさんの曲が追加されないかな、今日行くCDショップにwowakaさんのCDが…。私にそれを言うのだ、彼女は。彼女が特に好きではないwowakaの存在について、私との話題になんとなく出すのだ。そんなのあるわけないじゃん、やめてよねとかと私が笑って返すのを待って。単なる話題のひとつとして。ぐじゅぐじゅの傷を。皆どうしてwowakaのことをさん付けで呼ぶのだろうかとふと思った。逆に考えれば私はどうして呼び捨てで呼ぶのだろうかと思った。皆距離が遠いなと思った。私は距離がわかっていないのだなと思った。生物は死ねばゴミになるので私は墓参りとか供養とかに一切興味がない。生前の意思なんて存在するはずもない、「生前」なんて言葉が付く時点でそれはここにはないからだ。故人が望むことをとか、手を合わせて故人を偲んでとか、そんなことは無意味だからしない。意味のないことはしない。私はずっと考えている。無意味なことを。wowakaはいつになったら生き返るのか、誰か教えてくれる人がいると嬉しいなと思う。生き返らないという答えではなく、いつ、いつか、いつなのか、いつなのかを。4年待っているからそろそろ生き返ってはくれないだろうか。私だって生き返るとはそりゃあ思っていない、だからそれを答えとして望まない、わかっていることを答えられたって意味がない、意味が、ない。だけど死んだことはどうしてもよくわかっていない。もしもwowakaが白い顔をして寝ているところを見ても、骨になるところを見ても、骨壺に入れられているところを見ても、なにを見てもよくわからないまま納得のいく答えを教えてくれる存在を探すのだろうと思う。wowakaは死んでいませんか?死んでいませんよ。そう言ってほしい、言い続けてほしい、私が頼んだらそれだけ答えてほしい。

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