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心のもやもや、雑記

昨日のことですが、Twitterでちょっとしたイキリをしておりまして

お絵描きしてると論文が書けない〜
そもそも漫画の続きの提出を友人に求められてる〜
自分の中で最も主軸に置いてるコミケ用原稿も描かなきゃ〜

という心境についてツイートして、
自分は忙しく創作活動に勤しんでいるぞ
僕は決して暇な人間ではないぞ
、とアピールしてみたんですね。
誰にアピールしてるのかはよくわかりませんが……多分自分のため。

心の安定/不安定が絵に影響するようなので、
俺はちゃんとやっているぞ〜と
自分を洗脳
していたんですね、いつものように。
そもそも論文を書くこととお絵かきをすることを
両立させることは難しいわけです。
それをやってる俺すげ〜と、暗に言っているわけです。むろん

まあ、なんにせよそのような自己満ツイートをしていたところ…
会社員時代の絵描きの知り合いの方から
「普通はそんなもんだよ〜絵上手くなりたきゃ完成させなきゃね」
という旨のリプライを頂きまして

その方は長くイラスト系の活動をされていて、万バズ経験もあり
普段は数千のいいねとリツイートをされる方ですが、
なんか「もやっ」としたわけです。いや嘘ですね。
「もやああああああああああああああ」と
心の中に暗雲が立ち込めたわけです。

どういう心境だったかというと、まずは
「まあ、完成させる気はあるよな」
「だからこうして板挟みになっているわけで」
と多少の話のズレを感じつつ、
「絵が上手くなりたければ」という言葉に
何か焦るような気持ちが湧いてきたわけです。

僕はちょっと前の記事でも書きましたが、
「上手い」「上手くない」という類のワードに多少敏感でして
「『上手さ』とは…そう単純に測れるものではなくてな?」と考えており
また、いくつかの持論があるものでして、その時も

「それは、どういう『上手さ』の話をしているのだろう」

このある種の神経質、病気が始まったわけです
(昨日はもやもやしすぎて、夢にまでみました)

そもそもですが、僕は別に
絵が上手くなりたいとあまり思っていません
自分のイメージを投射できるようになりたいだけです。

次に、そもそも「絵が上手くなる」は
言葉として「ふわっ」とし過ぎていて
目的たらしめていないと考えています。
「絵が上手くなりたい」は絵描きが共有している
一種のスローガンのようなもの、鳴き声に過ぎず
本当はそこから更に個別の目的があるべきだと思います。

例えばこうです。
「絵が上手くなりたい」
→漫画の絵が上手くなりたい
 →躍動感のあるアクションが描きたい
  →そのためコマ割りが上手くなりたい
   →小さなコマに登場する二頭身のデフォルメキャラを描けるように
 →学校の背景が描けるように 

良い例えになっているかはわかりませんが、
「上手くなる」の内実は「出来ることが増える」事に
過ぎない
のではないかという話です。

何故こう思うかというと多少理由があります。

僕は「一枚絵」という観点でいうと、
アニメーターさんの絵が好きでよく集めていて
その方々はプロの中でも更に最前線の方々なので、
当然、鬼のように上手いわけですが、
謙遜なのかなんなのか…意訳すると共通して
皆同じことを言っているわけです

「自分は上手くない」と。


いやいやそれは嘘やん。上手いやん。
知っているやろ?みんなあんさんを認めているから
こうしてイラスト集が刊行されているんや、
流石にそれは無理筋や、あんさん名の知れたアニメーターやぞと。

ついエセ関西弁でツッコミを入れたりもするわけですが、
まあ、一旦本気で受け止めてみることにして
改めてそのイラスト集をじっくり見てみたわけです。

すると、もしかしたら何か勘違いしていたかもしれないなと。
僕はプロの方々に対して、
自由自在にお絵かきが出来る神々のような人間だと思っていましたが、
彼らの中では違うのかもしれないと気づくわけです。

つまり、ある種のバイアスをかけて
一枚絵の群をずらっと眺めていくことで、
彼らの絵には独特の呼吸があり、パターンがあり、
その繰り返し
なんだと気付きます。

適切な言い方かはわかりませんが、
多分、彼らにも「出来ることと出来ないことがある」という
単純なことに気づきます。

であれば、素人の考える「上手い」「上手くない」の感覚と
プロの考える「上手い」「上手くない」の感覚のズレは単純です。

「パターンで出来ること」の見えてる量が全く違うという事です。

プロからすれば膨大なパターンの集積でできた絵に対して
「まだまだ出来ないこといっぱいあるなあ」と思うわけです。
素人はそれをみて知らないパターンだらけなので
「何これどうやって描いてんの?神じゃん(語彙力)」となるわけです。

脱線し過ぎましたが、
つまるところ、この「上手さ」=「出来ること」を
質的なものでなく、量的なものだと考えた時、

全てを網羅している本当の神絵師はいません

アニメーターの世界ではトップオブトップの
宮崎駿は自分は漫画が苦手だと自称しています。

フォロワーが30万人いるイラストレーターには、
面白い漫画が描けるのかというと多分違います。

世界的な人気を誇る漫画「進撃の巨人」が描けることは
絵のデッサン的な意味での整合性を必要としません。

だから、僕は「上手くなりたい」とも
「神絵師」になりたいとも思いません。

「競うな!!持ち味を活かせ!!」とは
よく言ったものですが(範馬勇次郎が)、
競いたくないのです。

コミケで同人誌を売ることは確かに目標ですが、
結果はいっそのことどうだっていいわけです。
過程が楽しいから続けられるのです。

自分の絵は自己鍛錬と自己満足の産物であって欲しいのです。
その点でいうと、自己鍛錬は進んでいますし、
自己満足の度合いも高まっています。

後、「完成」とはなんだろうという事も気になります。
「私は完璧を嫌悪する」とはよく言ったものですが(涅マユリが)
「完璧」があり得ないのと同様に「完成」もあり得ません。
そうでなければリテイク、リメイクなどが発生するはずもありません。

よって、我々が作れるものは常に
「自己満足」か「締切」によって
切り出された「未完成品」
です。

だから、実のところ僕は「完成」を
目指す必要もないなあと思っていて、
中途半端な状態でも自分にとって
終わってしまったものは提出してしまいます。


誰がなんと言おうと、僕は趣味でやっているのです。
「〜しなきゃだめ」という、
「仕事」的なものにはうんざりしています。

だから、好きなことを好きなようにして
人生が終わった時に、
少しだけこの時の思い出を振り返りたい。


(啄む亭血液法師)

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