『ルックバック』論 悪魔論的ヒロイズムの誤読(仮) (引用画像欠、書き途中)

1、 藤本タツキと「いい人戦略」

今回取り上げたいのは傑作『ルックバック』についてである。
まず、初めに私は『ルックバック』という作品が好きか。その答えはイエスである。
私はこの漫画を肯定的に読んでいるし、藤本タツキという若い漫画家のセンスは絶大であるという点になんの疑いもない。

この漫画は自分だけでなく多くの人間の間で話題になり、概ね好意的に受け入れられた。それは一般的な読者層に限らず、同業者、つまり漫画家の間でさえもそうだ。公開直後から、多くの漫画好きの間で感想、考察、批評の的にもなった(し、YouTubeでは他人の考察を焼き直しただけのクソ動画がたくさん生まれた。恥を知れ)。
もう散々語られた。今となっては、もう新たに語るべきことなど何もないくらいに。

ここで第一の問いを投げよう。
……本当にそうだろうか?ルックバックは真に語り尽くされたか?
この点を問い直したい。これが本論の目的の始めである。

そもそもである。漫画作品がこれほどまでに一般的に“簡単に“語られる対象になったのは、つい最近のことではないだろうか。もちろん、それ以前にも掲示板やら直接の会話の中では語られてきただろうが、玉石混交の感想がここまで可視化された歴史はかつてないだろう。そのある種の安易さに繋がった要因の一つには、おそらくはSNSがある。漫画に関して言えば、TwitterとYouTubeの存在が大きいだろう。具体的に言えば、漫画のスクリーンショットをアップロードする人間がとても増えた、という事だ。

漫画の、とあるコマのスクリーンショットを取り上げる行為は、引用の手順を踏まない限り、著作権侵害に相当する。それゆえ、リテラシーの高い読者、あるいはYouTubeなどで収益化を狙う投稿者においては引用の手順が踏まれている。漫画の引用の正しい方法がわからないが、引用部分を明確にした上でタイトルと巻数を書けばいいのだろうか?私も詳しい事は知らない。
基本的には、画像の切り抜きなどはそもそもしないのが安全であるため、最近は私もSNSで安易な事はしないように気を付けている。

このような状況がある一方で、出版社側があらかじめ、スクショの許可を出す場合もある。最近では『忍者と極道』という作品において担当からその許可が出ていたし、噂によると例の『タコピーの原罪』も許可が出ているとのことだが、きちんと確認していない。
このようなスクショOKの動きが生まれたのは、漫画がWEBで読まれることが一般的になってからだ。スクリーンショットは場合によっては歓迎される。話題になり、単行本が売れるのであれば、多少のネタバレは結構だと考えているという事である。
ただ、中にはそのようなネタバレを嫌がる作家もいる。『キン肉マン』の作者ゆでたまごは、そのような形での安易な消費を嫌がり、編集部からは読者に対してネタバレ禁止に関する異例の注意喚起がされた。

この傾向の是非は問わない。しかし、このような傾向を作家達は当然理解しているだろう。恐らく、藤本タツキもである。
藤本タツキが初めて注目を浴びたのは、WEB媒体のジャンプ+上であり、『ファイアパンチ』第一話の公開直後だったと記憶している。その後も藤本タツキの読み切りの多くはジャンプ+上で行われ、『ルックバック』も同様である。
その出自も踏まえてだが、私は『ルックバック』という傑作が傑作たりえたのは、このインターネット時代においての評価のされ方を熟知していたからに他ならないと考えている。

例えば、ある種の仕掛けだ。それは、読者による安易な消費を避けるかのような、一方で、やはり安易な消費を呼び込むような仕掛けだ。

『ルックバック』の賢い読者は、いとも簡単に仕掛けに気づいただろう。
『ルックバック』という作品が発表された日付が、京アニが放火された例の事件の日付の翌日であるということに。

あるいは『ルックバック』というタイトルが『ドントルックバックインアンガー』というオアシスの名曲の一部として配置されている事に。

あるいは『ワンスアポンアタイムインハリウッド』のオマージュシーンには流石に気づいただろう。そうだろう?

正直に言って、私は全くどれにも気付かなかったが。
私は漫画を読むのが好きで、明確に語られざる描写の意味を読み込むのも好きだ。その作業は苦手ではない。しかし、それはスイッチを入れて読む時だけだし、私は気付かなかった。
しかし、本作品が公開されてすぐにそれらの仕掛けのことは知っていた。
まさにTwitterで知ったのだ。

”頭が良く、繊細な描写に敏感な読者”層は、藤本タツキがばら撒いた数々の仕掛けにいち早く気づけた。さぞ誇らしかったことだろう。
その仕掛けに気付けたことを、賢い読者達は嬉々として紹介した。
このSNS時代においてそれは、ほとんど義務のように行われる。情報と感情をシェアする事は個人の価値の証明なのだ。その是非も問わない。私も似たような傾向はあるし、それゆえにこのようなnoteを書いている。
なにはともあれ、この作品はおそらくはTwitterのリツイート機能によって、瞬く間に広がったという事である。

つまり、上にあげたような面白い仕掛けに読者が“たまたま”気付かなければ、ここまで『ルックバック』が話題になることはなかったのかもしれない。
これは言うまでもなく予想外の結果であり、偶発的な盛り上がりだ!読者が巧妙に隠された裏テーマに気づくなんて!……というのも最早空々しいが、私はもちろん偶然の出来事だとは考えていない。そして第二の問いは、このように『偶発的に話題になること』までが藤本タツキの仕掛け、あるいは、担当編集林子平のシナリオなのではないか、という事である。

私自身、それらの仕掛けにまんまと踊らされつつも本作を読み、その完成度の高さに震えた。面白かったし、心を打たれた。私も創作者の末端の末端の末端として、悔しくもあった。

藤本タツキという若く才能のある漫画家は、
創作活動にひたすらストイックで
世の無常に心を痛める人間性を持ち
美しいことに、今この瞬間も漫画界の前線に立ち、
その背中を見せ続けてくれているのだ。
少なくとも『ルックバック』は
その覚悟の表明なのだと、素朴に感じた。

Twitterにおいても、概ね上記のような感想が目立った。ルックバック、すなわち、背中を見る。あるいは背中を見ろ、なのか。「追憶する」という意味でも良い。この作品は概ね、藤本タツキという作家という存在の紹介として機能した。
肯定的な感想に対して、肯定的なリツイート、この作品は多くの読者に好かれていたし、みな藤本タツキを担ぎ上げることに協力した。少なくとも私の観測範囲では。

私が問いたいことはここだ。第三の問いである。
これもまた、『ルックバック』の計画に組まれてはいなかったか、と。つまり、読者に好かれる事すら巧妙に仕組まれた事なのではないか、という問いをここにあげたい。

なぜそのような邪推をするのかといえば、過去の作品を知っているからだ。
藤本タツキの作品はいつも、いつでも過激だった。『ファイアパンチ』も『チェンソーマン』もあまりの過激さゆえに、あまりの最悪さ故に、やはりインターネットにおいて毎週のように話題になった。ほとんど嫌がらせのような憂鬱で突拍子のない死の連続に多くの読者が嘆き苦しみ、そしてやはり拡散した。ここにはやはり同様の、ある種の戦略性を見る。
言わば「イヤな人戦略」である。これは岡田斗司夫の言葉だ。
岡田斗司夫によればこの戦略は、ハイパー情報化社会、評価経済社会において取るべき戦略の一つだった。「イヤな人」でもキャラが立っていれば価値があるし評価される、という考え方だ。少し前まではそれでよかった。しかし「今」は少し違う。時代が変わったし、藤本タツキを取り囲む環境が変わった。
これからは「いい人戦略」を取らなければならない。世の中的にはテレビで暴力が放送されることはないし、煙草も吸わない。性的な言葉、差別的表現はもってのほかの時代である。
この時代の流れにおいても藤本タツキという作家性は限界だが、そもそも『ファイアパンチ』の頃とは違い、藤本タツキは最早ジャンプの看板を背負う存在になってしまった。この時もはや単純な「イヤな人」ではいられない。裸描かない、煙草描かない、残酷描写しないの3コンボで『ルックバック』はとてもクリーンな作品であった。それを「いい人戦略」と呼ぶのも「イヤな人戦略」からの転向と呼ぶのもやや露悪的だが、この点を分析する事は可能だろうか。

さて、大きく三つの問いを投げかけた。
1、ルックバックは真に語られているか
2、偶発的な拡散を狙ってはいなかったか
3、肯定的に見られる仕掛けをしてはいなかったか

この疑問を前提に、本論は展開していくことだろう。
先に書いておくと、ここに明確な答えはでないかも知れない。あるのはひたすらに問いかけと事実の確認である。

問題はむしろこれらをどのように問うていくかだが、今回は作家論的な読解を採用したい。
前提として、作品の主体はキャラクターであり、作品=キャラクターの思想は、作者の思想ではない。作品は、実在の人物や団体と関係がないのであり、極論であれば、フィクション上でいかにモラルに反した、人道に反する行為が記されていても何も問題はない。以下は、実在の人物とフィクション上のキャラクターは関係ないという点についての藤本タツキにおける”皮肉”の引用である。

(引用:藤本タツキ『ファイアパンチ』5巻)

「糞野郎」でもいい奴に見える事はあるように、良い主人公を描く漫画家がいい奴だとは限らない。しかし、それでも作品には作者の思想がどうしようもなく刻まれている部分もある(と想定する)。今回作家論を通して問いたいのは、このような答えようがない微妙な部分である。
つまり、藤本タツキという一人の若い漫画家はどのような考えで、気持ちで作品を描いたのか。それを出来るだけ正確に読み解くことはこの作品においてどれだけ出来るのか。
つまるところ、『この時の作者の気持ちを答えよ』だ。

2、底本情報

底本『ルックバック』
作者「藤本タツキ」
初出「ジャンプ+」
初出年月日「2021年7月19日」

3、序論 分割された世界(振り返れ/振り返るな)

Wikipediaの情報は必ずしも正確ではないが、中立的なあらすじであったため引用した。ただし中立的であるがゆえに、文章上では状況が読みにくいパートがある。それは言うまでもなく物語の終盤のパートである。


物語の「枝分かれ」あるいは「本来の世界」と「存在したかもしれない世界」の分割とある。この奇妙な描写の正体は何なのか、まずはその点を確認していく。

読解モデル1 五次元からのメッセージ

この作品の分岐点は言うまでもなく、京本が藤野の存在に気づいて部屋を出たかどうかにあり、藤野視点で言えば、京本の呼びかけに応じて振り返るかどうかの部分にある。

(引用:藤本タツキ『ルックバック』)

ルート分岐した世界において、京本は物理的に藤野によって救われる。そして、その可能性を異世界の4コマ漫画越しに見ることによって藤野自身も勇気付けられ、孤独な作品制作の時間に戻る構成、とでも言おうか。
ここで物語はSFの領分において収束している。およそSF的な展開のなかった本作であるが、何故このような読み方が許されるのか。それは第一に藤本タツキという作家に映画好きの文脈があるという事。第二に『メッセージ』と『インターステラー』の影響の指摘があるからだ。
細かい説明は省略するが、上記の2作と本作との共通点は時空を超えてメッセージが届くという点にある。便宜上表現を借りるが、『インターステラー』においてそれは「五次元」から届いていると表現される。
私はこの「五次元」的解釈をただちに否定しない。何故なら漫画という媒体はそもそもが五次元的であるからだ。
「五次元」という概念を、時間と空間を同じ平面上で捉える高次元空間だと簡易的に理解するなら、漫画とはまさしく過去と現在(あるいは未来にいたるまで)が同じ平面上に存在し得る高次元空間だ。より正確に言えば、この特徴はとりわけアニメや映画作品にとっても一般的だろう。

それ故に、唐突に並行世界の物語が始まり、メッセージが届くという考え方も肯定可能だ。なるほど、それであれば『ルックバック』というタイトルすら「過去に戻る」という異世界的解釈を誘導してそうではないか。
それ故に否定はしない。しかし問題点がないわけでもない。
本作においてオマージュ元の作品は『ワンスアポンアタイムインハリウッド』のDVDや、「ルックバックインアンガー」のタイトルのように明確に示唆される形になっており、いかに類似点があろうとも『インターステラー』や『メッセージ』にはその明示がないのだ。
それ故にこの解釈は保留した上で、積極的に採用しない。より正確に読解し得る可能性がまさに『ワンスアポンアタイムインハリウッド』の引用のされ方から考え得る。

読解モデル2 藤野の想像力、或いは妄想

注目しなければならないのは、京本からの「メッセージ」とも取れるあの4コマ漫画は、本当に「本来の世界」に登場したのか?という点である。
奇妙に感じられるのは二点ある。
一点目は、あの4コマ漫画は、背景しか描けなかった当時の京本とは違い、強烈な漫画力を備えている事だ。すなわち、文脈のない背景のみの作画でなく、事実をフィクション化しているという事である。その4コマは小学生当時の藤野の漫画のようでもあり、藤野の画風に似通ってもいる。
第二に、藤野が拾った紙の切れ端には何も描かれていないように見える点である。これは作画の省略の可能性もある。しかし、それ以前のコマで同程度の大きさで記されている紙の切れ端には少なくともコマ割りまでは刻まれている。
この二点において、そもそも並行世界などは存在せず、並行世界も含めて藤野による妄想、あるいはフィクションだったのではないか、と読む動きがある。

ルックバック読者にとって、この読み方もまた主流の一つであろう。こちらの読み方には読解モデル1に比べ、幾らか根拠が多い。まず、先に指摘した二点と矛盾がないことである。藤野が見た切れ端の中には本当は何も描かれていなかったし、藤野は自分の想像する世界において、自分がヒーローとして京本を救う別の現在を夢想したという解釈となる。
加えて、『ワンスアポンアタイムインハリウッド』のオマージュと思われるシーン、つまり”救急車にヒーローが運ばれていくシーン”の類似について考えると、よりこの読解は補強される。
『ワンスアポンアタイムインハリウッド』という物語は、実際に起きた事件「シャロン・テート事件」に対するカウンターであり、もしもシャロン・テートが救えていたら、というIFの世界を描いたフィクション作品である。
つまり、「シャロン・テート事件」と『ワンスアポンアタイムインハリウッド』の関係は、"どうしようもない現実"と"救いのあるフィクション"という差において、"京本の死"と"藤野の妄想"の関係と相似しており、やはり、現実として京本が救われた世界などなかったのだ、という解釈になる。
その時、京本の部屋で自分の漫画を読んで涙を流す、という収束の仕方にも解釈が可能だ。自分の作り出したフィクションのヒーロー(自分自身)にある種の救いを見たという事だ。

分割世界の決定不可能性

どちらかと言えば読解モデル2に分があると思われるが、この二つの解釈のうちどちらかを直ちに選ぶ事はしない。
何故なら、この解釈の分裂はまさに、藤野が振り返った先に見た京本のドテラに現れており、ここに京本の背中を見ているのか、京本の信じた自分の名を見ているのかが描写からは読み取れないからだ。

(引用:藤本タツキ『ルックバック』)

むしろ強調されているのは曖昧さであると考える。振り返る世界と振り返らない世界、ルックバックする世界とルックバックしない世界、この分割はタイトルの『ルックバック』に『don't』を付加するどうかにも託されており、読者はどちらを選ぶことも許されていると考える。

4、本論の前に『ルックバック』の受容のされ方を振り返る

実のところ『ルックバック』において、物語の収束の仕方が取り沙汰される事はほとんどない。SFっぽくもあり、妄想っぽくもある、というその程度の認識は広く知られているが、そこに展開を試みるものはあまりいない。
『ルックバック』において、一部の読者によって最も取り沙汰にされるのは、京アニ事件との関係の方だ。
追悼だとか、祈りだとか、そのような言葉で『ルックバック』は受容されている。確かに、『ルックバック』で描かれた事件は京アニの事件と似通っているし、先に指摘した通り、公開の日付があまりにも作為的であるために、この読み方は”一側面としては”間違ってはいないかもしれない。
現に、藤本タツキはのちに出た短編集の『17−21』においてこのような事を、あとがきに書いている。

ここにおける「悲しい事件」の中に京アニの事件も含まれてはいるのだろう。しかし、引用文内でも言われている通り、それが全てではないし、この「無力感」は17歳の頃からつきまとっているものだ。加えていうのであれば、本作に引用された悲しい事件は、オアシスの名曲「ドントルックバック インアンガー」に象徴される「英国自爆テロ事件」や「ワンスアポンアタイムインハリウッド」に象徴される「シャロン・テート事件」なども含まれる。
この時の私の疑問は、本作は本当に藤本タツキの個人的な祈りを記した作品だったのだろうか?という点である。
まず、かの事件に対して痛ましい気持ちが存在しなかったとは考えていない。また、京アニ事件を示唆したと思われる事件が物語の中心にあることや、公開日付の仕掛けのことも含めて、他の事件に比べてより注目しやすい配置である事は承知している。しかし、奇妙に思えるのはタイトルの仕掛けである。

『ルックバック』が藤本タツキによる祈りの作品として読まれる時、「ドントルックバックインアンガー」という曲が「英国自爆テロ事件」の追悼ソングとして歌われたという事実が相似関係となっている。しかし「ドントルックバックインアンガー」を追悼ソングとして歌ったのは、あくまでもオアシスのファン達であり、オアシス自身ではなかったという点を思い出す必要があるのではないか。
よく知られている通り、「ドントルックバックインアンガー」はそもそも追悼ソングなどではなく、歌詞とタイトルを積極的に誤読したファンによって、追悼ソングとして再解釈されたのだった。
この事実を藤本タツキは知らなかっただろうか。その可能性もあるが、そうは考えない。
むしろ、そのような善意の誤読の歴史を知った上で、『ルックバック』を京アニ事件の追悼漫画として読者に誤読させるように誘導していたとしたら、と考えてみる。

つまるところ、京アニ事件に祈りを捧げているのは、あくまでも『ルックバック』を追悼漫画として読みたい読者であり、藤本タツキにその祈りを仮託しているだけだという事だ。
そしてそれだけでなく、藤本タツキは『ルックバック』という漫画をそう読ませるように仕掛けたのではないか、というメタな解釈をしている。

「ドントルックバックインアンガー」にまつわる善意の誤読。その「ドントルックバックインアンガー」の受容過程に相似させる事で『ルックバック』自体の善意の誤読を皮肉る更なるメタの仕掛け。
この読解は単なる邪推だろうか。藤本タツキはやはりこれまでの解釈通り、素朴に祈りを捧げていただろうか。

本論0 「backー名詞ー事の真相、心の奥底」

ここまでは、これまで読者の間で幾度ともなく焼き直されてきた解釈に対する、私の立ち位置の提示である。この作品はこれまであまりにも綺麗に読まれ過ぎたし、一面的にしか語られてもいないと思われる。
藤本タツキの善性にとりわけ疑義を呈したいわけではないが、ここではあえて、そうではなかった可能性、すなわち"作者自身の善性に基づいてについてのみ描かれたわけではない可能性"を模索する事によって『ルックバック』解釈の更新を目的とする。

また、根本的な問題として、従来の『ルックバック』解釈が藤本タツキという作家の"好きそうな映画"という文脈に頼り過ぎている一方で、藤本タツキの作品群に対する指摘が不足している事にも触れたい。
具体的に言えば、藤本タツキが短編集の『22−26』において「妹の姉」が良い例である。この作品は『22-26』内のコメントの中で「『ルックバック』の下敷きにある作品」だとはっきり書かれているにも関わらず、二つの作品を照らし合わせた解釈はほぼない。
加えて「シャークキック」という作中作品が明らかに『チェンソーマン』と『ファイアパンチ』をミックスした雑なパロディネームだが、この二つの作品との関連性が深く考察された事もない。
これまでの解釈では、藤本タツキ作品との何らかの関連がある事は認められつつも、それらのマーカーが藤本タツキ自身の個人的な振り返りのために配置されたものとして回収されてしまい、その意図を読み解く動きはほぼなかった。私は『ルックバック』のbackを「事の真相、心の奥底」と曲解し、更なる裏側が存在すると想像してみよう。それは藤野の背中の"裏側"と"後ろ側"にある。

本論1 背中の"裏側"=正面を見ろ(顔論)

先に指摘したように『ルックバック』において不当に放置された問題の中に、他の藤本タツキ作品との連関という点がある。
ここではあえて、ルックバックという言葉におけるBackを「裏側」と曲解して、背中を向けている時の藤野の顔について考えてみる。
もちろん、背中を向けている時の藤野がどのような顔をしていたかなど、徹底して描かれていないのであり、この時の顔などわかるはずもない。しかし、キャラクターはある種作者の鏡なのであり、他の藤本作品のキャラクターの鏡面の鏡面として、藤野の顔を投射する事はできないか。
まずキャラクターが鏡であるとは、どういうことか。この考え方をすすめるきっかけになった一つのツイートがある。
それが『ルックバック』を読んだ際の漫画家とよ田みのるの以下のツイート。

とよ田みのるの言葉を借りるならば「近視的」な視点であるが、本来漫画家にとって、感情を最も表現しやすい顔は重要であるし、それはもちろん藤本タツキにおいても例外ではない。『ルックバック』やそれ以外の藤本作品においても魅力的な顔を「近視的」に描く事はあったし、今回は意図的に、徹底的に、作業中の顔描写を避けたとまず指摘できる。しかし、何故そのような事をしたのか。
この問いを『ルックバック』のみの読解では見出せず、むしろ他作品の顔を見る事で探りたい。
先に本論を先取りすれば、藤本タツキは『ファイアパンチ』や『チェンソーマン』の頃から意図的に顔を描かないことを重視する作家であり、顔を描かない事にこそ意味があったと考える。それはどのように現れたか。

仮面のヒーロー

主人公の顔を意図的に隠すという点で、最もわかりやすい例は、『ファイアパンチ』と『チェンソーマン』の主人公の姿である。

(引用:藤本タツキ『ファイアパンチ』6巻)

(引用:藤本タツキ『チェンソーマン』1巻)

特徴的なのはいかにもヒーローらしくない、それどころか悪役めいた仮面であるという点だろう。
特に『ファイアパンチ』において顕著だったが、主人公のアグニは時に自分の顔を自ら剥いで、自らの顔を隠す事によって『ファイアパンチ』という存在になりきろうとする。

(引用:藤本タツキ『ファイアパンチ』5巻)

(引用:藤本タツキ『ファイアパンチ』7巻)

『ファイアパンチ』を読んでいれば明らかなように、この作品において「ファイアパンチ」というものはある者にとっては畏怖の対象であり、ある者にとっては神のような存在であった。しかし本来ただの人間であるアグニはそれゆえに、いつしか「ファイアパンチ」を”演じる”ために、自らの顔をあえて剥ぐようになる。
ここにおいて、第一に、藤本作品における顔が見えない状態とは、自分ではないものを演じる時に使われると指摘しておく。そしてこの演ずる=顔を隠す描写は主人公だけに留まらず、多種多様な手法で行われるため、具体例をさらに確認する。

タバコを吸う手つきで本音を隠す

(引用:藤本タツキ『ファイアパンチ』2巻)

やや特徴的な、顔の半分を隠すようなタバコの吸い方が印象である。ここにおいては嘘をついている時に顔を覆い、本音を話している時には顔が見える形で書いている。第二に顔を隠すのは、本音を隠すためであると言える。

あるいは素朴な演出として、顔=感情を隠す

(引用:藤本タツキ『チェンソーマン』5巻)

一枚目の画像においては、顔と本音が隠せていないのがご愛嬌。素朴な意味でも藤本作品キャラクターは漏れ出た感情を隠してしまう。

隠された歪んだ笑顔、そしてタツキは

(引用:藤本タツキ『ファイアパンチ』6巻)

三枚目の画像に関しては、とよ田みのる的に言えばいかにも「近視的」な顔であり、この時のアグニの歪んだ喜びが現れている(この顔が何なのかは自分の目で確かめよう)。
そしてこれは「近視的」な顔表現である。それゆえに、キャラクターを鏡として見た時に、藤本タツキ自身の歪んだ喜びをも表現してしまっていると言えるのではないか。
4枚目では、この歪んだ感情を押し隠すべく顔が覆われ続けているが、やはりここでも歪んだ笑顔を浮かべているのだろう。
不都合な顔が覆われ、隠される理由とは藤本タツキ自身の本音が漏れ出すが故であるかも知れない。
次のシーンもキャラクターを鏡として、自らの本音を語るように描かれていた。また、ページの半分を覆うほど「近視的」である。

(引用:藤本タツキ『ファイアパンチ』2巻)

ここにおける笑顔は悪趣味ではあるが、あからさまに『ファイアパンチ』のあらすじをさらうものとなっており、過酷な復讐劇を喜び求めるという点において、トガタの立ち位置は恐らく藤本タツキの悪趣味さに一致している。また、実在の映画を取り上げて自らの映画好きをしきりに語るトガタの在り方としても『ファイアパンチ』における藤本タツキの代弁者を担っていることに疑いの余地はない。

『妹の姉』と『ルックバック』のヒーロー論理

ここまでの指摘において、藤本タツキにおいても顔は重要視され、とりわけ、顔を隠すという表現を多く用いている事がわかった。であれば、『ルックバック』においての背中の描写にも顔を隠すという効果を読み取ることが出来ないかと考えてみる。
ただし、今回あげた顔の多くは、手によって隠されているのであり、同じアングルで顔が見えないコマが”たまたま40コマ程度あった”だけの『ルックバック』が顔を隠していると言うのは性急かもしれない。
そこでもう一つの傑作『妹の姉』を振り返ってみる。先に指摘したようにこの作品は「『ルックバック』の下敷きにある作品」であり、どのように下敷きにされているかは次の画面に現れている。

(引用:藤本タツキ『22−26』所収「妹の姉」)

『ルックバック』、すなわち背中を見ろ、のテーマは「妹の姉」にもほとんど同じ形で現れている。すなわち、誰かにとっての「目標」の人物としてあり続けるために前を進んでいく、という努力のテーマである。
そして同時に、ここにはやはり藤本作品におけるヒーローのテーマであるとは考えられないか。『ファイアパンチ』や『チェンソーマン』のように、それを信仰するものには、顔を見せないという点において、藤本的ヒロイズムに一致する。
言うなれば、ここにおける「姉」は、『チェンソーマン』や『ファイアパンチ』のようにある種の仮面を被る代わりに、背中のみを見せる事で超人ヒーロー化=神格化しているのだ。

飾らない姿が飾られるという二重構造

藤本的ヒロイズムにおいて、真の姿は他者には見せないよう設定されている。しかし『妹の姉』の「姉」は、妹が描いたような「想像」上の自分のハダカを訂正するため、真の「私のハダカ」の描き方として次の絵を示した。

(引用:藤本タツキ『22−26』所収「妹の姉」)

ここで絵の中の「姉」は裸で正面を向いており、大股びらきで尊大な顔を見せている。つまるところ、この姿こそが「私のハダカ」=生身の私である事を示唆しているのであり、「想像」の姿でない真の姿である事を示している。
ここにおいて、『ルックバック』において隠された顔(=背中の裏面)とは、あるいはこのようなものではないか、と考えてみる。
「藤野」も(そして、キャラクターを鏡として捉えた時に、藤本タツキ自身も)ヒロイックな背中の裏に、尊大な顔をした真の姿を持ってはいなかっただろうか。
『ルックバック』においてはその顔を徹底的に隠す事によって、藤本的ヒロイズムを完遂したのではなかったか、と考えてみることは出来ないだろうか。
藤本タツキにおけるヒーローは元来完全なる偶像ではなく、ヒーローであろうとする人間であり、感情があるのだ。

(引用:藤本タツキ『チェンソーマン』11巻)
しかし注意しなければならないのは『妹の姉』の絵も作中作品であるという点だ。それは本当の顔ではなく、本当のハダカでもない。キャンバスに象られた、妹に見せるための顔とハダカである。つまるところ、これもまたある種の仮面であり、本論1で目的にあげた背中の"裏側"=正面の読解の結論は曖昧なまま終わる事となる。

この点に答えは出なかった。
しかし、見せない"顔"の代わりに、見せたい自分を見せるという新しい構造の可能性を示したことは無意味ではない。
この構造の発見は『ルックバック』という傑作の完璧さを崩すための楔であり、神のように崇められる藤本タツキという孤独な天才を人間化するための儀式だからだ。

本論2 背中の”後ろ側”を見ろ(扉論)

本論1においては、藤本タツキ作品における顔について確認した。そして「藤野」という漫画家を漫画家ヒーローとして成立させるために顔を隠しているという強い読解をした。
ただし、ここには欠けている視点がある。すなわち、ヒーローをヒーローたらしめる存在、つまり背中を見るものの視点が欠けている。
ここにおいて、『ルックバック』のBackを再解釈し、背中の”後ろ側”を見ろ、というメッセージを受信してみる。つまり、背中を見たがっている存在について確認したい。
単純に考えて、それは描いている作者であり、読んでいる読者だろうか。もちろん、その視点はメタ的に正しい。しかし、"後ろ側"には作者と読者の他に、概念的な存在幾つか設定しているように思われる。ここで検討したいのはとりわけ扉、そして悪魔についてである。

カメラマンという視点人物の導入

ここではまず藤本タツキという作家における基本的な画面制作スタイルについて確認したい。
注目したいのはとりわけ『ファイアパンチ』における「カメラマン」の視点である。

(引用:藤本タツキ『ファイアパンチ』2巻)

ここにおいて、カメラマンという視線人物が漫画内において登場している。藤本タツキの漫画はしばしばカメラマンの存在を意識させるような描写がされる事が多い。

カメラマンの切り取る世界

『ルックバック』においても、カメラマンという視点人物よって、背中が見られている可能性がある。それは次の引用部において確認できる。

(引用:藤本タツキ『ルックバック』)

この京本がピースを向ける先にはカメラを向けた藤野がいるだろうということが想像に難しくないように、ある一面においては間違いなくカメラマン的な視線が配置されている。

そしてそれは恐らく藤本タツキが対比的な描写を度々用いる事からも確認できる。

(引用:藤本タツキ『チェンソーマン』3巻)

(引用:藤本タツキ『チェンソーマン』7巻)

(引用:藤本タツキ『チェンソーマン』9巻)

ここではカメラマンによる、同じ構図における画面の切り取りが行われている。これは似た構図を好む傾向の指摘にとどまらず、藤本タツキ(=監督)の、その後の展開に関する不吉な演出企図を示している事は『チェンソーマン』の読者であれば了解可能だろう。
加えてこのカメラマンという視線人物の導入、あるいは作者の視線の分離(ここでは便宜的に遠視化と書くこととする)は、コマの外側に別レイヤーの導入を可能にしているかもしれない。

悪魔のレイヤーの導入

その奇妙な描写方法は『チェンソーマン』において現れている。

(引用:藤本タツキ『チェンソーマン』3巻)

(引用:藤本タツキ『チェンソーマン』8巻)

(引用:藤本タツキ『チェンソーマン』8巻)

(引用:藤本タツキ『チェンソーマン』8巻)

これらは全てコマ外から我々の視界を直接ジャックするように現れる「悪魔」の描写である。カメラマンの写した世界(=レイヤー1)、つまり登場人物の生きる世界が、コマで切り取られた世界だとするならば、悪魔はその一つ後ろのレイヤー(レイヤー2)、コマの外側に設置されている。

扉の向こう側で悪魔が見ている。

コマの外側は悪魔がいるかもしれない。この指摘はただちに『ルックバック』という作品に接続する事は出来ない。それ故にやや遠回りする事になるが、悪魔についての検討を進める事とする。
悪魔は第一にコマの外側(=キャラクターの認識の外側)にいる存在だ。そして第二に、悪魔は扉の向こう側に存在するのではなかったか。

その描写は『チェンソーマン』の地獄の表現において現れる。

(引用:藤本タツキ『チェンソーマン』8巻)

見てわかる事として、地獄には無数の扉があり、扉の外には悪魔がいるということ、そしてそれらは内側にいる人間を外側から見つめているという点が挙げられる。
この時、扉とは悪魔とコマ内世界の"境界のレイヤー"として設定されているのではないかと考えてみてもいい。この点を深めていくと、不吉な演出の裏側には扉が配置されている事が多いと指摘できる。

扉の向こう側には死が待っている

(引用:藤本タツキ『チェンソーマン』10巻)

(引用:藤本タツキ『チェンソーマン』9巻)

これらのシーンを知っているものにとっては明らかの通り、扉の先にあるのは悪夢のような展開である。
扉の向こう側とは、コマ内世界においては不吉な出来事が起こる世界である。
それ故に本論を検討した我々は、扉を見るや否や、死の予感を感じ取らなければならない。

悪魔がいない世界における扉の向こう側

ここでようやく『ルックバック』で描かれた扉の意味について考える事が出来る。扉はこの前提を踏まえた時にどのように描かれていたか。

(引用:藤本タツキ『ルックバック』)

まず1枚目のシーンについてだが、ここにおいて扉を開く事とは分割世界のルート分岐点である事を思い出す事ができる。藤野が後に、自分が漫画を描かなければこんな事にはならなかったと自責するが、藤本タツキの視点においてはこの時点で死の予感を表現しているのではなかったか。
また2枚目のシーンについて、襲われる直前の京本が美大で描いているのも扉であり、その後京本に死をもたらす存在も扉を開けて現れる。
加えて言うのであれば、後者の京本が描いた扉は『チェンソーマン』のセルフオマージュであることは広く知られてもいる。
この指摘でもって、扉の向こう側の不吉さについては『ルックバック』においても有効だと考えられないだろうか。

不吉な扉越しに死を期待する目線

改めて、背中の"後ろ側"を確認してみる。
まずは具体的に、部屋の配置を確認してみよう。作中で背中を描かれるのは藤野と京本であるが、その背中の後ろには何があったのか。

(引用:藤本タツキ『ルックバック』)

ほとんどのシーンで背中が映されるのはこの二つの部屋であるため、バックにあるのは扉であると確認できる。本論においてそれは不吉を表す概念だ。

ここにおいて、コマの外、扉の外に追いやられた我々読者はまさしく悪魔の位置、登場人物の死を期待する悪魔の目線を持っていたと解釈できないだろうか。
読者がフィクションにおいてしばしば悲惨な死を期待している事は、藤本タツキという過激な死を描く作家が多くの読者に受け入れられている事からも考えられる。
『ルックバック』において幾度となく繰り返される背中の描写に不吉な何かを感じる事はなかっただろうか。
ここにおいて背中の後ろ側にあるのは、第一に扉であり、扉越しに悪魔の視線を送る読者である。

本論3 我が身を振り返れ(藤本タツキ的偶像論)

ここまでの論を改めて振り返る。
本論1ではbackを裏面と解釈し、顔に注目する事によって、隠された顔=背中にある種のヒロイズムを読み込んだ。
本論2ではbackを後ろ側と解釈し、扉と、扉の外にいる悪魔的視線に注目する事によって、背中を見つめ続ける描写に不吉なものを読み込んだ。
この二つの読解は何を意味するのか。本論3においてはこの二点を対照的なものとして捉えて読解を深めていきたい。
この読解の基礎には『ファイアパンチ』におけるアグニに向けられた二重の視線を置いている。次のシーンを確認してみる。



ここで示されているのは、第一にアグニはあくまで人間である事、そして第二にその人間に向けられた視線が「神様」と「悪魔」に分離している事だ。藤本タツキ的偶像はここにおいて二つに分けられる。
この点は、本論2のはじめに挙げた問いの中にあった、ヒーローの背中を見るものの視点を更新し、偶像の一面を見るものとして捉え直す。

我々はいつでも藤野の背面しか見ていないのであった。その背面に我々は何を読み込んでいたのだろうか。

悪魔的読者の論

本論の前において、藤本タツキに対する祈りの読解は一面的だと言った。先に述べたように、この一面が間違っているとはやはり言わない。
しかし、このような読解は藤野の、引いては藤本タツキの神格化であり、偶像化である。言ってしまえばこの時読者は「ファン」であり「信者」であった。
それは、「チェンソーマン」の「ファン」を自称するマキマやアグニ教の「信者」達が人間としての「デンジ」や「アグニ」を見なかった事と相似する形で、人間性を疎外した読解だと言える。
その為、ここではあえて「ヒーロー」としての読解を退け、偶像のもう一面、「悪魔」的読解を進める事とする。それはどのような点から確認できるか。

序論において、分割された世界の読解が曖昧なまま放置されたままであった。既に述べたように、この点には二重の視点が許されていたのであり、かもしれないの次元の世界はあったのかどうか不明瞭なままに読解を終えた。しかし改めて考えてみると、読解モデル2における「藤野の想像力、妄想」説においては、創作者としての業が刻まれている事がわかる。


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