【つながる旅行記#56】東洋のマチュピチュ、東平(とうなる)へ
時間になり、いよいよバスに乗り込む。
実はこの東平(とうなる)への観光バス、時間までに一定人数が集まらないと走ってくれないのである。
今回は無事に人数が集まり、出発できるようだ。
いやバスの助手席って。
まさかの状況である。
思いのほか多くの人数が集まった結果、ソロの自分は助手席行きとなった。
いやいいけどさ。めちゃくちゃ景色見えるし。
……そしていきなりの山のジオラマである。
これはバスでたどり着いた先にある東平歴史資料館のもの。
そう、移動は終わった。
めっちゃ山道だった。
30分かけてのバスの大移動を終えて、バスからの写真は一枚もない。
なぜかといえば、標高が上がることで下がった気温と自分の体温によって、窓が曇っちゃってそれどころじゃなかったからである。
せっかくの景色を撮るとかいう発想すら浮かばなかった。
運転手さんが良い景色のところでスピードを落としてくれていたが、自分の窓からは曇って見えない。
あれ……? そういえば自分の横の窓しか曇ってなかったような……?
……思い出す。
子供の頃に友達の車で送ってもらったとき、めっちゃ曇った記憶を。
友達の親の、「なんだか今日はすごく曇るわねぇ」という言葉を。
……あのときと同じ恥ずかしさを大人になってから味わうとは。
それはともかく、この別子銅山。
ジオラマを見ても分かる通り、標高が高いところにあるのだ。
バスで30分もかけて来ているのだから、確かにマチュピチュ感はある。
そんな高い場所にある東平だが、小学校もあった。
きっと、さぞかし人数が少なかったと思うことだろう。
しかし明治39年の最初こそ20人の子供で開校したこの学校も、
昭和2年にはまさかの695人になった。 35倍て。
小学校は東平鉱の休止にともなって昭和43年に閉校するまで栄えたが、下手すればそこらの小学校より全校生徒が多いだろう。
この少子化時代に色々考えさせられる話だ。
上の画像は東平の社宅。
無料の公共浴場や水場もあったそうだ。
思えば、軍艦島と同じような感じなのかもしれない。
社員が生活する環境を現場近くに構築したということだろう。
で、色々しっかり見たい気持ちはあったのだが、これはツアーなのだ。
30分移動 → 60分散策 → 30分移動 という時間が決まっている。
なのでゆっくり資料館を見ていられない。
流されるように外へと移動する。
確かにマチュピチュ感あるかも。
(本物を見たことはないが)
こんな景色の中で仕事をして、暮らしていたのか……。
合う人は合いそうだ。
山小屋で働く人とか。(想像)
上の画像とかはマチュピチュポイント高めな気がする。
山の上にこんな巨大なものを作り上げたのかと思うと、人間が実行できることの大きさがよくわかる。
そしてはるか昔に標高2400mで同じようなことをした本家マチュピチュの凄まじさも実感する。
というわけで東平ゾーン解説ツアーは終了。
この後は各自が好きにバスの時間まで散策できるようだ。
そして速攻でよくわからない林の道へ入る。
集団行動をした後の反動だろうか。
やはり山歩きはソロに限るなあ……と思いながら歩いていると、
小さな広場へ到着。
遠くには新居浜市と瀬戸内海が見える。
山の中とはいえこれだけ景色が見渡せているなら、当時働いていた人達も孤立感はあまり感じていなかったのかもしれない。
ではバスでまた下に戻るとしよう。
帰りももちろん、助手席である。
バス移動を終え、また下まで戻ってきた。
東平、確かにマチュピチュ感はあった。
でもちょっと観光が駆け足感があったな。
資料館をもう少ししっかり見たかった気はする。
それはそうと、腹ごしらえだ。
買っておいた芋まんじゅうだけでは流石にもたない。
レストランで鍋焼きうどん御膳を頼んだ。
鍋焼きうどんに、伊予地鶏のざんき(北海道のザン”ギ”ではない)、豆富サラダ(腐ではない)、煮物に漬物……結構豪勢だ。
ちょっと奮発しちゃったな~
まさかの980円である。
基本的にホント安いなマウントピア別子。
そして緑青は無毒であることをここで知る。
電池に湧いた緑青を劇物みたいに教えてきた人間のせいで、自分は一体何十年騙されていたのか……。
さて、東平ゾーンも終わって見どころはもうなくなったと思った人もいるかもしれないが、まだまだマウントピア別子は終わりではない。
こうやって辺りを散歩して……。
かつての栄えた時代に思いを馳せる楽しみ方もできる。
そして、実は観光坑道というものが存在する。
次回は観光坑道の中に入ってみよう。
ただの坑道ではなく、色々見るものがありそうだ。
マイントピア別子、楽しませてくれるぜ……!
~次回へ続く~
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