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晩夏呼木(136さん怪談朗読会in太宰府書き下ろし作品)

 昔、山で奇妙な経験をした。

 夏の終わり、山の麓から、向かいの山の稜線へ沈んでいく夕陽を目を細めて眺めていた。ひぐらしの鳴く声が、あちこちで重なるように響いてうるさいほどだ。

 この時間になると、なんとも寂しい気持ちになる。一日が終わってしまう、家へ帰らなければならない。でも帰りたくない。相反する気持ちが入り混じって、胸が一杯になってしまう。この感情の名前が俺には分からなかった。

 さっきまで一緒に遊んでいた友人たちも、午後五時を知らせる時報を聞いて次々と家に帰ってしまった。我先にと去っていく彼らが、なんだか羨ましくて、恨めしい。

 帰らないの、と背後から声をかけられた。

 そう聞いてきたのは、一緒に遊んでいた内の一人だった。

「帰りたくない。まだ遊んでいたい」

 そっか、とそいつは告げて、俺の隣に腰を下ろした。田んぼを覆い尽くす稲穂の上を赤とんぼがじぐざぐに絵を描くように飛んでいる。

「お前はまだ帰らなくていいのかよ。あんまり遅くなると叱られるぞ」

 大丈夫、とそいつは微笑んで、俺の手を取った。ひんやりとした白くて細い指だった。

 遊びに行こうよ、と愛らしく笑う。

「でも、帰らないと」

 母さんが可哀想だ。家に帰った時、誰も迎えてくれなければきっと悲しむし、心配するだろう。

 ちょっとだけ、と手を強く引かれて、思わず立ち上がってしまった。

 祭りがあるの、とそいつは言った。

「盆祭りならもうとっくに終わっただろ」

 そう口にして、不意に疑問が浮かんだ。

「お前、盆祭りに来てた?」

 来てたよ、とそいつは怒ったように言って、お面を取り出した。それは舌を出した狐の面で、村の店で売っていた木彫りのものだ。

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