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らしさの捻転

"脱コルセット運動"というものある。

社会から求められる女性らしさから自らを解放することを目的とした韓国の運動

wikipedia

フェミニズムの運動らしい。
そもそも私は"〜イズム"と思考や主義で
括られるのは苦手な人だが、
この、脱コルセット運動に関しては
少し関心がある。

"こうあるべき"という内面化された
強迫観念とも言えるもの。
それを、女性という枠で括るのはなにか
意味のあることだろうか…🤔
とも思ってしまうが、
やはり脱コルしてた時は、
自分の女性性に抗いたかった。というのが
正直なところだった。

長い後ろ髪を段々と短くして
化粧は毎日決まった自分の好みの最低限なものに
スカートは履こうと思えなくて
自分の、理想の自分像というものを
追い求めていた。

それが中学3年生から高校1年生までの間。
今から約3~4年前の話。

女性性とか、男性性とか

女性らしく、男性らしく、女らしく、男らしく、
そういう形骸化してるものは、
やっぱり成長していく中で
気づく人と気づかない人がいると思っている。
どっちが良いとかいう話では決してなくて、
ただ、
その人の理想の自分像に型がハマったか
ハマらなかったか
そういう感覚の話だと思う。

私が、"女性性"、"男性性"という言葉を
知ったのはまさしく中学3年生の時だった。
当時はこんな言葉があるのかと
なぜか半ば失望しかけたのを覚えている。
そして、
長い髪をボブにした後だったからだろうか。
苦しさゆえに女性性という言葉が嫌いになった。

例えば、長い髪が女性のイメージとして付随してなかったら、私は髪を伸ばし続けていたのかもしれない。
だけど、私はその後段々と髪を短くしていった。
その度に
心が軽くなる感覚を覚えようとしていた
私の中では自分の性自認にゆらぎが生じた。

今でも、あの時髪を切りたかったのか
切りたくなかったのか、分からない自分がいる。
切っといてよかったなぁという気持ちはあるが。

現時点で、
性自認については女性であると感じている。
女性であることの自由に大いに
メリットを感じているから。そしてそれが、
私が女性の体に生まれて
無条件に感じることが出来たからと
知っているから。

少し脱線してしまった💦

らしさらしからぬもの

女の子らしくしなさい、
覚えてないけど言われたことある言葉、と
私は認識している。
これは、やっぱり生きやすく矯正するための
言葉なのだろうか🤔とも思うが、
それは置いといて、
人がオス、メス、とかいう生物学上の区別に
謎の違和感を持ち始めるのはいつなのだろうか。
分断はどこでそれと認識されるのか。
そもそも、○○らしさみたいなものは
相手に信頼されてないと使えない言葉だが、
少なくとも人を縛るための言葉ではないと思う。

らしさ、がインプットされた人間が
らしくあることを、否定する瞬間。
そういうのは往々にしてあるのではないか。
それを認められる機会が必要なのではないか。

ということを考える今日この頃。( ¯-¯  )

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